記事とのコミュニケーションと人とのコミュニケーションは違うということから
[ブログ作法]罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題
確かに外側から見たらその場は異様な場として映るので、「雑魚」とか「白痴」という言葉が飛び交う場こそが問題の温床に見えてしまいがちだが、それはネットイナゴなどの匿名投稿問題を「2ちゃんねる」などの匿名掲示板の場が問題と片付けてしまうようなものなのではないだろうか。個人的にこれは記事と付き合うか、人と付き合うかの問題と捉えたほうがいいように感じる。例えば加野瀬氏は書いてある言葉に着目し、「雑魚だから雑魚なのだ」「冗談だから」というMarco11氏なりの言い訳を「理解できない。」と認めない。対照的にこの方は書いてある記事よりもMarco11氏自身に注目し、「萌えキャラ」としてMarco11氏の発言を許容している。加野瀬氏とMarco11氏を擁護する人で、見ているものがまったく違うのだ。なのでこの記事では、お互いの対話・コミュニケーションスタイルに着目して、文章を書き進めていくことにする。
――まずは「人と付き合う」場合においての行動というものを考え直すことから始めよう。私は「人と付き合う」とき、相手から得られる知識や意見のみを判断材料としない。「偶然であった同じ絵描きだから」「同じ学校だから」「遊んでいると楽しいから」などなど、ブログ同士で交わされる記事のやり取りで得られるもの以外の理由で交友関係を結んでいる場合がほとんどである。そしてそういった要素で結ばれているがために、他の要素で相手に落ち度があったとしても許容してしまいがちである。例えば自分と相手がMMORPGで繋がる相手だったとして、相手が自分が好みの要素(と言ってしまうと硬いので、アニメやラノベなどを想像して頂きたい)を「嫌い」と言っていたとしても、MMORPG内の狩りメンバーの和を保つためにその事に対しては反論しない――というようなケースはどうだろうか。更にこのような交流は、どのような所でも起こりがちである。加野瀬氏は冒頭で挙げた記事で、Marco11氏の行動について「これらの行為を見て、どう思ったか、他の人の意見を聞きたい。特にMarco11さんと交流のある人たちに。」と述べているが、当然ながら見て見ぬふりだろう。先ほどのURLでの万引き常習者のマイミクたちの交友関係の間に、彼のバイト先である100均は関係が無いのと同じく、自分にとっての他人がMarco11氏から何と言われようが、きっと関係ないと思うのだろう。
また、「嫌い」を見逃すコミュニケーションには一つのメリットがある。「嫌いを見逃すことによって、許容値を広げることができる」ということである。相手が私的なコミュニケーション領域でハメを外した時、それが許容されればその範囲までなら常識外の行動をしてもよいという不文律が生まれる。そして自由な行動が許されるコミュニケーションの場は交流にかけるコストが少なくて済み、わずらわしい作法(見知らぬ人と会話するときの敬語でのやりとり、等等)の為に気を配る必要がない。それに加えて、ブログやソーシャルブックマークは他人に見られることを目的としたツールである為、Marco11氏の発言を許容できる自分は、なんて心が広いんだと思いませんか皆様!と自らをアピールすることにも利用できるというものだ。
「それに加えて〜」の部分はさておき、marco11氏のスタンスを許容する人は、ネットにおいて現実世界で行われているコストが少なくて済むコミュニケーション作法を持ち込もうと考えているのではないだろうか。(*1)
次に加野瀬氏の場合である。この件について、私と同じようにコミュニケーションスタイルの違いとして考察している方が居られ、私もタイトルや記事中で「コミュニケーション」という言葉を使ってしまっているが、申し訳ないがこれはコミュニケーションスタイルの違いによる問題ではない。加野瀬氏の記事の書き方が「そういったコミュニケーションを好む人」と連想させてしまうだけであり、何より加野瀬未友氏はMarco11氏との交流を一切望んでいない所からして、コミュニケーション問題でないことは明白なのである。実質的に優しくなくて、包容力を感じないのは当たり前であり、加野瀬氏は自身のブログに記事を書き連ねることによって慈愛と滋養の期待と喜びに読者を包みこみ、読者の見るもの全ての光景が美しく、世界は慈愛にあふれ、この地球上の全ての人類が分け隔てなく幸福になる可能性を信じ、ブログの全体から放出される幸福なオーラは足立区、東京、いや全宇宙を包み込み、加野瀬氏が歩く端から大地はトトロのアレ見たくモリモリと花や草木が生えだし、空を飛ぶ鳥達が加野瀬氏の肩に止まり、狼や獅子やリスやウサギ達が種族の垣根を超え加野瀬氏の後ろを付いて歩いていくようなネット活動をしているわけではない。多分。
では「記事と付き合う」ということはどういうことか。まず認識されなければいけないことは、ブログはコミュニケーションツールではないということだ。このことは以前述べたことがあるが、この問題を語るために、この記事へ“今ここにいる私”を表現しようとするにはブログの記事だけでは語りきれないという文章を付け加えたい。感傷的に言えば「今という時はすぐ過去になる」という言葉になるだろうか。いくら「今の自分の気持ち」を記事に定着させて表現しても、時間はそれをすぐに過去にしてしまうのである。そしてネットは記事を永遠に残す。更にネットでは過去の文献も現在の文献も等価で扱われる為、過去の自分が間違って今の自分と評価されることもあり得、ネットで用意されている多種多様の発言場所において、記事を元に勝手に“自分のイメージ”が構築されたりしてしまう可能性が生じてしまう。コミュニケーションを目当てにブログの記事を書くとき、ついて回るのは必ずイメージ戦略――それも誤読と誇大解釈のネガティブな恐怖なのである。
だからこそ、加野瀬氏はファックコミュニケーションに基づく記事の応酬を許容しないのだろう(*2)。それは誤読と誇大解釈を行わないためであり、そのために記事に書かれた言葉や文章を重視して公共性を求めるのではないだろうか。そしてこの行為こそ、私が「記事と付き合う」と表現したいものなのである。
では今回の事例は、単に記事を見るか、人を見るかの違いなのだろうか――いや、Marco11氏を擁護している人は、きちんとMarco11氏を見ているのだろうか。それは暴言を見逃すなどといった問題ではない。私はこの件について、同人社交界隈でありがちな「同人作家という肩書きを利用して、コミュニケーションを図る人」が起こす問題と強い類似性を感じた。
「同人作家という肩書きを利用して、コミュニケーションを図る人」――かれらエセ同人作家たちにとっては、自らが作る作品は二の次でしかなく、コミュニケーションこそがもっとも重要なものである。つまり自分が「同人作家」というキャラで存在し、そうして交流することが大切なのだ。しかし中身の無い交流はお飯事でしか無く、継続的に他人から同人作家と言われないと彼らは同人作家として存在できない。そのことが更に、彼らを「同人作家」という肩書きへ執着させていく。(*3)そしてそんな相手を褒めるのはローリスクハイリターン。褒め言葉は社会的に「いいもの」として共通認識が流通しているので(*4)発言コストは0に等しく、それに相手が「こういう自分を見て!ここを褒めて!」と主張している所を褒めてやると相手の理想的アイディンティティが満たされて、「僕を承認してくれてありがとう!」と褒めた自分も満たされることができる。虚構のイメージによるそんなやりとりは、果たして「人と付き合う」ということなになるのだろうか。そう、Marco11氏の発言ではなく発言主体と付き合えと言うような人は、内実の無いコミュニケーション目的の発言に幻想を見ているだけであり、勝手に自らが「萌えキャラ」化したMarco11氏像について語っているだけなのだ。そんなものはコミュニケーションではなく、只のイメージの擦り付けである。その分、残された記事を元に文章を組み立て、自分の意見をまとめている加野瀬氏の方が、よほどコミュニケーションに積極的だと私には見える。
最後に自分自身についてのことを書く。私は好きなゲームのキャラクターのイラストを描いてサイトで発表したりと、同人活動を行っている。そういう私に対して「newさんは同人作家」だからと交友しようとする人が時々現れる。そういう人は大抵、私に対して「同人作家」という幻想を付与したいが為に交友したいだけであり、私に対しては一切興味が無いのだ。私は寂しいから、人に構って欲しい(=感想が欲しい)から絵を描いている訳ではない。ただ自分が描きたいから描いているだけである。安易に誰かを認めたがる人は、認めた誰かが自分の勝手に思い描いた虚構でないかを、よく考え直して欲しい。相手に理想を見出すのもいいが、描いた理想が自分本位なものではないか、問い直して欲しい。言葉を変えて繰り返すが、ブログの記事はコミュニケーションのためのネタではない。だがしかし、その記事が自分の琴線に触れ、その記事に対して勇気を出してリアクションを持ちかけた時、その応酬から何かが生まれることがあれば、それこそがコミュニケーションが生み出されるきっかけというのものではないだろうか。
コミュニケーションという空想の概念は、自ら生み出すものではなく、偶然の産物として立ち上がってくるものだと私は思う。だからこそ私はブログにコミュニケーションツールとしての役割を求めない。しかしそれこそが、この長い長い記事を最後まで読んで下さった貴方に対する、誠実な問いかけになると考えている。
参考:
ARTIFACT@ハテナ系 - 加野瀬さんの筆が素晴らしいぐらいほとばしっている6月12日のすごいエントリー群
世界のはて - [はてな]俺の身内は何があっても正義だし、身内を批判するヤツはどんな理由であっても許さねぇ!それが俺のジャスティス!!(id:Marco11) 身内と敵という切り分け方が、コミュニケーションという幻想を立ち上げる要因になっている気がする。
*1:ここで非モテの方から「現実世界ではコミュニケーションコスト高杉」と指摘されそうなので弁明する。これは「あくまでその輪の中に居る場合」である。輪の外から輪の中に入ろうとすると膨大なコスト――文中で述べた、そのコミュニケーションの場で通用する=その場でしか通用しない不文律を読み取らないといけない上、不文律は不文律であるが故、大抵の場合ほめのかしでしか語られない、と思われる。それ故に曖昧模糊としてつかみ所が無い「空気」を読むことを強制されるのである。
*2:加野瀬氏自身がファックコミュニケーションを持ちかけられた場合に限定して。繰り返すが、加野瀬氏はMarco11氏との交流を望んでいない。しかし、継続的な人間関係を作りたいと思うのなら、罵倒は相当不利になることは覚悟したほうがいいと述べている通り、加野瀬氏はファックコミュニケーションスタイルを容認している。
*3:この部分は非常に分かりにくいので、次回のエントリーで事例を挙げて分かりやすく書き下し……たい。
*4:自分は正直、お世辞の要素が高い褒め言葉は、相手が言葉の裏を読み取って傷つく可能性があると考え、あまり使わないようにしている。「わるい」褒め言葉もある、という認識だ。