細田守作品におけるディティールの偏向性 その2
TVアニメシリーズ「デジモンアドベンチャー」は細田守が監督した作品ではなく(監督は角銅博之氏)、氏はTVシリーズ中のたった1話「21話 コロモン東京大激突!」しか演出していません。
本来ならば、TVシリーズ全体の雰囲気と、「コロモン東京大激突!」の異質性なども踏まえて文章を綴らなければなりませんが、今の私にはそれを書きまとめるだけの筆力はありませんので、この記事では21話のみについて言及する、といった形にさせていただきます。まぁ、おかしなところがあればやんわりと指摘してくださいね、ということで……。
――さて、まずは「コロモン東京大激突!」について軽くあらすじを述べさせていただきます。この話は主人公が現実世界から離れた異世界である“デジタルワールド”から、一時的に主人公の故郷である世界――お台場の自宅マンションに戻ってくる、といった内容になっており、サークル「どうかんやまきかく」が発行されている「細田守演出デジモンアドベンチャー 逆ロケハン カラー版」でとても詳細に紹介されている通り、現実世界の実感を出すため、いくつものカットのレイアウト(つまり背景描写)が実景から引用されています。
しかしこの記事で取り上げたいのはお台場という“外”ではなく、マンションの“中”――主人公“太一”が帰ってきた場所であり、「帰る場所」である自宅において、くつろぐ太一の描写のディティールです。
「帰る場所」である自宅――それは一体、どういった場所なのでしょうか。学校や仕事から帰り、落ち着ける場所。衣食住が揃っている空間。そこで生活ができ、そして自分が生活するために、さまざまなものへすぐに手をのばすことができる場所などなど、色々と事例を挙げていくことができます。
それを踏まえ、劇中での太一の行動を見てみましょう。上に引用したスクリーンショットの通り、太一とコロモンは自宅でできるあらゆる行動をとろうとします。冷蔵庫には食物が蓄えられていて、好きなときにとって食べることができますし、ふわふわした布団が敷かれたベッドややわらかいソファでまどろんだりすることができます。排泄をするためのトイレという場所が“わざわざ”据え置かれており、(普段なら)落ち着いて利用することができますし、彼らだけでなくヒカリがパジャマであることについても、パジャマ着でいられる空間としての「自分の家」を印象づけていると言えるかもしれません。帰るための場所。暮らすための場所――そういった側面としての自宅が、繰り返し、丁寧に「コロモン東京大激突」では描かれているのです。
「コロモン東京大激突!」において重要なポイントは二つ。それは、主人公が本質的にデジタルワールドの住人ではなく、現実世界での子供であるということと、そして主人公が再びデジタルワールドに戻らなくてはならない、重い運命を引き受けるということです。主人公たちが現実世界で暮らす人間の一人であることを強く印象づけるためには、そこでの生活描写が必要になってきますし、その生活から引き離されることによって、今までとは違う世界が自分の目の前に待っている、ということを表現することができます。後者についてはWEBどうかんやまきかくにある「吉田脚本の主人公性」の引用文のようになってしまっているので、詳細はそちらの論説文に譲るとして、前者について、現実世界の生活を「自宅」に象徴させ、そこでのディティールの積み重ねによりシナリオを効果的に「演出」していた、と言えるでしょう。
映像作品におけるシナリオの緩急やカット毎の時間のペース配分は、その作品を規定づける「リズム」を生み出す重要なポイントになります。それと同じように、何を描いて何を描かないか、何を重視して描写し、どういう“ふるまい”をクローズアップさせるかということで、作品はその作品にしかない、独自の世界を作っていくのだと思います。細田守は、恐らくキャラクターのオリジナリティというものよりも、キャラクターが存在する場やイベントなどを重要視しており、それによってそれまで紡がれてきたキャラクター像が反転し、別の側面を見せてしまう――そんな描写に長けた作家ではないかと、私は感じます。
おまけ。「おジャ魔女どれみドッカ〜ン! 40話 どれみと魔女をやめた魔女」よりガラス細工をする主人公とゲストキャラクターの描写。熱を加えることによって、さまざまな形に変形する特性や、「固まっていてもゆっくり動いている」ガラスに、主人公の行く先や永遠のときを生きるゲストキャラクターを象徴させています。
細田守作品におけるディティールの偏向性
最近は「河童のクゥと夏休み」という映画にぞっこんで、「クゥ」を自分なりに説明するために雑文をちょろちょろと書いたりしています。
そして公開直後、知人と「クゥ」について話したことを思い返したりしていたのですが、その中で「劇中に出てきた東北新幹線の3DCGのディティールが残念だったこと」についての話題が出たことを思い出しました。
確かに「クゥ」はメカニック描写について非常に淡白な映画で、主人公一家の車などもあまり描きこまれていません。
ただ、それはコスト削減の観点から行われたことではなく、私はそれが「そこはあまり、原恵一監督が重視する観点ではなかったから」だと考えています。
写真撮影において、人物をクローズアップしたものを撮りたければ、人物にピントをあわせてその他のものにはあまり焦点をあてない、といったように、
重要でないところはギリギリまで焦点を当てず、観客の関心を逸らさないといった配慮を行ったがためにあそこまでディティールを落としたのではないでしょうか。
そういうディティールの調整について、「クゥ」の中で指摘するならば、たとえばそれは「劇中で出てくるペットボトル飲料において、内容物が水であるならば必ずラベルにどこの産地のものかが書かれており、逆に清涼飲料水ならばラベルには何も書かれない」といった形で現れるのですが――それはここではさておいて、本題の細田守監督作品におけるディティール調整について語っていくことにします。
さて、細田守作品において、しばしばレイアウトやディティールの綿密さ、というキーワードを用いて語られることがあります。
『劇場版 デジモンアドベンチャー』における、ひんやりとした青白い街灯に照らされた光が丘団地の描写。『ぼくらのウォーゲーム!』における、実際のネットワークの構造を生かしたシナリオ設計。『時をかける少女』における、夏の日差しに照らされ明るい雰囲気の教室と、日陰になり湿っぽい空気の理科準備室の対比などなど、細田守作品においてディティールの積み重ねが、彼の作風を彼のものたらしめる重要なキーポイントであることは私も常々感じていて、それをキーワードにすることにも異論はありません。
しかしながら、そういった綿密さや積み重ねのみで細田守の作風が構成されているといった訳ではないということも、時として語られるべきでしょう。
たとえば作風においてディティール以外に語られる要素として、私が見てきた限りでは「馬鹿っぽいギャグ」といったものが挙げられます。登場人物が面白おかしい、ゆかいな発言や行動をとる。そのことについて個人的な印象で申し訳ないのですが、キャラクター付けされた登場人物が、「そういうキャラクターとして振舞う」ことでギャグを生む場合が多いように感じます。「時をかける少女」における紺野真琴はまさに彼女に付与された「バカ」というキャラクター性によって数々のギャグを生み出しており、彼女の行動はバカの神様のためにバカ儀式を行うことによって敬虔なバカ教徒であることを示しているようにしか見えません。それ以外にも優等生でしっかり者である津田功介や、だらしなくちょっと悪っぽい雰囲気の、一匹狼である間宮千昭など、「時をかける少女」に出てくる登場人物たちは非常に類型化されたキャラクターとしてはじめに登場します。それなのに、彼らはとても生き生きと動き、ついつい感情移入してしまう――では、時をかける少女があれだけのヒット作品になった理由は、キャラクターが類型的であるが故に感情移入しやすかったからなのでしょうか。その理由には、作風の特徴であったはずのディティールの綿密性は関与されていないのでしょうか。
――ここで、一番初めに提唱させていただいた、「ディティールの調整」という概念を挿入し、これからの記事を展開させていただきます。
細田守作品を表面的なデザインの面で特徴付ける「(人物の)影無し作画」。こちらについては今までさまざまな形で語られてきましたが、この記事において重要な言説として、細田自身による「作画チェックが楽になり、レイアウトに力を入れられる」という発言があります。
確かに「時をかける少女」におけるアニメーターによる人物作画は、かっちりとした貞本氏本来のキャラクターと比べてかなりユルユルで、私から見たら大きく逸脱しているように感じます。しかし同じようにアニメーターが描いたものである携帯電話は、機種が分かりそうなほどのディティールが雰囲気として描きこまれています。
携帯電話は、現代の高校生においてなくてはならないツールという一般論に落とし込むまでもなく、劇中において彼らの携帯電話はシナリオ上重要なアイテムとして何度も登場していますし、劇中においてメインに描かれていた、真琴の交友関係や千昭と真琴の恋愛劇を象徴するアイテムとして、携帯電話はとても重要です。いくら携帯電話で場所に関係なくコミュニケーションがとれたとしても、死んでしまった知人の携帯電話にメールを送信することはできませんし、ましてや未来にメールをすることは不可能です。携帯電話の利便性と、逆説的に浮かび上がるメールや電話で救いきれないディスコミュニケーションは、まさに「時をかける少女」のシナリオの骨子のメタファーになっていると言えるでしょう。
劇中において携帯電話の存在が重要だからこそ、作画に機種まで分かるようなディティールを必要とした。そしてそういったディティールの偏向性とその的確さが、細田守作品の「レイアウトやディティールの綿密な積み重ね」という評価に繋がるのではないでしょうか。
――しかしながら、携帯電話などのデジタルガジェットは「ぼくらのウォーゲーム」「SUPERFLAT MONOGRAM」などで繰り返し描かれてきたアイテムであり、「劇場版デジタルモンスター」でも電子機器の異常を説明するカットが幾度も挿入されたりと、それらは細田守の「お気に入り」としての偏愛の対象ではないか?という疑問もあります。
なので、もし作画の(ある意味での)偏りがディティール調整の影響下にあるとするならば、他の細田守作品におけるデジタルガジェット以外のディティールの偏向性を発見する必要があります。
ここで一旦記事を切り、次回の記事で新しく「デジモンアドベンチャー21話 コロモン東京大激突」を取り上げ、細田守作品におけるディティールの偏向性の説明を追記させていただこうと思います。