20060325

欧米と日本ではモノの愛し方が違う、のかもしれない

西欧人は擬人化が嫌い

前回自分でもなんとも言いがたいエントリーを書いてしまったのだが、ありがたくもはてなブックマークで感想を頂いたので、あれから考えたことを加えてもう少し進めてみることにする。

1:まず、西洋で擬人化はポピュラーな存在である。

まずは擬人観からの参照wikipedia-だ。
この記事は冒頭に、

日本では伝統的・宗教的に偶像崇拝がタブー視されにくかった為、擬人観に対する抵抗が低い。このため日本人は無生物であるロボットに対しても擬人視して扱うことが多い。
しかしその一方で現在、キリスト教やユダヤ教では神を擬人視することに対し否定的であり、また西欧の「人は人」「他は他」という思想により、そういった擬人観的な要素は少ない。

と書いてあるにもかかわらず、後述でディズニーや国の擬人化を参照するなど、少しいびつな構成をしているように見受けられる。
ここは「キリスト教は」擬人化にたいして否定的ということが言いたいのであり、それが西洋の相対ではないということを書きたかったのが、文章の混乱でそういった意図がとれないものになってしまった、と捉えるのが良いかもしれない。

Wikipediaで後述されている通り、擬人化は西洋では非常にポピュラーな概念だ。
バンビやダンボ、あまり知られていないがロビンフッドなど、ディズニーアニメで擬人化された動物は定番のキャラクターだし、
ワーナーにもバックス・バニーという、擬人化されたウサギの定番キャラクターがいるのは周知の通りだろう。
またその歴史も深く、グリム童話などを紐解けば、動物をキャラクターにした物語はすぐに見かけることができるし、動物以外にも、ロボットを擬人化したアニメ『トランスフォーマー』が海外で人気を誇っているのは逃れられない事実である。
そしてそういった擬人観が、日本の文化に与えた影響も指摘したい。
具体的に例示すると、擬人化動物を作中に頻出させる手塚の源流がディズニーアニメであるということ、などだ。
しかしそれは、あくまで動物を人間のように見立てているのであって、びんちょうタンのように人間そのものにするのではないと言えるだろう。

1:「下位擬人化」と「上位擬人化」

動物を至上の存在とする愛好家には悪いが、ここで動物は人間よりも「下位」のものとさせていただく。
今まで挙げてきた事例は、動物をディフォルメして人格を付与したり、人間の中に動物を見出す、いわば「下位擬人化」であり、対照そのものを人間にしてしまおうという要素はない
しかしWikipedia「擬人観」のなかの「サブカルチャーにおける擬人化」で挙げられているものは対照そのものを人間にする要素が強く、モノの中に人間を見出す願望が見て取れる「上位擬人化」である
この「上位擬人化」と「下位擬人化」について、上位擬人化はアニミズムと一言でまとめてしまっても良いが、アニミズムは世界に偏在する原始的な概念であり、日欧米の差異の象徴にはならないので、この記事ではもう少しその違いについて、別の事項を参照しながら記述していこうと思う。

3:アメリカには絵柄が「濃い」という評価基準が無かった。
(炭=びんちょうタン というのが関連できる日本と、関連しづらいアメリカ?)

以前私は、「自分の絵柄は濃い方だ」といった文章を、シアトル在住のさいはてさんに英語で訳してもらおうとしたことがある。
しかし結局北斗の拳やジョジョの奇妙な冒険で例示しても、「濃い」というニュアンスを持つ英文を作ることができず(ネイティブの人にまで相談して貰っても!)、それら二作品のイラスト評価は「シャープでハイコトントラスト、リアルな画風」という、個々の要素を列挙して個々評価するしかないといった結果に落ち着いた。
こういった技術的な要素でしか絵を指摘できず、雰囲気で単語を紡げないという事実を、伊藤剛が「テヅカ・イズ・デッド」の中で提唱した「キャラ/キャラクター理論」と絡めて論考してみる。
「テヅカ・イズ・デッド」は必読の名著だが、敢えてこの「キャラ/キャラクター理論」を解説させていただくと、それは「キャラクターという統一存在が、さまざまな図画の形を持ったキャラ(竹熊はblog中で混乱を避けるため、これを「表層キャラ」と呼んでいた)といった形で世界に現れる」といったものだ。
これを日本文化特有のものとし、無理やり概念だけを頂戴すると、「濃い」というキャラクターが、ジョジョや北斗の拳といったものに図画(キャラ)として現れるのが日本人には見えていて、アメリカ人はこういった性格の関連付けが行えない為、個々の価値基準でしか理解ができないということが言えないだろうか。

4:結論

文章も長くなってしまったことなので、強引にまとめる。
欧米人は、モノそのものを愛する
下位擬人化はいわば動物に対する愛玩表現の発露であり、海外ではネコミミなどの、人間に動物のパーツ付与よりも動物のラインを残した形で獣人化するものが愛好されているのにも、そういった事実が伺えそうだ。
一方で日本は、モノを人間に見立てて、それを愛好する
象徴として、本田透が電波男において、現実の女と相対化するカタチでしか二次元に愛情を投影できなかったということが挙げられるだろう。
(ショタ絵師のMacop氏が、かつて日記において電波男の内容を「昔からよくあった発想」と唾棄していたのが印象深い)
『鳥獣戯画』や『獣太平記』など、日本の古典には獣人的な絵が多々見受けられることはWikipediaでも述べられている。
しかしいつからか日本は、対照を人間化することでしか、モノを愛せなくなったらしい。
上位擬人化はアミニズムの発露なのか?
それは上位擬人化をした際によく付与される「萌え」とあわせて、これから熟考すべきポイントであろう。
最後に、id:terasuyさんに対し、擬人化に対する考えを深める機会を与えてくださったことに対する感謝の気持ちと、二度のトラックバックごめんなさい、ということを述べて筆をおくことにする。


補記:ちなみに私の実感として、「萌え」は日本の中のみの概念であり、まだ正確に、海外に伝播してないという気がする。
Bittorentの発達により、ファンサブでほぼタイムラグなしにアニメを見れるあちらで、
10年ぐらい前から作られた萌え(moe)という言葉があちらで使われていないからだ。(Kawaiiという言葉が市民権を得ているというのに!)

補記その2:着目したい画家としてフランス人のグランヴィルの存在があったが、彼のスタイルは人間の動物化による人間社会の風刺なので、それについて触れるのはめんどくさくて記述しなかった。

トラックバック
コメント