20070425
M3で頒布する同人CD「マニアックすぎて伝わらないアレンジ選手権」に参加してます
来る4月29日に大田区産業プラザPiOで、音楽を中心とした同人即売会「M3」というイベントが開かれるのですが、そこで「salvation by faith records」さんから頒布予定の「マニアックすぎて伝わらないアレンジ選手権」に参加してます。いつもどおりイラストです。
サンプル
特別にって書いてますがなんのことはなくて、主催のAOiRO_Manbowさんが「マニアックすぎて〜に参加したいひとこの指とまれー」と私の至近距離で言ったので「ワンワン!やりたいワン!ワンワン!」と吼えたまでのことで、特段変わったことはせずいつもどおりの仕事をしてきました。
描くにあたって「空気を読んでオギー&コックローチとか」「JADE BLUEさん所のファンイラストを描いてみるとか」「Cat Shit Oneのイラストも面白そうだな」とか色々と思いを巡らしてたのですけど、「構図が思い浮かばない!」「自分だけ気合が入りすぎて周囲ドン引き!」「銃火器とかベトナム戦争当時の軍隊考証KOEEE!」といった諸所の事情から内容がBMS作家さんの作ったキャラクターを元にしたイラストに。
最近絵を描くといったらクロノアとか、人から頼まれた絵とかで他人の目ばっかり気にして描いていたので、「マニアック」を盾に自分一人で閉じこもることができて、いいカンジにヘンなイラストになってくれたかなぁ、と。まぁ自分語りはヤメにして、この曲目&元ネタにピンと来た人は、29日にE32 「salvation by faith records」さんにてAOiRO_Manbowさんとがっちり握手!私は相変わらず行けませんが……。
20070422
最近自分のエントリーが作り手/受け手話ばっかりでうんざり!
あと日記を書くと必ずいつも読んでいるブログの文体をパクっていてドキっとする&そして憂鬱になる。
私の場合はエントリー毎に意識的に、「今日は加野瀬メソッドで」「今日はオオツネモヒカン体で」「最終弁当翁に教えを乞おう」と各エントリーに即したプレイヤースキンを被せたりしている、っていうのもあるんですけど、自分の筆力が未熟だから構成だけじゃなくて文体まで似せていってしまう……。
Something Orangeの海燕さんは栗本薫の文章を理想として模倣しようとしている、みたいなことをどこかで発言されていたのですが(記事失念!)、僕はそうやって理想の文体を定めて近づける、ってことによって筆力を高めていくものだと思っているので模倣が悪いとはいいたくないのですが、知人の中で「自分のスタイルが模倣されて気分が悪い」と言ってるような人もいるので……。
僕は個人的に親近感のある人に対しては「その人が不快になるようなことはできる限り避けたい」みたいなムラ社会メソッドを発動させる人なので、文体をパクる度、どきっとして不安にかられてしまう。そんなどうしようもないつぶやきおわり。
いつから作品は観客のものになったんだろうか
というのはVHS化、DVD化されて販売されたり、ファンの二次創作の具財として大量に頒布される時代になったからかな、というのをここでの書き込みで感じて。
グレンラガン公式ブログ 第四話「顔が多けりゃ偉いのか?」
痛いニュースでもあったのですけど、いわゆる作画崩壊騒動において「DVD買う人にとっては〜」みたいな言葉が批判として有効になっちゃっている現状があるんですよね。「ファンが買うんだから(原作に)忠実に作れ」っていう。
作り手にとっての受け手、受け手にとっての作り手という他者はそれぞれ想像によって形作られるので実在しない存在なんですけど、ソフト化されて手元に置かれると結果として存在してしまうわけで(実際自分も自分が作ったイラストや作品に対して「どう努力したとしても結果がだめだったら仕方が無い」という批判を受けたことがある)。普通だと(とあえて断定)、そうやって届いた作り手の生産物に対して、受け手が「なんだこれは?」と自らの想像の範囲外の印象を受けたとき、「自分はなぜそう感じたんだろう?」と違和感つまり感覚の差異を得たことから「作り手であるあなた/受け手であるわたし」の対話がはじまるんですけど、今のオタクたちにとって作品以前にDVDはグッズであり、知り合いとのコミュニケーション手段である(限定版につくさまざまな特典や、ブログの購入報告を参考)ので、キャラ表通りでないキャラクター(あるいは原作に忠実でないシナリオ)の描写は不誠実とみなされてしまう。
そしてこのことに対して「萌えオタは多様性を認めない!」みたいな批判がなされる場合があるんですけど、現実にはそうでなくて萌えオタは同人というカギカッコをつけた場合多様性を認めている(同人界隈で「原作と絵が似ていない」という批判はあまり有効ではないですし。まぁ「原作への愛が足りない」みたいな批判もあることはありますが・笑)。キャラ表からかけはなれた作画にたいして「同人っぽい」という意見もあり、以上の考えをまとめると、現在の主流なオタ界隈では「公式には無謬性が求められ、それを元に同人はいかに“ネタ”を弄るかが求められている」のかなぁ、と。
アニメ作品が商品としてパッケージングされ、ほかの作品とともにDVD棚に陳列される&流行のアニメ作品を元にした二次創作同人誌が、ほかの作品とともに大量にとらのあなに陳列される。あるいは朝目新聞に大量に投稿される――そしてそれを受動的に享受する、みたいな消費行動様式ができてしまった現在、消費ベルトコンベアーに載らないグレンラガン4話みたいなものは“不良品”とみなされちゃうんでしょうね。もしくはそれもネタとして消費されて、「グレン4話の作画は俺にはキモく感じられたねー」みたいにネガティブ語り草にして作者と対話する前に2ちゃんやニコニコ動画で名無しと対話する具財へと変形させる。そう、作者は(そして同人作者も)いかに消費ベルトコンベアーを上手く回すことだけが求められ、もはや作者はそこに存在しない。する必要がない。
過去、未来問わず(ニコニコ動画では旧作アニメが懐かしさ発動装置として大量に投稿されている)アニメが大量に手に入り、ネットではそれについて語り合える大量の“オタ友”と交流できる場が設定されている現在、個性的な作画が叩かれる風潮は変えられないでしょう(遠い作者より近くの知人の方が親近感を得られやすいですし)。まぁ、もしこの問題が「DVDとしてパッケージ化される時に何をもって完成品とするか」に限定されるならば、もともとブーたれる奴らはDVD化されても絶対買わない層だから放置でおkなんですけどね。本当にその作品が好きなファンは黙ってDVD買いますよ。
参考エントリー:Something Orange - ジャンルフィクションの魅力とは何か。
20070408
なので
「newさんが怒ったとき」の続き
「お前の意見は強烈だからもうちょっと場と距離取ってくれよ」がいいのかなぁ。空気で場を包むよりも、場の中心を設定して、そこと各自のポジションの距離で場を設計するとよさげな気がする。
newさんが怒ったとき
A「お前もうちょっと場の空気読めよ」
B「ハァ?お前が吸ってる空気と俺が吸ってる空気は全く一から別種のものであってお前の空気なんぞ肺腑が焼けるから1マイクロリットルたりとも吸いたくねーよ!」
自分の意見を同調圧力に転嫁して求めてくることが苦手です。場の空気なんて不定形なものだからどんな風にでも変形できるからなぁ。
20070406
だけど批判的でネガティブな気持ちも創作の原動力なんだよね
まなびストレートの感想絡みで注目された「アニメに対して批判することの意味」みたいな問題ですが。何かを褒めることはとても健全なことなので、記事の論調が「作品を褒めて楽しくなろう」っていうものが受け入れられるのはまぁ分かるんですよ。
ただ、「こんなのはダメだ!」っていうネガティブな気持ちが創作全般の原動力になることもあるわけで。
創作っていうのは平等なもので、すべてひとしく同等に評価すべきではないかと思っている私としては、感想文っていうのもやっぱり人の手で作られたものとして創作物なんですよね。そうすると批評に満たない批判と気分だけの好きという言葉は同等な言葉になっちゃって、なので「好き」っていう言葉にも、批判するときと同じぐらいの責任が求められることになる。しかしこのことには誰も触れずに、好きという言葉に無責任な正しさを求めかけている現状がブログには広がっている気がする。くだけて言うと、好きということはいいことだ!っていう風潮になるかな。
閑話休題、「好きと言うこと」ということを受け手と作り手のキャッチボール問題にあてはめると、受け手の中には「無責任な好きという言葉」を怖がる人もいるという懸念が出てくる。
それは「作り手が意図したものと全く違うベクトルで受けとめられる」ことを例証にしたら分かりやすいと思うのですが、こうやって受け手と作り手が他人である限り、どうしてもそういうすれ違いは起きてくる。
A「お前はちっとはアニメを作っている人たちの顔を想像しろ!」
B「想像したら怖くて批判できなくなるじゃないか!」
A「馬鹿野郎!それでも伝えなければならない言葉が魂の言霊になるんだよ!!!!」
批判であれ賞賛であれ、それが言うべきものだと感じたらどんどん言っていくべきだろう。そしてそういう批判のことが吉田アミ氏の言う「建設的な批判」なのだろう。私は批判をネガティブな気持ちで言うものと思っているので、ポジティブな言葉の感じがする「建設的」という言葉はあまり使いたくないのだけど(笑)。私なら「面白い批判」とでも言うかなぁ。
――何はともあれ、「好き」「褒めたい」と言いたい人たちは、何故「好き」「褒めたい」といいたいのか一度考えるべきだろう。対象物が「好き」だから褒めたいのか、それとも「好き&褒めたいと言って気分を高揚させたい」のか。少なくとも製作者は受け手に対して何らかの意図やメッセージをもって作品を作っている。だからわざわざ受け手が「好き&褒めたいといって気分を高揚させ」る必要はない。なぜならそれはあらかじめ作品中に用意されているのだから。
参考文章:アニメ批判は人を幸せにするか(全てが台無し―雑記帳―) 権威というか、何かを評価する時にどうしても付きまとう「責任」の問題な気がする。ちなみに私は逆に「傑作」という言葉を積極的に使うようにしている(とか言いながらあまり使ってないけど……)。なぜならそこまでして“権威”付けしないと傑作は傑作として浮上してくれないからだ。私にはエゴを超えて評価されてほしい作品がたくさんある。私一人の言葉で作品の世間的評価がどうにかなるとは思い上がっていないが、それでも私は少しでも、その作品たちを持ち上げる人になりたい。