20110205

アニメ映画「天空の城ラピュタ」の魅力について

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この映画、いまでこそ、TVで何度も放映していて好きな人もたくさんいる作品だが
公開当時は、一部の人たちにちょっとした失望感を与えた。

一部の人たちというのは、僕のような「未来少年コナン」ファンである。

――「天空の城ラピュタ」 (2) 止まってしまったパズーが再び、動き出したとき・・|ササポンのブログ150  より


ヒロインはどこまでも愛され、主人公は夢を追う純粋無垢、そしてどこまでも完全無欠の悪、この三位一体こそがラピュタ系冒険活劇を現出させるのだ!


サークル『希有馬屋』の井上純弌氏がTwitterにおいて『天空の城ラピュタ』のことをこう評されていて、「天空の城ラピュタ」が物凄く好きな私として非常に違和感を感じました。思うに、「ラピュタ」が物凄く好きな方は、好きすぎるあまりに「ラピュタ」を完璧な作品かのように言ってしまう傾向にあるのではないでしょうか。
私ももちろん、感動と畏怖と尊敬と布教目的のあまり非の打ち所がないと言いたくなります。しかし一方で、記事冒頭にて取り上げさせていただいた記事の方の他にも、小黒祐一郎氏や竹熊健太郎氏などが「ラピュタ」に対して全面肯定とは言えない感想を述べられていたりするのです。
はたしてこの差はいったい何なのか。はじめに結論を述べさせていただくと、おそらくこの差こそが、ラピュタの魅力が端的に現れた結果なのでしょう。つまり、前述させて頂いた「ラピュタ」に不満を感じている方たちは、公開当時ある程度大人になっていたり、アニメーション作品をたくさん視聴するなどして、作品を客観視できるようになった人たちであり、「ラピュタ」魅力を感じている人たちは、子供のころ金曜ロードショーなりで「ラピュタ」を見て、どっぷりパズーに感情移入し彼の通過儀礼を追体験した人たちなんじゃないかと思えるわけです。

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どんな映画になったんだろうと思って映画館に足を運んだ俺は、とにかく冒頭のシータが飛行船から墜落するシーンで心を鷲づかみにされ、その後も怒濤のイマジネーションの洪水に酔いしれたのでしたが、とうとうクライマックスにさしかかったわけです。さあこのドラマをどう収拾つけるのかと固唾を呑んで見守っていましたら、いきなりパズーとシータが手を繋いで

「バルス!」

と叫んで突然ラピュタが崩壊したので、椅子からずり落ちそうになりました。

――パンダとポニョ(2): たけくまメモ より

「ラピュタ」はよく「冒険活劇」という単語と組み合わされて紹介されることが多いというように、劇中に出てくるガジェットは男の子が好むもので埋め尽くされています。ファンタジー。ロボット。異世界としてのラピュタ。そしてアクション!個人的には他にも子供心に、「竜の巣」という名前や雷のドラゴンに萌え萌えしたものです。
そしてアイテムだけが「ラピュタ」の魅力ではありません。少年パズーが、大人の社会に成員として迎え入れられる背伸びシチュエーションがあったり(「ドーラ一家」の一員になる所であり、冒頭でリフトを運転する所でもあります)、ラピュタ上陸後に大人相手に体一つで立ち向かう展開があったりと、男の子の全能感を満たしてくれる展開に事欠きません。そしてそれらは、パズーが何か特殊な能力を持った結果手に入れたものではなく、男の子が手を伸ばしたら届くかも!と思わせる程度に身の丈にあっている出来事ばかりです。リフトの運転を任されたのは親方が手が離せないからですし、ドーラ一家に迎え入れられたのはシータとの恋愛に似た友情関係があったからなのですから。
(もちろんパズーには、高いところから落ちても死なないことや、後半のラピュタでの大アクションシーン等など、ねーよwwww的身体能力シーンが多々出てきます。しかしアニメーションというメディアの力により、それらは実写と比べ圧倒的にパズーの身体の超人度を和らげての表現に留められているとは言えそうです)
身の丈にあう表現としてはずせないのが、パズーが悪役に金貨を掴まされて帰り、問い詰める声に「シータがそうしろって言ったんだ」と泣き言を言う一連のシークエンスです。パズーが「冒険活劇の少年」ではなく、「現実の少年」であり「ふつうの少年」である事の象徴であるこのシークエンスによって、果たしてパズーの魅力は大きく削がれたのでしょうか。確かにそれはパズー自身のキャラクター的魅力の無さの一つの現れでしょう。しかし、パズーの通過儀礼のストーリーとしての「ラピュタ」を考えると、これは絶対にはずせないシークエンスなのです。
そう、物語を引っ張ることはできない」や「主人公の活躍が薄味になっている」と書かれたパズーの設定が通過儀礼の時を待つ男の子にとって魅力的であるが故に、そんなパズーに没入できたか否かによって、この映画の熱狂的ファンになれるかどうかが決まるのではないでしょうか。


普通の少年を主人公にし、日常的な感覚で撮られた作品。つまり、『ラピュタ』はリアル感が強い冒険活劇だ。ファンが『ラピュタ』に魅力を感じているのは、そういった現実味ゆえなのかもしれない

――WEBアニメスタイル | アニメ様365日 第292回 『天空の城 ラピュタ』 より

「今はもう誰も住んでいない宮殿に、たくさんの財宝が眠ってるんだって」

――「天空の城 ラピュタ」 より

パズーは金曜ロードーショーでのアニメを心待ちにする男の子に似た「普通の少年」であり、決して「夢を追う純粋無垢」ではないということについての説明は一旦ここで打ちとめ、次に「完全無欠の悪」と対決しながら、抱いていた夢にたどり着くのが「ラピュタ」の魅力かどうかについて、「完全無欠の悪」という部分から検証してみましょう。

「ラピュタ」において、シータとパズーに真っ向から対立する存在として軍が上げられます。「ラピュタ」における軍隊の行動は、上図のようにシータの髪を引っ張ったりラピュタの財宝を簒奪したり、他にもシータを拉致したり拷問をかけようとしたりと、その行動は徹底的に視聴者の感情移入を妨げます。
しかしかれらの行動動機はというと、パズーと同じく「ラピュタを発見する」ことが最優先であり、かれらとパズーの違いは「暴力的であるか否か」と「財宝に執着を見せるか否か」によって分け隔てられているに過ぎません。かれらに対し、「完全無欠の悪」とはレッテルしづらいでしょう。
もちろん対立する存在は軍だけではなく、かれらを手玉に取り、かれら以上の「悪」としてムスカというキャラクターが描かれています。彼は武力を背景に、「全世界は再びラピュタの下にひれ伏すことになるだろう」と宣言するなど、彼はたしかに悪役として成立しています。しかしムスカが感情移入を拒否するような「完全無欠の」悪役かというと、そうとは言い切れないのではないでしょうか。
財宝が眠る城で王様になるという願望は、われわれの全能感をくすぐるものですし、軍と同じく手段が乱暴なだけで、ラピュタとシータに対する執着はパズーのそれと同様のものです。つまり軍もムスカも、手段が乱暴だという点において「悪」と言える存在に過ぎず、パズーやパズーに共感する熱狂的ラピュタファンたちの心の底のどこかと、確かに繋がっているのです。だからこそヒールでありながら、ムスカはあれほどの人気を獲得したとも言えますし、そしてそのことで、「ラピュタ」におけるパズーの通過儀礼のストーリーが補強されているのです。
何しろ、通過儀礼というのは現実や社会の他にも、自分と向き合う側面があるのですから!


『ラピュタ』におけるムスカはどうか。単純な「悪い大人」像はデブ将軍に任せ、その将軍をも俗物として切り捨てるクールなインテリ、しかしラピュタ王家の末裔という宿命的な出自を背負い、大きすぎる野望に身を焦がすという複雑な人間像だ。はっきり言ってムスカの狂気性は宮崎駿が意図したはずの漫画娯楽映画の一線を超えている。彼を見ていてホントに不快になった人もけっこう多いのではないだろうか。クライマックスでムスカはシータを前に得意げに野望を語り、この男が少女に子を産ませようと考えているのを知って観客の不快感は頂点に達する。しかし、オレはそのときはじめてムスカという人間を理解できた気がしたのだ。

お前ホンマはラピュタの科学とか人類の夢とかどうでもええんちゃうんかと。王家の末裔とか世界を支配するとかどうでもええんちゃうんかと。(声を大にして)お前、ただ単にかわいい女の子とお城に住みたいだけなんちゃうんかと! ムスカが単なる「不快な悪役」の一線を超え、「不快な人間」(結局不快かよ)の巨大な実像を見せつけるあのシーンは本当に素晴らしい。

――Cinemascapeにおけるペンクロフ氏による天空の城ラピュタの作品評より

物語の終盤で、主人公パズーはとうとう夢であったラピュタにたどり着きます。しかし夢の実現は大人になった証ではなく、通過儀礼の果てではありません。
大人になるための通過儀礼とは、大人の世界と向き合うこと。“飛行機械”の進歩により、ラピュタは「いつか誰かに見つか」ってしまう(しまった)という現実と、いかにパズーは向き合うかのか。パズーと、パズーと同じ夢を抱いたまま、狡賢く立ち回れる大人になったムスカとの対決シーンは、まさにそういった構図がシチュエーションとして立ち上がり表現されています。
状況に流され、親方の拳やドーラ一家など他人の手を借りるばかりだったパズーは、このシークエンスでは自ら考え、自らの足で行動します。シータに「海に捨てて!」と渡された飛行石を持ち(そうしろと言われてシータに金貨を握らされた構図の反復!)、ムスカと「二人きりで話がしたい」と交渉し、シータと共に滅びの言葉でラピュタを崩壊させる。自発的に行動することにパズーの成長を見出すことも可能ですが、ここで取り上げたいことは、パズーが自らの行動により、夢を塵に返すことです。自らの夢――全能感の結実たるラピュタが人間の欲望という現実により侵犯された時、自らはどう振舞うのか?
ー―そしてパズーは夢を夢のままとして残すために夢を捨て、この通過儀礼がセリフとして結実したものとして、「バルス!」があるのです。

「へっ!急に男になったね。」

――「天空の城 ラピュタ」 より

「ラピュタ」は冒頭の飛行船襲撃シーンから始まり、ゴンドラチェイスやシータ奪還劇などなど魅力溢れるアクションシーンで埋め尽くされ、ビジュアルとしての冒険活劇をこれでもか!と味わいつくせる作品です。だからといって、全てがすべて冒険活劇という言葉に奉仕している訳ではなく、特にパズーを冒険活劇の主人公たりえない金貨を握らされてしまう普通の少年としたことで、ある一定層の観客に対し失望をもたらしてしまいました。しかし冒険活劇としての魅力を殺いでまで、少年パズーの通過儀礼のストーリーとしての迫真性を追求した結果、この作品に対する熱狂的なファンが生まれたのではないでしょうか。人々はただ欲望を肯定し満たすだけのものよりも、終わった後に欲望以外の痛みのような何かが残る作品の方が、心に長く留まりやすいものです。
そしてもちろん、これ以外にも「ラピュタ」の魅力たる部分は多く存在します。「見ろ、人がゴミのようだ!」などのくらい魅力を持つセリフや、絶妙なところで流れる久石譲の音楽。上に引用させて頂いた、ラピュタロボットがシータに花を渡すシーンの、ロボットの孤独を感じさせるゆったりとした足取りのアニメーションと距離感の画面構図は、完璧という言葉で説明を放棄し、ただただ映像に没頭したくなるほど、たまらなく切なく、そして魅力的です。
抽象的な要素を抽出しそれをただ賞賛し、それに沿って作品を褒めるのではなく、周囲に目を向け作品の魅力がどこから来ているのか気を配ること。そちらの方が、作品の魅力の解析により一歩近づける方法ではないかと、私は思うのです。

――そういえば、井上純弌氏が上げられていた三要素のうちの一つ、シータが「「こいつに本当に命をかけられる!」って女」かは私には分かりません。だって自分ケモノキャラ大好きなケモナーだし。ただ、飛行石を持つ滅びた王家の末裔という設定には魅力を感じました。

参考文献:ぼくらのヒーロー・ムスカ
(パズーのコインの裏としてのムスカについて)

余談:他にも当ブログでは、ラピュタに関連する記事としてこんなものを書きました。

宮崎駿が描く食事がうまい理由

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