何故オタは中国韓国の過ちを必要以上にあざ笑うくせにまったく同じ知人の過ちは「いや、彼には彼なりの事情があるから」と猛烈な勢いでフォローを入れますか?
そしてなぜ自分が同じ過ちをしたら無言で嫌韓エントリをあげますか?
(テスト用エントリ)
たかみち塗りはそれほど上手くない人が絵をごまかせる塗り方ではないだろうかというお話
はてなダイアリーを散策していたらこんな一文を見つけた。
たかみち氏などのような立体的な絵をそれほど上手くない人が志向すると古臭い絵柄になる
(「Je n’avais pas l’intention d’aller à la mer.-en manière de Haruphilie 」より)
それは大枠として以下の点にまとまるような気がします。
1:デッサンが上手くないのでかっこいいシルエットがとれない
2:レイアウトが気まずい
3:画面に配置する小道具がしょっぱい
4:光源の問題
1:デッサンが上手くないのでかっこいいシルエットがとれない
これについてはおそらく「ラフ絵のほうが上手く見える」問題と同根で。こってりと色を塗ったりするやり方だと「何度でも線を引ける」んですね。輪郭を削ったりして。主線が必要な絵だとほぼ一発描きとかその人の感性でおおきく優劣が決まるけど、こってりたかみち塗りだとそういう主線をあらかじめ引いておく必要が無い。つまりこってり塗りのほうがはるかに描きやすいんですね。
だから絵がヘタな人はこってり塗りで、こってりぬれる分「がんばってる感」は出せて見かけ上の完成度は上がるんだけど、絵が上手くないから「表情がうまく出せない」「デッサンを基本にした輪郭のディフォルメができない」「シルエット(つまりポージング)がかっこよくない」等の問題が発生して野暮ったい絵になってしまうのではないか、という。
2:レイアウトが気まずい
たかみち塗りを「線に頼らない絵」と定義すると、塗りが全てな分細部まで描きこむことができます。
なので画面を小道具で埋め尽くすことなど造作にないのですが、映画の小道具のレイアウトが監督らによって人為的に決められるように、絵画のレイアウトも人為的にセンスよく決めなければいけないわけで。
確かにひたすら緻密に描きこむと見た目のインパクトは増大しますが、それだけでは「うわなんかすごい絵」と鑑賞者に思わせられるだけで、「きれいないい絵」として認識してもらえない場合もあるのが悲しい性ではないでしょうか。
ものが溢れていて雑然としている部屋が汚い部屋なように、物の置く場所ひとつひとつに意味がある描き方をしなければ、絵画を構成する一要素として映えてくれないのではと思います。
3:画面に配置する小道具がしょっぱい
2に関係して、もちろん、雑然と込み入った(たとえば香港の彌敦道(ネイザンロード)みたいな)絵を描くのもひとつの表現方法です。しかし小道具のサイズがおかしかったり、デッサンが狂っていたりすると、ディティール命な絵だからこそ容易に「おかしな絵」になってしまいますし、描いたものにデザインセンスがないと、戦車のはずが「よくわからない虫」になっちゃったりしちゃうでしょう。つくしあきひとや帝国少年のように滅茶苦茶描きこむことによってそれを個性にしている人は、「自分の個性という法則に基づきながら」絵を描きこんでいるのであって、雑駁なイメージのままただ描きこんだらイラストは方向性を失って破綻してしまうでしょう。
4:光源の問題
光源というか光というか。たかみち氏の絵の魅力に「光の照射方向と影を作るものと影を明確にすることによって、太陽があり、空間があり、空気があることを感じさせる」というところがあると思います。私は絵描きは空気まで描けて一人前だと思っているのですが、絵があまり上手くない人はどうしてもそこらへんの光の表現(光によって照らされたホコリとか)に拘れないと思います。なのでのっぺりした一点からの投光な絵で、陰影つけるにしろ薄墨(黒)と白を下絵の上から塗るだけだったりとかしたり。
これは「セツの火のイベントCGの魅力が元絵と比べて半減」問題に明確に現れていて、キャラデザの人の絵はいろいろな光の表現をキャラ絵に織り込んでいるけど、ゲームの塗り師さんは前述記事で加野瀬さんがおっしゃっているように上手いこと再現できていない気がします。
たかみち塗りで古臭い絵柄というととりあえず生頼範義氏を思い浮かべるんですけど、こういう絵は古いとはいっても臭くはないので、どっちかというとミョーに生っぽさが強調された「泥臭い」絵というのがしっくりくるのではないかな、と。昔の絵って恐らく「生々しさ」が一つの評価基準だったと思うので(ムチムチボディのオネーチャンとか)。