20080221

デジタルワールドに育まれた彼ら「デジモン世代」の心たちについて(書き途中)

気がつけばもう2月の後半で、2月の最後までブログの文章をゆっくりと書く時間がとれなさそうにないので、1ヶ月に1回更新させる!という意味合いで、前々からゆっくりと書いている文章をUPします。
いずれは完全版をUPする予定なので、その際にはこのエントリーを消去する予定です。

先進世代と後進世代の対立というのはオタクの世界以外でもあることで、それは先進世代がその文化空間で地位や地歩を固めるため、後進世代を支配しようとしたり、あるいは拒絶しようとしたりする等といった摩擦によって生じる。後進世代はその空間で生き残るために、先進世代に「弟子分」として認められたり、或いは先進世代を凌ぐような知識や業績を得る必要があるのだが、逆に、先進世代の影響力が少ない文化空間で独自のコミュニティを形成し、そこで生きていくという方法が取られることがある。

若年オタクにつきまとう劣等感よりも不気味な何か - (Over the Rainbow -或るオタクの遠吠え-

一部分の記述に執着してしまうのも何だが、この記事を読んでまず疑問に思ったことは「デジモン世代」と呼ばれる彼らは先ほど述べたことの後者の文脈で「デジタルモンスター」というアニメ(と、それを取り巻く空間)を楽しんでいるのであり、「デジタルモンスター」というアニメへのノスタルジーや、「デジモン的な作品」というジャンル幻想が消えない限り、“閉塞”という状況は生まれないのではないか、ということだ。つまり、彼等が愛する「デジタルワールド」が共同幻想を保持する豊穣な空間である限り、彼らは“閉塞”とは無縁であろう、と。
この記事で述べられていることは、上の世代から与えられる圧迫感の印象、といったようなものであり、だからこそ私はこの記事が相手方にとって謂れのない言い掛かりになることを恐れてトラックバックを飛ばすことをとどめたのだが、しかしながら私はあるポジティブな期待を表明するために記事を書き進めさせていただくことにする。それは、「デジタルモンスター」という作品に象徴される新しい形の文化への期待だ。

まず、世代を代表するアニメとは一体どういったものを指すのだろうか?ということから考えよう。エヴァンゲリオン、ガンダム、宇宙戦艦ヤマト――アニメであれば、この三つが「世代」をつけて語られる作品だろうか。普通、「世代」をつけて語られるアニメというと、『その「世代」が共時体験したもの』という連想から、「その時に誰もが見たアニメである」といった感覚を抱きがちである。しかし、ヤマトとガンダムは本放送時には打ち切りの憂き目に逢っているし、エヴァンゲリオンは本放送時から人気であったにしろ、キー局がテレビ東京という都合上、一部の地方では放送されず、劇場版公開前に行われた深夜の再放送で視聴した、といった人も多いであろう。つまりこれらの作品において、テレビ放送によって流されたアニメーションが共時体験をそのまま植えつけたということは考え難いのである。
では放送後に行われた、劇場映画が共時体験を生んだのだろうか。エヴァンゲリオン、ガンダム、宇宙戦艦ヤマトともにそれぞれの映画版は好成績を残しており、その年の日本映画興行収入ランキングの上位に位置している。しかしながらエヴァンゲリオンの劇場版映画である「THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に」の配給収入成績は14億5千万円と、その年の映画ドラえもんの成績(20億円)よりも低い。もちろん子供向け劇場アニメというものは、子供一人ではなく両親あるいは父か母のどちらかに連れられて見に行くものであるだろうから、成績の値だけを見て物事を判断するのは早計だろう。しかし、子供向け劇場アニメではなく、比較的青年・大人向けと思われる銀河鉄道999(配給収入16億5千万円)がなぜ世代アニメとなることができなかったのかという疑問が残る上、何より記録的な配給収入成績をあげたスタジオジブリの諸作品(特に113億円もの配給収入成績をあげたもののけ姫は、「Air / まごころを、君に」と同年同月公開である)は、オタクの文化史における重要性は認識されていても、世俗的な時代史においては多くの場合「当時の雰囲気」とともに語られることはなかった(あくまでも私が書籍などで見知った範囲内での認識だが)。つまり、これまでに発表されてきたジブリの諸作品は「誰もが見たアニメ」でありながら、その当時のオタクシーンを代表し得るものにはならなかったのだ。では、あまた多くある作品の中から、何故これらの三作品が世代アニメとして選びとられたのだろうか?このアニメに何が描かれていたから、世代アニメになったのだろうか?
――そう、描かれているものが、その世代や時代を象徴していたからこそ、そのアニメは世代を代表するアニメになったのではないだろうか

商業アニメーションというものはひとつの作品に対して多くの人が携わり、作り上げていくメディアであり、それに加え、ヤマト・ガンダム・エヴァは一話完結型の作品ではなく複数話に渡って綴られる連続ドラマの体裁を持つアニメである。その為、ひとつのアニメをひとつのキーワードのみで語ることはできないが、ひとまず「主人公と、その周辺の環境」を着眼点としてヤマト・エヴァ・ガンダムの内容を顧みてみる。
まずはヤマト。宇宙戦艦ヤマトのあらすじを簡単に述べると、「ガミラス星からの侵略により地球を放射能に汚染され、絶滅の危機に瀕した人類が、遠く離れたイスカンダル星へ放射能除去装置コスモクリーナーDを受け取るため、宇宙戦艦として蘇ったヤマトを発進させる」――といったものになるだろうか。そしてヤマトには、戦艦ヤマトに乗り込んだクルーは老熟の名称である沖田艦長から、若干28才の戦闘班長・古代進まで、ある程度幅広い年齢設定がなされていることと、ヤマトは地球全体の使命を背負ってイスカンダルへと向かった、ということに着目し、その上で以下の記事を読んでみたい。

ヤマト世代が追い求めるものっつーかな。 - (ゲームセンターに明日はあるの?)

「当時は「アニメファン」とそれ以外の垣根なんてものはほとんど存在しなかった。」「「フツーの人がアニメを見ていた時代」それを体験したのが「ヤマト世代」であり、彼らは常にそれを夢想しているのだ」という文章から見えてくるものは「当時は価値観がバラバラではなく普遍的なものとして広がっており、ヤマトを見て感化された人々が『フツーの人』を牽引していくことができた時代だった」ということではないだろうか。事実として、「真っ赤穴スカーフ」リクエストによるラジオリクエスト運動とその成功があり、それ以外にもオタク第一世代である唐沢俊一と志水一夫の回顧対談録である『トンデモ創世記2000』に、嘘か誠か「 「『宇宙船間ヤマト』の再放送嘆願をしましょう」とかいう、いわゆるファン活動をはじめましたね。(中略)札幌テレビとか北海道テレビなど、だいたい五、六十人の署名を集めて送ると再放送してくれた」という記述も見かけられる(実際のところはこちら。確かに、北海道では早い時期に再放送が決定している)。こういった地道なファン活動が多くの人への認知を深め、1978年公開の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の大ヒット(配給収入21億円 78年に公開された日本映画の興行収入ランキング第2位)へと繋がったのだろう。世代を超えたヒットになったかどうかは私には分からないが、少なくともファンとそれ以外、といった趣味思考の垣根を超えた人気を当時獲得したことは間違いなさそうである。

次にガンダムを見てみる。ガンダムのあらすじは一言で説明できるほど簡単なものではなく、
Wikipediaの「機動戦士ガンダム」の項目では、主人公達の物語について「偶然、試作の軍用ロボットを操縦することになった主人公とその仲間たちが、戦火が拡大する中で必死に生き延びていく姿を描いた群像劇である」と曖昧に記述するに留まっている。しかし、この「生き延びる」という事ことが「機動戦士ガンダム」という作中において重要なテーマとなっていることは確かであり、人と人が殺しあう戦争状況下であるという描写が続くこの作品の次回予告は、常に「君は生き延びることができるか?」で締めくくられている。そして主人公アムロ・レイの味方である連邦軍や、時としてはホワイトベースのクルーも全員が全員、アムロのことを信頼している訳ではないというストーリーや、アムロは一人称に「僕」を使い(それまで多くの主人公は、自分のことを表すのに自信を持って「俺」と言った・藤津亮太著『アニメ「評論家宣言」』より)自らの思春期を表現している点なども特筆すべきポイントだろう。ちなみに監督の富野喜幸について、アニメ評論家のササキバラ・ゴウは大塚英志との共著「教養としての〈まんが・アニメ〉」中において富野の創作スタンスは、「思春期の立場からの、大人社会への異議申し立て」によって成り立っていると指摘し、富野喜幸について永遠の思春期作家と表現している。
そして当時、ガンダムやガンダムを受け止めた視聴者について、社会はどういう反応をしていたのかを見ていこう。

2007年の『機動戦士ガンダム』 - 『機動戦士ガンダム DVD-BOX2』発売記念特別企画 藤津亮太・宮昌太朗対談
とりとめない覚え書き「ラノベブームはいつかきた道」 - (歯車党日記
アニメックの頃 - アニメ新世紀宣言

一番はじめに紹介させていただいたURLはその当時の風潮について、そしてその後のものは、ガンダムブームの象徴するものとしてブームの当事者(アニメファン)側からよく言及される「アニメ新世紀宣言」というイベントについて書かれた記事である。特に「アニメ新世紀宣言」についてはアニメ評論家の藤津亮太氏が「「新世紀宣言」に『ガンダム』の持っていた衝撃の多くが凝縮されているといってもいい。」と表現し、角川書店代表取締役も「アニメのキャンペーンにおける最高のキャンペーンの一つ」といったような言及をしている。そしてそこで行われた「宣言」の内容は「アニメ作品は、世の大人たちが決めつけているような子供向けであり、低俗で俗悪なものではない」というヤマトの頃とは明らかに毛色の違ったものになっていて、そこには子供ではない「アニメファン」がアニメを視聴することに対して風当たりが強い現状への憤りだけでなく、既成概念や体制の閉塞への反骨精神、あるいは革新への志向性をも読み取れてしまうだろう。
ガンダムはアニメという表現方法を借りて、リアルで、新しいアニメーションの世界を作り出した。それは決して放送後のファンなどによる後付け設定の賜物ではなく、放送終了直後からさけばれていたものであった(リンク先引用画像はブロンズ社『月刊アニメーション』1980年2月号より)。そしてその世界の住人としてのアイディンティティを持つ存在−−「大人」や「社会一般」とは違う「アニメファン」達の姿が「アニメ新世紀宣言」によって明瞭に映し出され、やがてかれらはマクロスを経て、オタクという特殊な自意識を発芽させることとなる。

−−オタクとはどういった存在か?もはや言葉の定義が霧のように拡散し、意味づけさえ放棄されている現状下で「オタク」を語るのは不可能に近い。しかし、「新世紀エヴァンゲリオン」を監督した庵野秀明にとっては、「オタク」という言葉とその存在について「内向的でコミュニケーション不全(安野モヨコ著『監督不行届』より)」であるというところを特徴として着目しているようで、「エヴァ」テレビシリーズ終了後にはそういった観点におけるオタク批判を行っている。だがそういったオタク批判を行った庵野自身も、庵野の意味における「オタク」であり、自身の「「エヴァ」が自分の心象風景を描いた作品である」という発言からも鑑みて、「エヴァ」という作品について、それはアニメ内部の自己批判的な意識の産物であったとここでは一応は捉えておこう。
そんな「エヴァ」という作品について、簡潔なあらすじを述べていけるだろうか――今でさえ、企画段階のものも含めて様々な設定が明かされてはいるが、その設定をパズルピースのように組み合わせてアウトラインをつかむことは出来ても、エヴァンゲリオン放送当時、特にTV版の破綻したストーリーと、最終2話によって作られた心理的、内面的な作品世界と、それに魅了された人々を説明、表現することは永遠にできないだろう。TV版終了当時、吹き荒れたエヴァ議論の多くは、大塚英志による「自己啓発セミナー批判」やそれに対する数々反論に見られるように、設定ではなく登場人物の内面分析に起因するものであり、当時の世相――アダルトチルドレンやメンヘルという言葉の流行に代表される「自分探し」の空気を如実に反映した、臨床心理学的なキャラ分析合戦の様相を見せていた。かつて「アニメ新世紀宣言」をさけび、アニメを愛好するものとしての矜持を持っていたオタクというアイディンティティが(書き途中)

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