宮崎駿が描く食事がうまい理由
自分が確かに「そうだ」と感じているはずなのに、そこに現れた事象を言葉に変えて、「そうだ」と感じる理由を説明しようとするとき、「そうだ」と感じたものは急に手の平の上から消えていってしまう。「そうだ」と感じていたものをよく探してみると、たとえばシークエンスの連なり、カットとカットのすきま、画面にうすぼんやりと、あるいはちいさく映る何か――の中にわずかに溶け込んでいるのを時々、ごくわずかに発見したりすることがある。つまりそれが映像演出というものであり、それこそがただのフィルム上のコマのつらなりを映画という物語に変えていくものである。
宮崎駿が描く食事がうまい理由 − (ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記―-)
それは魔術のようなものであり、確かに高潔な魔法使いがわれわれにまじないをかけたからだといった風に誤認しても仕方がないかもしれない。しかしひとびとは魔法使いの幻影を見ているわけではなく、映像の先に魔法使いを見出して映画を鑑賞しているわけではない。映像評論を行ったり、なにかを批評する時はまた話がかわってくるかもしれないが、子供のときはどうだっただろうか?果たして作者の人となりというものについて、どれくらい意識していたのだろうか?
宮崎作品をダシにして、うまいメシのアニメ史を語ってみる − (法華狼の日記)
多くの人がそれを認め、同時になぜそう思うのかをうまく説明できない「宮崎駿のうまそうな食事演出」について、いくつかのシーンを例に挙げながら自分なりに解釈していこうと思う。
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宮崎駿のアニメーションは人間が駆けたり飛んだり、戦闘機やロボットがくねくねと自由に空を舞ったり、大嵐が吹き風がびゅんびゅん勢いよく凪いだりと、画面全体が動きに富む作風で知られている。また、宮崎駿監督作品のアニメーション製作を手がけるスタジオジブリは一時期、アニメオタクが視聴したアニメのキャラクターたちの動きが丁寧にアニメートされていた際の感嘆の言葉として、「ジブリアニメのような仕上がり」と比喩表現に使われていた。
確かに宮崎駿作品では、実に様々な表情でモノを食べており、さきほどとりあげた「法華狼の日記」での記事中においても、アニメートするということを題材に(“絵的な映え”“動き”をテーマとして)宮崎駿作品の食事シーンを説明している。私はその解釈に同意を行いつつも、少々の疑問と自分なりの補論を挟みたい。
例えばこの『天空の城ラピュタ』における二つの食べ物が出てくるシーン。これらは私が子供の頃、「美味しそう!」と強烈に感じたシーンであり、特に肉団子スープについては実際に試作をしてみて味を確かめている人も現れているのだが、この肉団子スープが画面に映る時間はわずか4秒程度しかない。また右上のシーンに出てくるスープも、引用画像群下段の調理シーンが映されているものの、映されている材料は具材でありスープ自体の材料はどのようなものなのかが分かり辛く、更にどちらのスープも1色で表現され、それがスープと分かる最低限の作画しかされていない。それなのにこれら二つの料理を自分が美味しそうだと判断したのは何故なのだろうか?
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ここで少し、食物が出てくるシーンから離れて、まき戻って、シーンの連なりの中に存在する一カットとして食事シーンを検討してみようと思う。左の連続した画面写真は、肉団子スープが映るカットの前に映されたカット群から、1カット1コマづつ画面写真を撮ったものである。この4枚を選び、またさかのぼるカット数が3カットで止まっている理由は、これ以上さかのぼると、飛行機からのシータの落下という別シークエンスのカットになってしまうからであり、またシークエンス冒頭から最小限のカット構成で食事(食物)シーンにたどり着けるため、「食事をうまそうに見せるための最低限の演出」がこの4カットから導き出せるのではないかと判断したからである。
まずは上のカット。シータが落ちて行く街の全景を映したものであることは一目瞭然だが、仔細に解説していくとすると、家の数からこの街がどちらかというと田舎であるということや、海が見えないことと十字の交差点が画面中央に映されていることから、どちらかというと海辺から遠く離れた、内陸部あるいは山間にこの街が存在することが分かる。
続いて下のカット。映されている家々の形状から、さきほどのカットで映った街のクローズアップだと知ることができる。このカットでは人々の営みが描かれ、まずは人々の様子から映されている時間帯は夜であり、またその人々の服装から、産業革命期のイギリスに近い――そこまで判断を進めなくとも、この映画で描かれる世界が近代ヨーロッパ的であり、またそれに続くカットから工業ないしは商業がさかんな街ではないかということが分かるだろう。なぜなら酒場らしきものがあり、男や女たちが夜遅くまで出歩き、あるいは飲んだくれて眠っているという光景が農村の一風景とはちょっと考えにくいからだ。
そんな次のカットは街の一角に存在するのであろう、料理屋を正面やや右寄りから映したカットだ。寒色調だった画面は料理屋の明かりにより暖色調へと転じ、玄関まであふれた人やウィンナーと思しきものを焼き上げる店員の陽気な表情から、悪くなさそうな、むしろ美味しいものを出してくれそうな料理屋ではないか、と思ってしまう。これが例えば、映っているものがひとけの無い暗い料理屋だったら、とか、むすっとした表情で義務的にウィンナーと思しきものを焼く店員さんだったら、と想像してみるといいだろう。ひとけがないと「美味しくないから流行っていないのかな」とか、「味とかに気を配ってないから無表情なのかな」と、我々は邪推してしまうのではないだろうか。行列のできる店や今話題のものなど、長いものに巻かれてしまう人々が後を断たないように、我々は食物として存在するもの以外の周辺要素から、無意識のうちに食物の味を脳内に想像してしまうのだ。
上着を着込むほど冷え込んだ季節の、B級グルメにうるさそうなプロレタリアートなおっさんが集う、ホットな肉料理屋さん。「おじさん、肉団子二つ入れて」「珍しく残業かい?」「あうん、今日は久しぶりに忙しいんだ」と次のカットでやり取りする少年パズーと店員のおじさんはどちらも笑顔。幸せな仕事の合間に食べる景気付けの夜食は、力や精の出るものではないだろうか。
以上、こうやって書き進めてみると、その料理をめぐる周辺情報が、いかに受け取りやすくカット内へコンパクトにまとめられて、その前に連なるカット中に散りばめられているかが分かる。
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そしてこの食事シーンも、「幸せな仕事の合間に食べる景気付け」という食事の変奏だろう。飛空艇タイガーモス号での仕事は大変で辛く、海賊という職業がらやりがいの無いものかもしれないが、ここではシータの存在が幸せ分を補給している。ひどい有様だった調理場をきれいに整理整頓し、男たちのために(=視聴者が男子だとしたら、僕たちのために!)料理を作ってくれる可憐なヒロイン!シータの調理シーンの前に描かれた、きつい仕事の描写との強烈なコントラストとも相まって、そのスープにどんな材料を使っているのか、子供時代の私にはほとんど分からなかったが、
クラックコカインが入っていることはまず間違いないと思われた。つまり子供のころからずっと私は勝手に、自分が「幸せな仕事の合間に食べる景気付け」としてふさわしいものはカレー味の何かであるが故にこの料理はカレー味の何かではないかと妄想補完しているのだ!
――いくらなんでも、例え調理方法が似ているとはいえどこの料理は恐らくカレー味の何かではないだろう(日本的なカレーの調理法が、『天空の城ラピュタ』の世界に一般的に存在しているとは考えにくいからだ)。しかしそれは子供の勝手な妄想の暴走ではなく、子供の自分にそう思わせてしまうほど、食事シーンの前に存在する“食事を景気づけ、演出するカット”が冴え渡っているので、宮崎駿作品に出てくるそういった食べ物が旨そうに見えるのであり、そういった妄想を暴走させる演出が宮崎駿作品に宿されているのだと、私は考えたい。そうでもなければ、子供のころキュウリがあまり好きでなかった自分が、「となりのトトロ」に出てくるこのキュウリだけは唯一美味しそうに見えた理由が分からないのだ!
こうして旅をしていると、世の中にはたしかにいろいろおいしい食べものがあると思う。「これは死ぬほどうまい!」と世界中に叫びたくなるほどのものは、しかし、そうはない。
その、めったにないことに、今回ついにめぐりあえた。ほっぺたが落ちる、あごが落ちるどころではない。おいしさに体が震えた。舌が踊り、胃袋が歌いだした。生きてあり、もの食うことの幸せをしみじみ噛みしめた。
(略)
味が忘れられず、翌日ふたたびポグラッチを飲みにいった。
坑内から上がってきた男たちが舌鼓を打っていた。
ポグラッチはやっぱりおいしかったけれど、私には、なぜか、前日ほどの感動はなかった。その日は働かず、石炭を食いもせず、汗もかかずに、そのスープを飲んだからだ、きっと。
――辺見庸 著『もの食う人びと』より
食事というものは、その食事を料理するものが居て、あるいは料理に使う材料を作る人が居て、それを求める人にしかるべき場所で提供され、プラスアルファでそれらしく盛り付けされてはじめて、成立するものである。宮崎駿作品を観て、食べ物が出てくるシーンとめぐり合った際は、料理それ自体に着目するのではなく、その料理の周辺に目を配ってみても面白いのではないだろうか。そしてそこに描かれているもののある種の文法的確かさを発見した時、宮崎駿作品に生まれる画面の力強さ(アニメオタク風に言うと、その卓越したレイアウトセンス)を再発見することができるだろう。
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