20071010

メモ − 東映アニメーションの子供たちに楽しんでもらう姿勢、について

アニメ『鉄腕アトム』の制作費神話について・1:宮崎駿の手塚治虫批判テキスト全文その他
− 愛・蔵太の少し調べて書く日記

このエントリーのある部分を読んで、エントリーの本筋とは全く関係が無いことを思い出した。
まずは東映アニメーション、会社案内トップに置かれているバナーの文章を引用。


世界の子供と人々に「夢」と「希望」を与える
“創発企業”となることを、目ざす。


先ほどのエントリーで引用されていた、こちらの記事からも引用。


白川 手塚さんは、そうすれば悲劇で終わる世界最初のアニメーションができた、と言うんですよ。だけど、僕は絶対にそれは嫌だと言い張ったんです。せっかく映画を楽しみに来た子供達を、悲しませて帰すような事はしたくないと思ったんですよ。


――思い出したことは以前参加したアニメスタイルイベント「細田守 『デジモン』絵コンテ・コメンタリー」のことで、はじめは太一たちがネット世界の中に入っていくようなシナリオではなかった『ぼくらのウォーゲーム』を、東映の社長さんの一言によって入っていくように変更した、ということ。
私はデジモンファンではないし、もう子供でもない上に、デジモン劇場版は第1作目が一番好きなのでこの変更については何とも言えないのですが(デジモン好きの知り合いにこのことを話したところ、「社長さん神だわ」と唸っていたのは見ましたが)、作品つくりに熱中する余り、緻密に作品を練り上げることのみに集中してしまうようなところを、子供という存在をクッションに置くことによって、開かれた、楽しめる作品を作ろうとするのが東映の理念なのかな、と。
リンクを貼らせていただいた、絵コンテイベントのレポートエントリーにも書いてある「太一がたとえネットの中に入っても何もできないが、別に何かをする必要はなく、中で共に一緒の時間・空間を過ごすことに意味が生まれるのではないか」ということなのですが、これってよくよく考えるとある特定の子供たちがデジモンと触れ合う時の心境とシンクロしていますよね。子供たちは携帯玩具とかカードとかでデジモンという存在を知ることができるけど、子供はデジモンに対して思い入れを抱きこそすれ、できることは子供からの命令だけで、お互いが能動的なコミュニケーションはできない訳で。そんな子供たちに「一緒の時間・空間を過ごすこと」を魅力的に描くのは、確かに賛否両論あると思いますが、とても大切なことのように私には思えてくるのです。
手に入れた携帯玩具やカードで、デジモン達とおままごと的にでも時間を共有する。そんな中でデジモンに特別な思い入れを抱く子供が出てきて――そして劇場にわざわざデジモンの映画を見に行く人っていうのは、おそらく大抵がそういう子供たちなのですよね。太一たちがネット空間に入った後に、ウォーグレイモンとメタルガルルモンが進化するというシークエンスに、私は製作者側からのデジモンが好きな子供たちへの祝福のようなものを感じます。
……もちろん、ウォーゲームの魚眼レンズ=Webカメラの画角を模した演出が、細田守が観客の子供たちに用意した視座なのだというのは重々承知です。しかし、その上でさらに、ダメ押しとして「デジモンと触れ合った子供がネットの中に入っていく」というシークエンスを映画に入れる――作品の完成度如何よりもまず、子供の何かを肯定し、何かを与えることが、東映アニメーション流の作劇作法なのでしょうか。

――そういえば、参加した成安造形大学の公開講座で細田守は「(子供向けを手がけたことで)人間を信頼するというスタンスで作れるようになった」と話された後、隣の山下高明氏に「子供向け、いいですよね!」と話を振っていたなぁ、ということを思い出しつつ、書き留め終了。

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