20070219
竜騎士07の絵はうまいかどうかという話について
知人が「竜騎士07の絵には味がある。なぜならひぐらしアニメ版やコンシューマー版の絵ではひぐらしの良さが生まれていないからだ」と言ってはばからなく、私は趣味のらくがき師としてそれに強固に抵抗しているわけですが。
や、だってひぐらし絵以外の竜騎士07の絵っていらないじゃないですか。ネタ目的以外。
なのになんでひぐらし竜騎士絵が一番魅力あるようにとりあげられるかというのは、恐らく竜騎士が持っていた世界観は竜騎士独自の竜騎士語で綴られていて、竜騎士語をうまく日本語(=絵)になおせたのはほかならぬ竜騎士だったからではないか、と。
TYPE-MOONも武内の絵がヘタだヘタだと言われてきて、竜騎士と同じ問題が発生していたわけですが、あれも恐らく長年奈須と付き合ってきて習得した那須語を翻訳する方法がモノを言っているのでしょうね。もしかしたら奈須も武内に影響されているかもしれないし。
ということで、独特の世界を表現するのに有効なのは独特な絵という当たり前な事実が「竜騎士うまいヘタ問題」に発生しているわけですが、「書かずにいられないっ!」さんの2月7日付けのエントリーにあるように、「「この絵柄じゃないと表現できないものがある、素晴らしい絵柄なんだ!」と力強く主張できるかどーか」、そうやって色々な人に対して突き抜けられるものこそ絵のうまさというものでしょう、という、そういう話。
人間に備わるたいへん悲しい帰巣本能について
ミクシィをうろついていたら懐かしい名前を見つけた。思い出せば対人関係のもつれか何かでミクシィを退会したのが半年前ぐらいか。人生はリセットできないけどミクシィとネットはリスタート可能なんだよってそんなバレバレの名前と写真でリスタートになってるのかそれは。次に日記を見てそこに書かれている退会理由などに舌鼓を打ちつつ(もちろん別の意味で)、その下に輝く「あしあと帳」という文字に目を見張る私。対人関係に疲れた言ってたのにそこはオールカミングなのかよ。これは素敵な誘い受けの形だ。本音と(言う名の甘えと)建前(言う名の甘え)は日本のうつくしい伝統芸能でございます。
そして日記を見てたら真の意味の創作活動ってギョエエエエ呪文詠唱ギゴゴゴゴ。何故オタはもっと繊細でクリエイティブな事をしたがりますか?プププー心を持ちたがる哀れなマリオネットですカーじゃなくてこう、クリエイティブなことをしたい欲だけが異常な速さで回転して、でもそれ創作欲には永久に結び付かないよね自己顕示欲だからという事例を見る度に感じます。作るあなたたちのエロ本ににどんなクリエイティブなものが見えるのかしら。貴方は、クリエイティブな精神を向上させるためにエロ本を書くというけれど、エロ本を描いて得られるものなんて、売り上げ以外にあるとは思えない(by るろうに剣心追憶編)でも彼の望む幸せって売り上げでまかなえる程度の誰でも買える安っぽいものだからなー。適当にクリエイティブな(無論、それはその人の中ではクリエイティブとされているものであり、客観性は問わない)挑戦をした(今回は、オンナノコの表情に拘ってみましたー、程度の軽いもの)エロ同人誌を適当に売って、それで満足するのでしょう。もしくは「これは俺の望むクリエイティブ行為じゃないんだ!」とかメタ視して反省したそぶりを見せつつ、「ちゃんと欠点が分かる俺って大丈夫!感性鈍ってない!」みたいな自己満足に浸るか、二つに一つ、適当にサイコロ振って決めてください。
とかいいつつ彼同人誌ロクに出したことないのよね。出したことあるといったら大抵誰かと共同で。分はやる気の無いエロ原稿。あとラフとか。だってやる気ないから。「好きなことしたい」じゃなくて「好きなことしていたい」なのだから、原稿を描くことが大事なことじゃないんだよね。他の彼の趣味(マージャン、ネトゲ、エロゲ)と同列。だから締め切りとかを迎えないと、麻雀エロゲネトゲをやめられない。で、ギリギリになって書くのはその場しのぎで話を考えなくていいエロ原稿。でも売れる。エロは売れる以前に同人界隈だもーん。コミケは青田買い(=中途半端でもOK)が基本だもーん。それプラス一緒に書いてる人目当てで人は同人誌買っていくもーん。で、その売り上げに対してその側面だけ見て満足するのでしょう。もしくは「売れたのは知人のおかげなんだ!」とかメタ視して反省したそぶりを見せつつ、「ちゃんと欠点(ry)」。ちなみに反省したら次回はちゃんと原稿に打ち込むとか、そもそも即売会に出なくてネット活動とか別の方向にシフトします。それでも即売会に出続けてロクな本作らない彼の姿は本当にかっこよかった。
方向性を変えて、じゃあクリエイティブな創造をするために教育してみようとしても無理なのはこれまでだらだら書いてきた自分勝手さ以上にその人がのクリエイティブなものに対する閾値が低すぎるから。まぁ審美眼が若すぎるということにしようか。「やっぱりすごいものを見ると創作欲がわきますよねー」とか言って来たからかみちゅ(理由:とりあえずクオリティが高いからと女の子が出てくるから親しみやすいかと思って)を見せたら一番に返ってきた答え「ゆりえタソエロス。巫女服カワユス」。死ねアアアアアアアアアアアアアアア母子テックwwwwwwwwwwwwオホッホホIt's香港フォロー(爆笑)。Air TV見て「感動したああああ俺も翼人伝承会(分からなかったら検索して)に入るううううう」とかわめいてるよーな人がクリエイティブな創造を成し得ないというか、もう何でもクリエイティブだと思ってしまうんですよねー。そりゃもう子供に対して大人の評価基準を当てはめるようなもんですよ。だけど個性を認めていく社会になってるからば――審美眼は若いままでいいんです。子供は大人にならなくて、コドモのままでいいんです。コドモにはコドモの世界があるんです。コドモ同士馴れ合ってオトモダチグループ作りあって褒め殺しあって下さい。ただ、生活圏がある程度被るのはしょうがないと割り切りますが、だからといってコドモがコドモのままで大人世界に入ろうとしないでください。ナショナルからの大切なお知らせです。
でも若いっていうことを特権とした暴走って創作には必要だしなー。竹熊×大泉対談中にある「オタクとオリジナリティー」において、「宮崎駿は自分の創作物を自分の「オリジナルと信じて」出せる」「批評家は批判的に物事を見てしまうので創作ができない」ということが書かれてあるんですけど、これって精神が大人か子供かの違いだと思うんですよね、ある意味。子供っぽい純粋な心を持っているからこそ、大人の世界を糾弾できるわけですよ。そもそも日本サブカルチャー作品の危機は常に子供か、あるいは子供っぽい自我が不安定な人間によって救われてきているわけです。ただ最近その子供が戦う世界が子供っぽい世界になってきたというか、巨悪ではなくてその小さな作品内でしか通用しない巨悪になってきてるんじゃないかなー、と。これはレイセンコウゾウの崩壊によって巨悪がなくなったというよか、諦観のように思えるんですね。描いているものは巨悪なんだけど、1クールモノの巨悪って言えばいいんでしょーか。オタの純愛が1クール、みたいなそんなカンジで鳳学園の中で王子様への出来レースが続けられているのが今のアニメ事情じゃないすかね。
話がそれちゃったけどつまりは暴走して外に飛び出さなくて、延々と学校の運動場のトラックでぐるぐる回っちゃってるんですよねー今の若人は。オタ超超嫌いで有名なオタクの惑星開発委員会主催の善良な市民さんは「野ブタ。をプロデュース」というドラマを参考に「人間はいつか死んでしまうので「終わる」。「今、ここ」はそれだけで入れ替え不可能の貴重なもの。よって日常はむしろ可能性に溢れている」ということを言っているわけですが、そもそも「野ブタ。をプロデュース」で描かれたような逆境のある(=巨大な敵がいる)世界ってあんまないんですよ現代日本において。私たちみたいなケモノ好きは日常社会では認められないけど、ネットに居たらすぐに仲間を見つけて馴れ合うことができるわけで、しかもそのコミュニティは趣味によってつながるコミュニティだから人が出て行っても次々に新しい人が入ってくる。趣味は普遍性があるから完全な終わりなき日常を営めるわけですよ!。善良な市民さんはまた「文化祭はすぐに終わるから楽しい」と言ってる訳ですが、そもそも趣味コミュニティにおいては前提が違う。文化祭みたいなゆるゆるっとした空気がずーっと続くから楽しいんですよ恐らく。善良な市民さんみたいなインテリな人が、「文化祭はすぐに終わるから楽しい」と思うわけです。さまざまなものを摂取、許容できて、それの蓄積が楽しいからな訳ですね。だから普通の人ってもっと視野狭隘ですってば。なんで現代の悲劇は視野狭隘だからこそ社会の荒波に立ち向かえるということではなく、世界のスケールを極小に見積もってしまうことなワケですが。だから今必要なのは盗んだバイクで走り出せる不良か。世界観を破壊できる不良なのか。うわアニメにもう不良いるわ。日本のアニメオワタ\(^o^)/。
というわけで同人界隈は作品の上手い下手より友達として付き合えるかどうかで結構決まるわけですよ。優劣はエロいとか萌えとゆーよくわからん価値によって殺されるってのもあるけど、本作るって実作業面で作家と付き合うにあたってやっぱ気心の知れた相手とやる方が楽しいし、いかんせん皆が皆ガラスハートで取り扱い注意天地無用の持ち主だから。ネット発のスタッフ集めてエロゲ作るプロジェクトなんて死屍累々じゃないですか。タイプムーンもひぐらしもスタッフが全員気心知れた同志だったからできたことなんですよ。特に見返りのすくない同人誌ならなおさら。スケジュール遅れてもクオリティがアレゲでも友達だから、という理由でなんとかなるもんだ。いや、なんとかできるもんだ?なんとかできるからだ!
一応最後にマジレスしておくと、創作活動と呼ばれるものは自分の痛い所をどれだけ見せつけるかが勝負なんで、この点についきましてはもっと、専門学校各位様方は十分ご留意し、ご検討下さいますようお願いいたします。しかし彼の場合はもう生きるというその行為事態が十分面白く感じられるからいいのか。生きながらにして作品になった彼。とりあえず我を強く他を適当に生きて欲しいものだ。それが君が私に与えてくれた個性なんだから。
20070209
神作画という言い方は難しいなあ
とあるところの掲示板を覗いてみたら、「○○というアニメ映画を見たけど、神作画は見当たらなかった」という書き込みがあって。
まぁ、○○というのは鉄コン筋クリートな訳ですが。
や、アニメ映画に限らず映画の受け取り方は人それぞれなので、影無し作画は手抜きとかそういう意見はあってもいいんですけど、その神様って、あなた以外、誰が信奉してるの?という感触ががが。
神作画っていう言い方は私もよくするので存在して欲しい単語であったりするのですが、使うときは自分が信じた宗教がどれくらいの人口を持っているかはチェックしないといけないな、という事例として。この場合だと「私の感触ではすごいと思える作画はなかった」みたいになるのかな。私的な感覚を神とかぬかすな、というか。
ちなみに鉄コンは大平晋也パートがあるらしいっす。
20070207
思考のメモ ――われわれは受け手でも作り手でもないということについて
例えば人間は欲望によって動く生き物だとして。
すると、作り手も受け手もともに「自分の考えを発信したい欲」で色々な創作(作り手だと)や発言(受け手だと)をしている訳であり、ただその手段が「自分が変わる(作り手)」か「他人に変わってもらう(受け手)」の違いだけなことが分かったりする。
その傾向はとくに匿名掲示板において顕著で、そこでは様々なニュースやネタに対して「世の中間違ってるよ」みたいなオレ倫理を振りかざして物事を断罪したりする。そして坂東眞砂子の"ねこころ”にしろ、のまネコや2chVIP系ブログにしろ、匿名掲示板のスレッドは"ネタにする物事”と"それに対してコメントをつける我々”とが掲示板のシステム段階で断絶され(コメントをつける我々(=受け手)は物事(=送り手=作り手)に対して直接的なアプローチをかけられない)、これに限らずネットでは相対するべき受け手と送り手の間に圧倒的な断絶が存在することがある。
情報技術の発達と安価なハイテク機器の普及は、人を容易に発信者−−送り手にさせることを可能としたが、逆にそれがあいまいな中間層を排除し、作り手と受け手の二分化を進めたということはないだろうか。具体的にいうと「将来作り手になりうるであろう受け手」の消失だ。
受け手は皆が将来作り手になる可能性を秘めているともいえる。それにオタ文化なんてものは受け手であるオタが浴びるように消費したネタをサンプリング&リミックスして新しいものを生み出すリサイクル文化だ。そこでは受け手と作り手が渾然と混ざり合い一つの濁流を生み出し、そのダイナミズムがオタ文化の熱気を特異なものとしていると言えるのではないだろうか。しかしネットは上記リンクのように受け手の立場しか存在しないネタを蔓延させた。パロディとしての諧謔は理解しやすい表面だけをなぞった罵倒芸へと変わり、受け手は"ネタにする――できる物事”から捏造した「面白さ」から得られる快感と共感で“暇つぶし”という大切な日々の糧を得、作り手はそうして無自覚に振るわれたノミにより身を削られ血を流す。私は当初このエントリーを理解することができなかったが、この考えを援用すると読み解くことができるかもしれない。「夜は彼女の中に住む大勢の「天原君」… 読者の声が彼女を責めさいなむ時間だったから。 もちろんそれに耐えられるかつぶれるかも単に作家の能力だから、彼ら読者は好きなように言えばいい。」きづきあきらはヨイコノミライ4巻で“それ”を表現する。情報技術の発達と安価なハイテク機器の普及は、人を容易に発信者−−送り手にさせることを可能としたが、同時に脆弱な送り手はネットに依存しすぎる結果を生み、ネットにおいて“弱者としての圧倒的強者”となった受け手たちの好奇の目に耐えず晒されるリスクを生んだ。ヨイコノミライはその物語の最後で未来への展望と成長の予感を描き、崩壊したコミュニティに救いの手を差し伸べる役割として新しい仲間と関係を展開したが、ネットはどうか。この広大な世界で、どうやって仲間を見つければいいのだろうか。
話を作り手側の立場に変える。私はここで松本零士氏のような立場をとるつもりは無い。私的な話をすると創作は現実との過酷な対話によって生まれると思っているので、立場としてはむしろ逆だ。しかし対話と一方通行のコメントは違う。そして日本における創作界隈で往々にして見かけるのが、後者に基づく「作り手の絵や日記による呼びかけ:それに対してポジティブな反応を返す大勢の受け手」という名ばかりのコミュニケーションだ。昔は即売会のサークルスペースなどでしか会えなかった机越しの彼らが、今では「いつでも、どこでも」PC越しにweb拍手やブログのコメント欄を使って、短文だけど大量のコメントとして作り手に押し寄せている。
しかしネットはシームレス・ボーダーレスでありながら城壁を作る。相手はモニターの向こう。コミケなら島端に開いた出入り口を通って“あちら側”から“こちら側”へ、簡単に呼び寄せることができるけど、ブログの記事欄とコメント欄には圧倒的な隔たりがある。もちろんそこからIRCや、メッセンジャーを使って彼らとの距離を近しくすることはできるけど、多くの場合彼らはそれをしない。もちろん前述した受け手の無自覚な暴力から自衛する為でもあるが、それは必要最低限のレベルを越えると『作り手として、特権的な地位を守るため』へと転換する。大量のコメントはかれらにアイドル的な“作者”の自負を与える。繰り広げられるぬるい内輪褒めのコミュニケーション。慰撫。IRCやメッセンジャーに閉じこもり、時折やってくる意志の強い『作り手志願者』の子を相手したり排除したり運がよければ仲間に居れたりして、自分たちの作家世界を守る。こうして彼らの周りには、「自分たちと同じ人々しか存在しない」世界が生まれる。
ネットはどうしても自らの立ち位置を定義せざるおえない局面を作ってしまう。さらに「作り手/受け手」という区切りは冒頭で述べたように曖昧なものであるが故に、各々が勝手な「作り手/受け手」像を作り、身内以外、匿名掲示板以外で通用しない倫理が形成されていく。そしてコミュニケーションはその内部のみで完結するため、他者への共感――われわれは受け手でも作り手でもないということは顧みられない。果たして勝手に簡単に、そうやって他人を、そして自分を定義していいのだろうか?
私は所詮受け手に毛が生えた程度しか実力を持ってないし、私の本を買ってくれたり、絵を見てくれたりする受け手の中に私以上の実力を持ってる人は、きっとたくさん居る。明らかに私より知識を持っている人はきっと、青田買いっつーか私をかわいがって買ってくれてるんだろう。そしてそういう人たちとサークルの前で立ち話をするのは、すごく楽しい。そして私は信じる。人間の心性は同じ、「人は誰でも作り手になり、受け手になる」ということを。だから私は自分のことを作り手とは思ってないし、受け手とも思ってない。同人誌は出してるけど、新しくてエロくて楽しいものを作っている覚えはないし、同人誌を出しているのは新しくてエロくて楽しいものを見つけたいからだけだ。作り手だけではなく、受け手だけではない、チュートハンパな存在でいられる特権的地域。そこで限りなく自由に、私は過ごしたい。同人世界はそれを肯定してくれた。さらにネット世界も、デビューした7年前からずっと、そんな自分を許してきた。
私はネット世界で生まれた親友のほうが、現実世界で出会った親友より多かったりする(すべてが数で決まるわけではないが)。ネットでは何度も、断絶によって生まれた不寛容に愕然とした経験を持ったが、遠くの人と、そして現実世界では会うことすら敵わなかった人と長時間対話できる魅力は他の何にも替え難いものであり、私はそれだけでネットのコミュニケーションを肯定できる。
情報機器はマジックアイテムだ。文字ベースのコミュニケーションは自分の“演出”を容易なものにする。そこでどんな自分を作り上げていくか――それこそ、作り手としてのわれわれの真価が問われるところだろう。
自らへの戒めのため、そしていつか作り手になる人に対して、この文章を記す。
参考:伊藤計劃:第弐位相 - ぼくとあなたはちがうということ