20090404

「自分の作品を見て欲しい」という言葉

「自分の作品を見て欲しい」という言葉から生み出される意味は二通りあって、
・自分の作品を世の中に問いかけたい(自分試し)
・自分の作品が世の中に認められたい(承認欲求)
というそれぞれ正反対な感情を形作れてしまいます。

つまりは自分の作品をアピールするとき、「自分の作品を世の中に問いかけたい」という建前を語りつつも、本音は「自分の作品が世の中に認められたい」なのだということを隠して他者に語りかけることも可能であり。もちろん戦略的にそういった本心の隠蔽をはかることも時と場合と目標によっては大切だとは思うのですが、あまりにもその言葉の二面性に頼りすぎて、建前でとして取るべき行動がとれない人というのが、ワナビーさんにおける「作品の感想をくれと言われたので言ったら怒る」さんだよなぁ、と。
確かにあまりにもひどい感想(ただの悪意の投げつけとか)を返されたらムッとするのは致しかたないのですが、自分の場合はムッとしつつも、「あー狙っていたゾーンとは外れた受け手さんにボール投げちゃったな」と考えて、上手くストライクゾーンに入るようにボール(作品)の軌道修正をする方向に行くほうがいいと考えていて。「自分の作品を(世界中の人に)見て欲しい」なんていうことはごく一部の才能の在る人にしかできないのだから、「自分の作品を(自分が受け取って欲しいと思う人に)見て欲しい」という、対象層をはっきりとイメージして作品を制作して、しかるべき場所にて発表するのが普通の人間にできる唯一の努力なのではないでしょうか。

ワナビーさんについて私のまわりで語られているとき、そのワナビーさんの技量(絵描き志望なら絵の上手さとか)が話題の中心になることが多かったのですが、こういった抑える方向でのセルフプロデュース能力というのも問題として取り上げられていいんじゃないか、とここ数年思いをめぐらせています。

トラックバック
コメント