« 200704 Back to Top 200706 »

open 00.12.03
Last Renewal 04.



20070528

北朝鮮で2001年あたりに作られたであろうアニメ「リスとハリネズミ」最新版

ちょっと前、アニメ!アニメ!に掲載されていた「知られざる北朝鮮のアニメーション産業」という記事を見て、

レポートによれば北朝鮮の映画産業とアニメーション産業の発展は、金正日の個人的支援が大きな影響を与えている。このため従業員1600人を抱える国営アニメーション制作会社SEKを中心に、北朝鮮のアニメーションの制作技術は非常に高いという。

という記述にほんまかーとか思っていたら、ついこの間知人から以下の動画の存在を教えてもらってびっくり。



リスとハリネズミの続編が作られてる!

どういうこっちゃと思って検索してみると、このページがヒット。リスとハリネズミの箇所だけ引用すると

1997年になって,朝鮮4・26児童映画撮影所による『リスハリ』シリーズの制作予定が伝えられると(「朝鮮新報」日本語版),99年には早くも第13〜15部(!)の制作が(「文芸年鑑2000」@韓国,「韓国日報」),さらに2001年には第19,20部の制作が報じられている(「民族通信」@LA,朝鮮通信社@東京)。

ということらしい。出てくるクジラが3DCGとか、デジタルエフェクト使ってるとか、「金日成のパレード」時代で北朝鮮の映像文化理解が止まっていた自分にとってちょっと衝撃的。しかも冒頭のアニメ!アニメ!記事によると、「同国のアニメーション企業は、欧米企業や日本企業の下請けも行っている。その中には『ライオンキング』や『ポカポンタス』、『忍者タートルズ』なども含まれている」だそうなので、今放送中のタートルズアニメで北朝鮮グロス回とかも存在するということになるのか!?(wikipediaの記事から推測するに、現在テレ東で放送中のタートルズのアニメは2003年版。そして「リスとハリネズミ」のクオリティを考えると、2003年当時でも下請けは問題なく可能そうだ!)

政府主導でサブカルチャーを盛り上げようとしている現状、北朝鮮が同じように外貨獲得の手段としてアニメに目をつけてもおかしくないわな……ってそういう話ではないか。ちなみに「リスとハリネズミ」で個人的にぐっときたのは千里馬精神で作られた(であろう)1コマ2コマ打ちのフルアニメーションとか、二つ紹介した映像の後のほうのものにある、5分30秒あたりにあるアクションシーンとかではなく、背景の垢抜けていないプロダクションデザインだったりします。出てくるものが北朝鮮の最高水準であろうというデザイン臭がして(参考:なんかこういうカンジなの)涙涙涙。


ちなみに最近話題のニコニコ動画でも空耳字幕民によって勝手に「長谷川」とかキャラ名付けられて愛されてるみたいです。

というか獣人タグつけたの誰だよ!(苦笑)

コメント (0) | トラックバック

20070527

ネットにおける“俺ケット”の存在について

例えば私が中学生時代、ネットで交流する相手に対して失礼にならないようネチケットというものを学校の先生から叩き込まれまして。ネットには色々な人が存在するのだからお互い節度やルールをまもって楽しく交流しましょうと言われた訳です。
しかし現代日本は個性尊重社会。いや学歴社会、横並び社会のこの日本国でせめてネットだけは俺の自由にさせてくれという叫びの表れなのか、ネットにあふれる膨大な人間を利用して自分の好きなタイプの人のみと付き合うという社交スタイルが可能になった今、はしご禁止的な俺的ネチケットつまり“俺ケット”が各個人コミュニティっつーか各個人の間で無尽蔵に生成されてきているという個人的印象があります。こういう“俺ケット”はよく「最近の若者はマナーがなっとらん」ということで時折話題になるのですが、先ほど推定年齢30歳ちょい上と思われる方が全く無関係な人をさも知り合いっぽく「〜くん」呼びしてしまって、相手から「知り合いでもない人に知り合いかのような呼称で書いてほしくない」と言われてしまっていた現場を目撃してしまいまして、どうやら“俺ケット”に年齢も何も関係ないようです。ちなみにこの事例は結局、「〜くん付けするのも相手の自由だし」に落ち着いていて、ああこれが日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」なのだな、と、ネットに生きる憲法の偉大さと社会における基本的人権の大切さを勉強させて頂きました。
まぁ自分と波長が合わない人とネチケット守って交流するよか、自分と波長の合う人のみと付き合ってルール&マナーおかまいなしに付き合ったほうが交流コストは圧倒的に少なく済んで精神的に楽だからそれはそれでいいんですよね。現実世界で擦り切れてる分、ネット世界では羽を伸ばしたいでしょうし。しかも相手に社会的常識を盾にルール遵守を求めたら、最悪相手がぶち切れて国交断絶+相手の仲間内で根も葉もないことを吹聴されたりするというリスクも考えられるわけで、どうしても日本国憲法第19条大前提大遵守で物事を運びがちになってしまいます。更にネットにおいては、ネットユーザーが出す情報は統制でき、あるいは無意識の内に制御されていたりします。なので自衛のため、あるいは自らの美化や演出のために発言や口調、使用ツールを取捨選択することはごくごく当たり前に行われているのですが、問題点としてネットはほとんどが公衆部分である(特に自分を演出するタイプの人にとってはみんなの前に晒されないと意味が無い)というものが上げられるので、生成した俺ルールが相反する者同士で悲しいコンフリクトが生じてしまうことがあるのです。つまりさっきの事例ですね。ループ。

この文章自体がその体で表している通り、今後未来永劫解決されることは無いであろうこの出会いと別れと胸のもやもやのスパイラル。個人的に作った名称は不幸な出会い。私の場合を例に出すと、『年下相手でも年上相手でもよっぽどのことがない限り「〜さん」付け以外で呼ばない』という個人ルールから時折『年下相手には「〜くん」付けで溜め口で話し、年上相手には「〜さん」付けで敬語と使い分ける』文化圏の人に胸のもやもやを感じるということがありました。
私の個人ルールは大昔、年齢は基本的に非公開の由緒正しいファンサイトの掲示板に入り浸り、「相手の事を親しい呼び名で呼ぶ場合は相互認証が必要である」というネットマナーで生きてきた経験から生まれたものなのですが、自分の今の主な交流手段であるmixiでは、自分の年齢を表示する機能があるんですよね。この機能をお互いONにしていると相手が年下or年上であるということを認識できるので、時たまこちらが年下だと分かると「〜くん」と呼称た口調で話される方がおられます。ああ、親しみを込めて可愛がって下さっているのかなーと思ったら年上相手にはきっちり礼儀作法をわきまえて「〜さん」付け+敬語だったりで、なんだそれ単純にネットに部活・サークル・職場の順列を持ち込みたいだけなのじゃないのかと感じたりもしたのですが。
でも「〜くん」には対等に扱うつもりはないという意味でのくん呼びと人生の先輩として俺が色々と教えてやるぞという意味での「〜くん」呼びの二種類があるんですよね。前者は「私はあなたの部活に入った覚えは無い!」と胸がもやもやするだけなのですが、後者の場合だとありがたさのあまりに「い、一生ついていきますぅぅぅぅ!ダンナ!」と涙の一滴や二滴流してもいいハズの呼び方で。だがしかし、仮にそうだったとしても、なんでかその人が先輩として色々と教えてくれることはなくて、行き場の無いこの想いをどうすれば納めることが出来るのかとランニングトゥホライズン。霧に閉ざされた光ファイバーの中で先輩の背中を見て育つにも、見えるのはただオタオタしいことが書かれたMSゴシックの文字列のみ。謎です。
まぁ、年下には「〜くん」で溜め口、年上を「〜さん」で敬語と呼び換えるのは「そういうものだ」の七文字で済ませてしまえばいいことなんですよ!理由は、そういうものだし。それに私は大昔の経験に加え、ずっとネット浸り同人浸りでブログや同人誌ばっかり読んでたニンゲンで、同人だと作品、ブログだと記事同士で対等に情報を交換し合う風景を見てきたので、ネット世界に現実世界の規範を持ち込もうとする人たちに対して違和感を覚えちゃうだけなんですよね。自分だって、リアルワールドで先輩後輩として付き合ってきた人たちに対してはネットでも「くん」呼びしちゃってますし。
……でもネットでも年下年上を意識しちゃう人って、とりあえずオタクと仮定して、将来自分より年下のクリエイターが出てきたら、やっぱり「〜くん」付けで呼んだりするのでしょうか。謎です。

――さて、クリエイターという言葉がでてきましたが、自分がこんなことを感じてしまうのも、結局は自分が同人活動として絵を描いてるからでしょう。先ほど同人界隈だと建前では作品が対等に扱われると述べたのですが、結局参加者それぞれの心の本音では、どうしても優劣をつけてしまうものです。大抵その優劣というのは、気が合う仲間内でしか表明されないのですが、ミクシィ内で露骨に行動することにより、その本音が露呈してしまうといった所でしょうか。しかし私は絵が下手なうえ、実際ピックアップという形で優劣の優を作ってしまっている以上、いくら本音を見てしまったところで心のタバコを吹かす――いや、「それが世界の選択か・・・」と寂しそうに呟き、「あぁ、わかってる。あいつなりの考えだな。ラ・ヨダソウ・スティアーナ(別れの合い言葉、意味はない)」と独り言ちて、まわりの奴らに脅威を与えるのをやるだけです。「俺だ、○○(相手の名前)はどうやら俺を絵描きと認めていないらしい・・・」「あぁ、わかってる。あいつなりの考えだな。ラ・ヨダソウ・スティアーナ(涙)」
……しかしそうして「ラ・ヨダソウ・スティアーナ」と言うだけで気が済むもやもやだったらいいんですけど、普通人付き合いって俺ケットを主張する前に相手を尊重することからはじめますよねぶっちゃけ?まず相手を一人の人間として認めるところからはじめればコミュニケーションは円滑になると思うのですが、やっぱり自分と波長の合う人のみと付き合ってルール&マナーおかまいなしに付き合ったほうが交流コストは圧倒的に少ないでしょうし以下ループループループ――
――以上、無理やりまとめるならば、ネットは普通に暮らしていたら絶対出会えないような人と交流できるツールであるということ他に、普通に暮らしていたら絶対できないような交流ができるツールであることを忘れるな、という言葉になるのでしょうか。ちなみに、「newくん」と呼ぶ方はその人の仲良しグループの内ですこぶる評判がいい方です。なのでやっぱり、謎なのです。

参考エントリー:ARTIFACT@ハテナ系 - 「愛がない」と言ってるけど、相手が自分の好みのものを作ってくれないというだけでしょ?
オタクはどうして鳥坂センパイに憧れるのか? : ARTIFACT ―人工事実―

コメント (1) | トラックバック

20070510

■ゆとり世代の瞳の輝きに俺は明日への希望を見たね■

ついこの間、20歳前後の人たちと会って話す機会に恵まれた。俺に遠慮しているのかどうかわからないんだけど、何かと口を開けば「ゆとり世代ゆとり世代」と、下の世代への愚痴ばっかりだったんだ。こういう光景をおもわず見ちゃうと、どうしても「ああ、オタクは自分が先輩になって、安定化してしまった瞬間にダメになってしまう」と感じちゃうね。
元々こういう「これだから最近の若者は」っていう定型句は、40歳ぐらいの安定しきった人生を歩んでいるオジサンや、社交的でコミュニケーションセンスにあふれる若い一般人たちが、甘酸っぱさを忘れずに永遠の思春期を過ごしてしまっている俺たちに対して使う言葉だったんだ。シラケ世代とか、新人類とか、最近のトレンドはさっきの「ゆとり世代」になるんだけど、この言葉を聞いていてマズいと思うところは、若いオタクが、一つ二つ年齢が下のオタク達に対して使っているってことなんだ。

知識や体験で劣る年下のこどもオタクに対して、「先輩がオタクのなんたるかを教えてやる!」と強がるのは、まぁ、許せるんだ。だけど、その人たちが大切にしているものって、たいてい自分の高校生時代に体験したムーブメントとか、いままで自分たちが得てきた情報でさ。らき☆すたのEDを観て、すぐに「どうせゆとり世代はEDに使われた「宇宙鉄人キョーダイン」なんて知らないんですよ」とか言ってしまう。なのに、らき☆すた2話(絵コンテはヤマカンこと山本寛だ)で出てきたミシェル・ゴンドリー監督のPV「Sugar Water」からの画像分割パロディ(画像とこのリンクを参照 追記:そこまで似ていないという指摘もある。)はだれも指摘しないんだよね。ちなみに自分もこのパロディに気づけなくて、「ゆとり世代」に属されてしまった人から教えてもらった。つまりは、ただ単に「あなたとわたしは生まれも育ちもちがう人で、だから見ているものも感性もかけ離れてしまっただけだ」ということを、無理やり世代論に押し込んでいるだけなんだ。
_
(←ちなみにこれは、同じくヤマカンが絵コンテを切ったAirの2話からあの夏、いちばん静かな海のパロディ。真ん中の画像だけだと分かりにくいから、その後のダメ押しカットも入れてみた。映画を見た人なら、一発でわかってくれると思う『手前に空き地 奥に道路と堤防』レイアウトだ。こういうパロディをさりげなく作中に紛れ込ませてくれるヤマカンは、しびれるほどカッコイイ!)

つまりゆとり世代と言っちゃっている人たちは、下の世代の人たちに対してコミュニケーション回路を開けない人たちなんだよね。20歳21歳生きていて得た知識をもとにコミュニケーションに使うんじゃなくて、ニコニコ動画で自分と同年代の人たちと交流するために使っちゃう。この前もイース2のPC88版オープニングを見ていたら、字幕で「さぁゆとり、これがゲームだ」って流れてきて苦笑してしまった。ニコニコ流の諧謔かもしれないけど、OPだけを見ただけでは、ふつうゲームって内容判断できないものだよね。だけどネットにはオタクって言える人たちが増えすぎて、自分たちの年代だけでコミュニケーション欲求が充足してしまっている。そんなところにニューフェイスが入ってきても、相手をしてあげられない訳だ。20歳21歳は大学でいうと3年生で、今年「ゆとり世代」の人たちが1年生として入学してきた。大学のサークルとかではきっと、後輩の面倒みるのが大変な先輩とか出てくるのだろう。1つ下の学年に対しては親近感を持ちやすいけど、2つ離れるとそうでもないからね。だから思わず「ゆとり世代」っていう言葉を使って、彼らを弾いちゃうんだろうね。それに上の世代の人たちが、知識が持っている奴らがエライ!っていうことで下の世代を教化してきた歴史があるから、それを繰り返しているだけじゃないかって思えてきて、俺はすごく複雑だったりするんだ。知識が重要なんじゃない、青臭い情熱さえあれば、人は誰だって生きていけるんだ。

だから俺はさげすまれている「ゆとり世代」に、希望を見出したい。ゆとりっていう言葉の理不尽なところは、「ゆとり世代」は望んでゆとり世代に生まれてきたわけじゃないってことに加えて、教育というほぼ全ての人が体験するところに差異を見出した言葉だから、どんな人でも使えてしまうってことだ。これじゃ、89年にコミケ会場に向かって「ここに10万人の宮崎勤が居ます」と言った人と、変わらないね。だからそんな、硬直化しちゃった上の世代にめげずに、若い人たちは自分の道を切り開いてほしい。ヤマトもなかった、ガンダムもなかった、エヴァもなかった自分の少年時代から何を得て、何を作っていくのか。大学入りたての人たちとも俺は話したことがあるんだけど、「Youtubeで作画に目覚めた。アニメ作りたい」とか、「自分のシナリオを生かしたエロゲーを作りたい」とか、やっぱり皆それぞれの大きな夢を持っていた。ゆとりだろうが何だろうが、何かをやらかそうって気持ちは普遍的なモノなんだよ。これからはこういう、俺たちオヤジには分からない体験から作られたメディアがオタク界のメインカルチャーをのし歩いていくんだと考えると、ゾクゾクするね。

80年代にアニメが急成長したのは、ひとえに世間から認められていなかったから。そこには怒りがあった。怒りは、行動の必然だ。「何もない」ことこそが、行動の着火点となる。
忘れてはいけない。日本で商業アニメが爆発的に発展したのは不遇の時期があったればこそ。アニメなんて、文化として認められちゃいなかったのだ。
それと同じように怒れとか、反抗しろとは言わないけど、俺は決して自分を諦めないでほしい、とは思っている。だいたい、俺は作品にも人間にも完成度なんか求めてないもん。キラリと光る個性があれば、それで愛せる……とか言っても、結局これは繰り言に過ぎないんだけどね。作りたい人はこんなオヤジの言うことなんかほっといて、勝手にバンバン作ってるよ。俺もそういう、「人生のための仕事」に早いこと取り掛からないと。


……ということでフリーライターの廣田恵介さんリスペクト文体でいってみましたが……どんなもんでしょうorz なんかもう話を聞いていると「ゆとり世代は思考の組み立て方からしておかしい」みたいに壮大なスケールまで発展してすげー不愉快だったんですよ。なので心を保つために思わず文体お借りしましたorz 不快に思われたらごめんなさいo... rz あと、廣田恵介さんのブログ「550 miles to the Future」はすごくオススメです。毎回のエントリーがエンジンオーバーヒート気味の完全燃焼なので、見てる自分の心がホットになります。そして尊敬してますorz 大好きですorz

参考:
ダニメライブラリー メガ80's
アートミック発掘現場 メガ80's
club "Bバンカーズ" メガ80's
オタク論!が酷い - よつばの。

コメント (1) | トラックバック