20060602

オタレイバー2について

[オタク][ネタ]『オタレイバー2 the Movie 〜AKIBA War〜』


CinemaScape/ブレードランナーより「kiona」氏のレビュー

こんな映画の記憶も、いずれは消える。

 文明がどこまで発達しようと、自分が存在する意味を教えてくれることは決してない。いや、それは、文明それ自体にも、それを織り成し未来を勝ち取ろうとする人類の営みそれ自体にも、絶対的な意味なんてありはしない、そんなブラックホールのような真実の一端に過ぎない。そう、僕らもやがては絶滅する。営みの記憶とともに。

(中略)

 やまない酸性雨、溶かされた鉄と油の匂い、明るすぎる夜、ねむれない都市、湿っているはずなのに、どこまでも乾いた空気、全ては架空、影であるに過ぎない。しかし、それらは確かに現実を映した影なのだ。だからこそ、この映画の全てが愛しい。そして、こんな映画の記憶もいずれ失われてしまうということが、どうしようもなく悲しい。何故なら、虚像が消えるなら、実像もまた消えずにはいられないからである。

 記憶の断絶=絶対的な死・・・消滅。“僕”が死ぬことは絶対的に悲しく、それ以上に、“僕ら”が滅んでしまうことは、とてつもなく悲しい・・・

 あのレプリは僕たちだ。

或いは、映像の世紀第3集で引用された、ある文章より。

時代の流れは確実に変わりつつあった。
明るさ・華やかさ・生命力。
そんなさまざまな要素が混じり合いながらそこかしこに溢れ出し
一つの空気を作り上げはじめていた。

この時代ではっきり覚えていることがある。

私はタクシーに乗っていた。
車はちょうど藤色と薔薇色に染まった夕空の下、
ビルの谷間を滑るように進んでいる。
私は言葉にならぬ声で叫び始めていた。

そうだ、私にはわかっていたのだ。

自分は望むものすべてを手に入れてしまった人間であり、
もうこの先、これ以上幸せにはなれっこないのだということを。

このエントリーを書こうと思い立ったのは、あるオタクの友人からこういうことを言われたのがきっかけだった。


「ちょっとさ、友人が久しぶりに面白くないアニメ見たって。ワンワンセレプーっていう、君が見てるアニメ」
この一言で、私はオタクは死んだことを確認し、こう切り替えした。
「ふーん。なら、獣王星ハルヒでも見といたら?」


わたしたちは飽和した。アニメーションは週に50本以上が放映される時代になり、種類もさまざま。わたしたちはそのなかから好きなものを取捨選択して視聴してオタクライフを過ごす。
昔とは違う良き時代に、わたしたちは暮らしているのだ。

昔はアニメというと、子供が見るものと決まっていた。文化として認められていなかった。アニメに与えられる賞といえば大藤信郎賞ぐらいしか存在せず、押井守は「(アニメを煽てておきながら)アニメを映画として認めてこなかった。現に日本アカデミー賞にはアニメーション映画部門がない」といった趣旨のことばを残している。
しかし今は違う。ジブリアニメが国民的アニメとなり、2001年、「千と千尋の神隠し」が国内外でさまざまな映画賞を受賞。また、文化省メディア芸術祭など、アニメは作品として“評価”される機会が多くなった。カウンターカルチャーだったアニメは、いまや“日本が誇る文化の一つ”となり、ひろく大衆の支持を集める存在となったのだ。

そしてそういった環境は、「生まれながらにしてオタク」という環境と現象を生む。メインカルチャーの一つになったということは、カウンターカルチャーをプッシュするのに必要な理論武装が必要なくなったことを意味するからだ。「何で大人になっても、そんな子供っぽいもの見てるの?」と訊かれても、反論する必要がなくなったのだ。昔はそれに反論するために、オタクとしての生き様をさらす必要があったが、今は逆に、その一言が時代遅れになっている。朝と夕方の子供向けアニメのほかに、若者たちのために深夜向けアニメがある。また、「エンジェル・ハート」や「アカギ」のような大人向けアニメも、同時間帯に放送している。アニメはもう、子供だけではなく、様々な世代に向けて発信されるメディアになっている。わたしたちはそうやって、自らの成長に合わせて視聴するアニメを変えて行けばいい。子供向けアニメなんて見なくていい。子供向けアニメにこめられた(かもしれない)製作者のメッセージなんて、大人や若者は耳に傾けなくてもいい。なぜなら我々向けに最適化されるよう、あらかじめチューンナップされたアニメがあるからだ。それを黙って見ればいいのに、何故わざわざ別世代向けに作られたアニメを見る必要があるのだろうか?
しかしいくらアニメが世代わけされて作られているとはいえ、「どんなアニメであろうと、そこには製作者のこめられた願いがある」という意味において、全てのアニメは作品として平等なのを忘れてはいけない。

――話を昔に戻す。昔のアニメーション雑誌は、(手持ちのものを確認する限り)子供向け、青年向け問わずにアニメを取り上げ、評論していた。おなじようにアニメーションに魅せられた昔のオタク達は、子供向けアニメの中にもしかしたら込められているかもしれないかすかな光――製作者のこめられた願いを、必死になって探っていた。そうして、かれらはアニメが“作品”として成立するのに必要な要素――作家性を発見していった。
その営みを続ける者の一人に、切通理作という人物がいる。彼についての業績は、自著「怪獣使いと少年」に詳しい。ウルトラマンをはじめとする、子供向けメディアから様々なメッセージを受け取っていたそんな彼が、今回の岡田斗司夫主催イベントである「オタク・イズ・デッド」に対して、こんな一文を寄せている。


「蝿蚊の恐怖・オタクの終焉」

 アートやサブカルは特権性が持てる。こういうものが好きなのは自分たちだけだ、カッコイイって示せる。でも僕が好きなものはガキの残りカス。永遠に完全には自慢できない。

 でも僕は、そういった、子どもたちとか大勢の人間が一回簡単に通過しうるものにしか細部への情熱すらもてないんですよ。なんでだろう。


時代は、「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力」から、「大量に送られてくる情報をいかにすばやく取捨選択し、消費していくか」へと変わった。
そんな中、時代に適応できない彼ら――或いはわたしたちを、私はパトレイバー2に出てきたキャラクター達になぞらえ、前回のエントリーを上梓させていただいた。
疲れきった表情の、元第二小隊の面々。
あるいは晴れやかな表情で、東京を睥睨する柘植行人。
わたしたちはとうとう、彼らに追いついてしまったのだ。

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コメント

『俺たちオタクは、おまえら人間には想像もできないものを色々見てきた。
オリオン座のそばで炎に包まれた攻撃型宇宙船。
タンホイザーゲートの近くで、闇の中に輝く C ビームを見た。
それら全ての瞬間は時が来れば失われる、雨の中の涙のように。
死ぬ時間だ。』

Posted by: new : 20060602 21:14

価値創出から価値消費へ、という言葉を思いついた。あと、生まれながらオタクっていうのは、ただ興味を持つだけだったら誰でもできるから。という一文も入れたかったんだけどなぁ……。

Posted by: new : 20060602 21:49