20061012

最近のネットで気になった記事に反応

■[一般]「恋人ができたら創作やめるタイプの女子には辟易してる」

大爆笑したわけですが、そもそも「自己承認欲求を満たす手段として創作を利用する」というのが危険なんだよなぁ。私の周りにはそういう人が結構居るのですが、そういう人は大抵壁にぶち当たっている気がする。なぜなら、創作には毅然として技術力の差が存在するからだ。
技術力にのみ着目すれば、はやくから絵を描くことになれていた人のほうが年月を重ねた分、優れたイラストを描くことができるし、自分の周りに優れた機材や教本をそろえられる人のほうが、豊かな表現力を持ったイラストを描くことができるだろう。当然、そういううまい人の方が、一般的にファンは大勢つく。ここで目に見える形で差ができてしまうわけだ。
もちろん、「自分は中程度の技能を持った絵描きである」という自己納得ができれば別なのだが、そこは「自己承認欲求」。“私”は一人しかいないもの。だから究極的には“私”の描く絵もオンリーワンでなければならず、自己崩壊寸前まで追い詰められてしまう。
さて、ここで「作るものはオンリーワンなのだから、他人もファンも意識しなくていいんじゃないか?」という疑問が出せるだろう。しかし大抵の場合やっていることというのは、自分の私世界を表出する創作活動ではなく、キャラデザに凝ったり萌えに走ったりギミックや設定を詰め込んだりのエンタメであり、既存のものを自分なりにサンプリング&アレンジしているだけ(というのは失礼と分かっているのだが……)のものである。確かに自分の手は動かしているが、作り出したものが容易に他人と比較&優劣がつけやすいものであるため、過剰に他人を意識してしまう、否意識せざる終えないのだ。それはまぁ、モテる為だけのファッションと同じであり、ここでやっと、「恋人ができたら創作やめるタイプ」というのがどういうタイプであるかに結び付けられる。

……でもまぁ、今創作活動をやっている人の9割ぐらいは、前述したエンタメ――社会の常識の枠やジャンルとして定義できる、どこにでもある個性しか持っていない訳であり、逆に変な個性を表現してしまうと、逆に人から嫌われてしまう危険性もあるわけです。
そしてその個性が認められるかというのは、評価している他人に完全に委ねられてしまうわけであり、時として、他人の評価が狂っている場合も存在するのです
それなのに描いてしまう、っていうのは、愛情とかそういうのを超越した“何か”にかられて、っていうことなんですかね……。少なくとも、私はそんなカンジです。
とりあえず、創作活動ってのはある程度練習するだけでそこそこの表現はできるもので、そうすれば「ファンです」「いい絵ですね」といってくれる人も現れて頂けるから、それでいいではないか、個性は大切に、と結論。
私が見た同人界隈で悩んでる人って、大抵エロとか受けやすいものに走って、そっちの評価が高すぎて「自分のやりたいこと」とのバランスが取れてない人だしね^^;。


■[イベント][はてな][オタ] 井の頭グリーンシーツ

# ドラゴンボールの世界の場合は獣人とかふつうに出てきてて、
猫が市長だったりしたけど、あれはなぜころか猫ころか。

とのことなのですが、個人的な雑感としては外見は猫ころで、内面はなぜころだと思ってます。というのは「そりゃ当たり前だろ」という結論なので、ちょっと丁寧に追っかけていきますね。
まず私は「KemonoMix 30% over」っていう指標をあまり参考にしてません。もちろん、イラストを描くにあたって参考になる指標というのは分かっているのですが、これだと獣人キャラがもつ微妙な内面について説明できないからです。
個人的には獣人の基本はクリスチャン・ラッセンだと思っています。
クリスチャン・ラッセンのイラストはある意味、自然を代弁しているかに見えますが、
描かれている世界は、人間にとっての完全な理想でしかないというのは、「ァー('A`)」「ウン('A`;)」の呼吸で分かっていただけると思います。
極端なことを言うと、獣人は都合のいい所だけ動物のパーツを借りて、動物の都合の悪い部分は人間のパーツで代弁、という存在だと考えているので、僕の中で均一に混ざるイメージのパーセンテージという言葉はあまり使いたくないな、というのが正直なところです。
ちなみに私は「ケモノ萌え」という感情を、「近親萌え」→「妹萌え」→「弟萌え」と続く萌えの終着点だと考えているのですが、それはまた次の機会に。

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