月は落ち、そして僕達は夢から目覚める


*この小説はフィクションのフィクションであり、私自身のクロノア観で書かれたものな
 ので、なるべく合わせては御座いますが公式設定とは食い違っている所(デッチ上げ)
 が少なからず存在します。
 しかしこの小説によってあなた自身のクロノア観が悪い方向へと変悪されたことによる
 損害責任は持ちません。
 あくまで私の『夢』として捉えて頂ければ不幸中の幸いです。



月は落ち、そして僕達は夢から目覚める
 Written by new 2003/3〜6


 この世界には、二つの大陸がある。
 それぞれの大陸は一つの国によって統一されており、
 この二つの大国は互いを牽制しながら危うい均衡を保っている。


蒸気が人の力に替わり世界の鼓動となってから幾十年の年月が過ぎ、
 労働者階級というレッテルが資本主義社会によって産み落とされた時代――



1(ボルク)

 遠くから声が聞こえる。
 くぐもって響くその音は、雨の音にかき消され、僕の周りに転がる雑音と混じって僕の耳に入って来る。しかし決して同じものとならず、その音は僕の耳の中で特別な響きを持つ。
「労働者の権利を守れ! 」「ボルク政府の横暴を許すな! 」彼等ははっきりとそう言っていた。彼等。おじさん達。見知らぬ人も居れば、僕と顔見知りのおじさんも居るだろう。おじさん達が何時も工場で出しているような怒鳴り声のような叫びは、僕の元まで届く前に色々なものにぶつかり、磨り減って石ころのような大きさにまで小さく、弱くなってしまう。そんな囁いているようにしか聞こえないシュプレヒコールがさっきからずっと繰り返されている。レコードの針がゴミに躓いて、ぶるぶると同じ場所を行ったり来たりしているかのように。
「今日もデモするって言ってたぜ。だから誰も居ないって」そういえば友達がそう言っていたような気がする。昨日もデモだった。今日も同じ。僕にはそれがどんな意味があるのか分からない。何か訊いてもおじさん達は「子供はまだ分からなくていい」とか「子供は遊んでればいいんだ」とか言って、僕の質問をうやむやにする。
 雨粒が僕の前髪を滴り落ち、僕の膝を濡らした。僕はその冷たさに凍える。
「二十日午後、ボルク市街で広がった、ボルク政府が行った反政府主義者の大規模検挙に対する ブリーガル系住民による抗議ストライキは過激さを増し、暴動化しつつあります。警察が鎮圧作戦を進めていますが、念の為、善良なるボルク市民の皆様は一歩も建物の外に出ないようにして下さい。繰り返します――」じっちゃんと朝ごはんを食べていた時、ラジオがそんな事を喋っていた。分からない言葉が一杯でちんぷんかんぷんで、だからじっちゃんに訊ねたんだけれど、おじさん達と同じで何も教えてくれなかった。
 でも僕は、僕の目で、それが何であるかを良く分かっていた。街を歩く僕に、以前は感じられなかった、友達が僕をいじめている時にするようなちくりと感じる視線が突き刺さってきた。友達だけじゃなく、街全体が僕をいじめようとする。塞ごうとする。ビルが倒れてきて、空を覆っている黒雲が僕を閉じ込める。
 だけどここは大丈夫。何故ならがらんどうだから。僕の右にはいつ回収されるのか分からないゴミ袋の山。生ゴミだからもう腐ってる。左には高い高い電柱。僕の後ろには窓の無いアパート。屋根には庇があるから、僕は体半分までは濡れる事は無い。そして今僕は座っている。半年前からある、粗大ゴミの鉄の箱――工場から持ち出してきたのだろう、何に使うのか分からないけど――を椅子にして。
 だから太腿より先は庇からはみ出てびしょびしょになっていた。箱の上で三角座りをしたら雨から身を守るけど、でも僕はそんな事どうでもいい。僕は今日、ここにこうやって座るって決めたんだ。だから、どうでもいい。
「捕まった仲間を解放しろ! 」「移民を差別するな! 」おじさん達の声が聞こえ、友達の声が僕の頭の中で繰り返される。だからここには誰も居ない。友達がラジオのアナウンサーに変わる。だからここには誰も居ない。そして窓の無いアパート。誰にも邪魔されない、僕一人だけの空間。僕はそんな安息の空間に身を投げ出し、浸った。眠る訳でもなく、僕は頭をかくんと垂れ、喋る訳でもなく、僕は口を開いて空気を通した。
 朝から降っていた雨は昼過ぎから激しさを増し、少し弱まったかと思うとすこし前から再び豪雨となって降り出した。それによってとうとうおじさんたちの声がかき消される。雨がシールドになり、完全に僕は世界から区切られた。
 雨音が絶え間なく続く拍手のように、細長く余韻を残し僕の耳に滑り込む。僕の前髪からまた雫が垂れる。そこに影絵が差し伸べられた。沈黙はすぐに破られた。
「おい、起きろ」
 友達の声だ。それが幻聴ではないことがはっきりと分かる、威圧しようとする声色で友達は僕を呼んだ。僕は反射的に――友達の声を聞いたらそうするようになっていた――顔を上げた。友達が腕を組んで立っていた。
 友達は傘を差していた。昨日、天気予報で雨の予報が出ていたからとか言って取り上げられた僕の傘だ。僕の心には怒りという当然の感情は芽生えず、ただ友達が僕の傘を差しているという事実のみが平然と居座ってあくびをかいていた。ああ、僕の傘をさしているな。出会って最初の頃にはあった役に立ってよかったという自虐精神ももちろん無くなっていた。傘を伝った雨垂れが僕の膝に落ちた。友達は替わりの傘を持って来ていない。当たり前の事だけど。
「今日、教会に忍び込む約束だったよな」
 約束。僕の心の中でその言葉の意味を自分に向かい問いただした。僕は昨日友達が告げてきた今日の計画について覚えていた。だけどそれが約束だなんて知らなかった。いや、僕も一緒に行く事はちゃんと計画の中にあったのだ。でもそれは約束じゃなくて、もっと違う言葉で表されるものだ。
 別に嫌だとは思っていない。でも好んでしようと思わない。ただ、ばかばかしいと思った。だけどそんな事は友達には言えなかった。「来てくれるよな」と言う友達に、「うん」以外の返す言葉が思いつかなかった。その「うん」は、約束の「うん」なのだろうか。
 でももうどうでもいい。「うん」は「うん」なのだ。友達は僕に背を向け歩き出した。僕が付いて行く事を知っているから。僕は箱からジャンプして、降りしきる雨の中に舞い降りた。僕は友達の背を見て、暫くその場に立ち止まって友達についてあれこれ考えようとした。だけど今度は教会に忍び込む事で頭の中が一杯になって、何も思いつかなかった。
 箱から飛び降りたまま立ち止まる僕に友達は振り向いて、そんな僕に対して怒ったのか、声をいっそう荒げて言った。
「行くぞ、クロノア」
 僕はその声に駆られ、慌てて走り出した。雨の中を駈けると、また再びおじさん達の声が聞こえてきた。

 お祈りに行く水の日以外に僕は初めて教会の前に立った。拝風教ギデオン協会ボルク支部。通称ボルク教会。僕たちは尖塔の先につけられた印章から風車教会と呼んでいた。その印章が雨雲と工場から出る煙の黒雲によって薄暗くなった中、不気味に輝いている。
 おじさん達が居るらしいボルク市役所前広場の方から破裂音が聞こえ、続いて叫び声が上がった。雨に濡れ、おじさんの声は湿って響く。学芸会のお化け役が決って上げる、あのおどろおどろしい声のようになった。
 傘が四つ、帽子が一つ、教会の正門前に並んだ。教会は門戸を固く閉ざし、暴徒が教会内部に入り込むのを防いでいる――いや、それは建前の理由だということを、僕は知っている。教会の人が、警察が教会に入るのを防ぐために何時もは使わない筈のチェーンまで利用して自衛しているんだ。おじさん達が悪い人じゃないっていうことを教会の人は知っている。周りの家も同じ理由で雨戸まで閉めて閉じこもっていた。
 検挙。街を歩くと、嫌でもそんな声が聞こえてくるようになった。意味は良く分からないけど、その尖った響きが僕にそれが危険だという事を告げていた。
 一度だけ友達と興味本位で参加したデモで、おじさん達を警察がトラックに詰め込むとき、警察やおじさん達がそう言っていた。ケンキョだ、ケンキョだ。僕は棒で殴られ無理やり入れられるおじさん達を見ながらああこれがケンキョなんだなと思い、それ以来僕達はデモには怖くて行かなくなった。外を出歩くのも控えるようにした。
 なのに、今僕達は外に居る。雨が僕の体温を奪って落ちる。寒い。風邪を引きそうだ。でも、入るのは無理だから、これでおしまいの筈。良かった。家に帰って温かいミルクが飲める。
 だけどみんなの情熱――みんなはそう言っていた――が、一度転がったら留まる事を知らないその情熱が、友達を動かしていた。
「おい、こっち来いよ。マンホールがあるぜ。俺、マンホール開けられるようになったんだ」
「マジかよ」とか「誰に教えてもらったんだ」とか友達が口々に喚き、その友達を囲む。僕も一応、その輪に入る。友達は先の曲がった細長い鉄の棒を担いでいた鞄の中から取り出し、教会から少し離れた公園の方角に向かった。
 道すがら、僕は様々なものを見た。それは家であり、その家の玄関であり、その玄関の鉄格子であり、つまりは景色だった。それら全ての頭上に、普段は雲となってその下に僅かな生活空間を残していた闇が、今日は雨となって地に降り圧し掛かっている。教会から二ブロック先にあった公園も、同じように様々な遊具が雨によって闇に叩き付けられていた。
 公園。ここは公園と言えるのだろうか。このボルクに公園という別世界があるという事を否定したいかのように、全ての遊具にペンキがぶちまけられ、ブランコには鎖が括りつけられている先から引きちぎられて、見るに耐えない全景だった。いや、もう僕達はこういった酷いものに慣れていたから、見るに耐えないという感情はこれを見たときはこう思うものだと客観的に推測した考えだった。。
 友達が、「こっちだ」と言い、皆がそこに集まった。黒いマンホールが防火水槽の隣にあった。「でも、マンホールなんか開けてどうすんだよ」友達が言った。
「決まってんじゃん。下通って教会入んだよ」棒を持った友達がいらついた声で返す。その返答を予測したかのように、友達がすぐさま反論した。「教会にマンホールあるか分かんないじゃん」。「知るかよ、やってみないと分かんないだろ」
「いや、あると思うぜ」別の友達が話の中に割り込んだ。小学院一の優等生だ。
「この教会、元は道路だったんだ。区画整理か何か知らないけど、道路の上にこの教会が建った。だから、元の道路にマンホールがあったら、残っている可能性が高い――賭けてもいいぜ」
 彼に向けておーと賞賛の声が上がる。僕も合わせる。棒を持った友達は、にやりとマンホールの前に立った。
「見てろ……これはバールって言ってだな……」
 友達がバールの先をマンホールの窪んだ所に差し込み、回転させるように押す。「おい、力貸せ! 」という声で僕等はバールに集中し、未知なる道具の感触を確かめようと躍起になった。五人でかかればマンホールはすぐ回った。ガタガタと重いものの割には軽快な音を立て、半回転程した所で「止めろ!」の号令がかかり、僕達はバールから離れた。
「今度は持ち上げるぞ!」
 友達がバールをいったん外し、今度は同じ窪んだ所にバールの曲がった方の先がマンホールの中心に向かうように差し込む。これまでの一連の動きでマンホールの重さをなんとなく掴んだ僕達は、緩慢な動きでバールを手にとった。
「せいのーで!」友達の掛け声に合わせ、皆は力を一つにしてバールを押し下げる。少し持ち上がり、「押せ!」と友達が言うと僕はがむしゃらにバールを押した。マンホールがずれ、開いた。「意外と軽いんだな」
 そう思っているのはバールを持ってきた友達だけだろう。皆は息を切らし、雨が降っているのでへたり込む事も出来ずただ開いた穴を見ている。異次元へと繋がった穴。なんだかそんな気がして、興味本位で僕は公園に開いた穴を凝視した。
穴は直ぐに暗闇に包まれて、どれぐらい深いのか分からない。勢いを立てて水が流れるごうごうという音が聞こえ、つんと粘着質な腐臭が鼻に纏わりつく。下水だ。雨が臭いを閉ざしているのか、下水の割には余り臭わないように思えた。
 三日月形に開いた穴。ここから本当に、教会に行けるのだろうか。
「えーと、ここから教会に行ってくれる勇敢な人は――」
「僕が行くよ」友達の問いかけに間を空けずに僕は言った。確認する為に。僕なんだろ? 
 友達は当然だというように表情を崩さず平然とした顔で、「ほらよ」と僕に懐中電灯を渡した。僕はカチカチと電池が切れていない事を確認して、跪きマンホールを僕が通れるぐらいの穴の大きさになるよう押した。ガタガタと、立てる音は軽いのにマンホールは重い。さっきとは打って変わって今度は誰も手を貸してくれなかった。皆が疲れているから、当然か。
 僕は半分ほど開けた所で手を止め、ちょうど都合よく手前側にあった、降りるための梯子に、僕は足を掛けた。僕は半回転する。目の前には僕を見てにやつく皆の顔があった。やはり僕は浅ましい、とか胸くそ悪いとか思わず――思う前に、僕は穴に身を沈める。体が自然と友達から逃避行動を取り、そんな僕の動きに今やっとはっと気付く。。
「いってらっしゃい」そう言う友達の声は半分笑っていた。その後に友達は何か言ったのだろうか。入ってすぐ、僕の耳は下水の騒音に支配された。
 地下世界は音が全てを支配していた。ごうごうと、全てを、何もかも流し去っていきそうな下水の轟音。建物の二階ぐらいまでの高さを下りきり、僕は下水管の土手――作業用通路に立った。上から零れ落ちてくる明かりは、もう夜空のお月様ぐらい頼りないものになり、方向・距離感覚を失う前に僕は懐中電灯を点けた。
 明かりが暗闇を四方に押しのける。なかなか強力なもののようで、十メルク先まで充分に見渡せた。下水道ってこんなものだったのか、と僕は感慨にふける。直径三メルク程の円管の右に通路が据えられ、足元を物凄い勢いで茶色い水が流れていく。鼻をつまめばなんとか我慢できそうな臭さだった。
 懐中電灯の明かりが上まで漏れているのか、「早く行けェ! 」という友達の声が響いてきた。言葉はすぐに下水の轟音にかき消える。僕は降りてきた向きと教会とマンホールの位置関係を考えながら、教会の正門前に戻るようにして地下の空洞を歩いた。
 卵が腐ったような臭いが僕にくっついてくるのを感じる。当分は卵を食べられないだろう。じっちゃんには学校の化学実験で腐乱臭を嗅いだから卵が食べられなくなったと言っておこう。
そういえば、実験って、この前やったのいつだっけ。
 いや、学校に最後に行ったのいつだっけ。
 僕は学校が閉鎖している事を思い出した。おじさん達のストライキがデモに変わる頃、投石事件が起こって学校は閉鎖された。じっちゃんにはこの事を言っていなかった。友達と遊ぶため、友達がお父さんお母さんをごまかす為、その為に僕も合わせる必要があった。
 ちょうど教会の正門の下ぐらいまで歩くと、友達が言っていたように教会の下を通るようにして下水管が右に曲がっていた。僕はそれを見て取り敢えず一安心した。やった、大巫女様に会える。
 僕は友達とは別に僕だけの目的を持っていた。最後に礼拝した日から僕達を取り巻く環境は悪化し、僕達『風の民』――ブリーガル系住民はボルクの繁華街を歩けなくなっていた。これからどうなるか僕には想像がつかないけど、事態が最悪の方向に向かっている事だけは分かった。だから教会に居る筈の大巫女様の顔が見たかった。
 大巫女様は僕の味方だった。僕達は教会のお供え物のお菓子をくすねる為に忍び込んでいるのだが――実際忍び込むのは僕だけだったけど――、これを始めた早いうちから、いや初めて忍び込んだ時僕は大巫女様に見つけられたのだ。
 大巫女様は優しい人で、礼拝の時必ず最後に壇上に立ち喋る大巫女様の説法は、賛美歌のように清らかでしんみりと僕の心に響いた。大巫女様がお供え物を盗んでいる僕を見た時神様に対して罰当たりだと僕を叱らずにこう、笑って言った。「子供のうちは、甘いものをいっぱい食べなくちゃね」。それから忍び込む僕に対しお菓子を分けてくれるようになった。
 大巫女様は僕がこういう事をさせられているのを気付いていたのかもしれない。そうであれば僕は大巫女様にとてもいけない事をさせていた。だから僕は大巫女様にそうなのか何度も言おうとした。だけど、言えなかった。
 そして今回、これからどうなるか分からないというのにやはり言う気持ちになれなかった。大巫女様の事を思う気持ちより、友達にいじめられるのを怖がる気持ちの方が強かった。そんないじらしい僕がたまらなく情けなく、そんな気持ちを涙にして全て流してしまいたかった。でも、できなかった。
 大巫女様の前で泣きたくなかった。
 僕は歩く。頭の中で礼拝の日を思い浮かべ、自分が教会の講堂に向かって歩く姿を今の姿に照らし合わせた。そうして、今僕が何処にいるかを憶測で計った。今はまだ前庭の前。ここに噴水がある。玄関だ。ここから僕は一歩一歩足取りを確かなものにする。
 受け付けの人がいる所。講堂に入るにはドアが二手に分かれていて、右と左に曲がらないと駄目だからよく分からないけど、多分ここが講堂の壁。そして長椅子の一列目、二列目、三列目と僕は数えていく。十四列目。ここが一番前だ。壇上。ひな壇。パイプオルガン。ああ、もうそろそろ教会を突き抜けてしまう――という所で僕は下りてきた所と同じような梯子を見つけた。あるじゃん。やった。
 僕は梯子をぎゅっと握った。酸化した金属の脆い感触がしたけど、まだ完全には錆びてないようだった。表面がこすれてぱらぱらと舞い落ちた。冷たい、鼻に突き刺さる金属臭がしたかと思うとすぐに腐乱臭が戻ってきた。僕はそれに追い立てられるようにしてしゃにむに梯子を登る。
 やはり二階ぐらいまでの高さを登り、僕は鉄の板に頭をぶつけた。ゴーンという鈍い音が狭い金属管の中で反射する。事態が理解できないあまり僕の頭は空白になり――そして急速に痛みが頭蓋に押し寄せてきた。歯を食いしばり暫くの間痛みをかみ締めた後、僕はめいっぱい口を開けて――
「痛ぁ!」
 僕は大声を上げうめいた。声に出しても痛みは発散しないけど、今は何かに八つ当たりしたい。痛い痛い痛い痛いと何度もうめいて、気が済むまで喚こうとして、だけどその前に僕は息切れを起こした。そして再び耳は下水の轟音に覆われる。
 梯子ばっかり見て上に注意してなかった。降りる時はマンホール開いてたもんな。……って、マンホール空けるとき確か半回転させてなかったっけ? 
 そうだった。僕は絶望に包まれた。梯子に掴まっていなければいけないのに、その状態でどうやったらマンホールを回せるだろう。
……いや、いいや。まぁとにかく押してみよう。僕は右手を離し、鉄の板を押し上げた。
 マンホールは開いた。そのあっけなさに僕は思わず肩の力が抜けそうになる。まるで予め僕がここに来るのを予期して誰かが開けていたようだった。降りてきたときのものより遥かに軽いそのマンホールは、僕の手の力一つでなんとか持ち上げる事ができた。友達と開けたマンホールのように、僕はマンホールを横にずらして静かに置いた。
 僕は再び穴から地上世界に舞い戻ってきた――筈だった。しかしそこは何故か元通りの常闇の世界だった。理由はすぐに判明した。ここは教会の床下だ。とすると、どうやって僕は教会に出て行こうか? 
 僕は取り敢えず全方位を見渡した。懐中電灯を振ったり、消したりしていると、四角形に切り取られた燐光が床下に差し伸べられている所を発見した。何故だろうと一瞬思った心に、あそこから上がれるんじゃないかという希望が上書きされる。良かった。これで大巫女様に会える。僕は穴から這い出し、匍匐前進で教会の光が零れ落ちるその場所へ進んだ。昔道路に使われていたというアスファルトは冷たく、舞い上がった埃は僕の鼻を擽った。
 一辺一メルク程もあろうかという光で区切られた正方形の中に僕はいる。僕はそっと、壊れやすいものを扱うようにして正方形に切り取られた床の木を押し上げる。動かない。何かにつっかえて動かないようだった。正方形に対し力を不均一に入れたのが悪かったのかと今度僕は両手で床の木を押し上げる。埃のようなものがぱらぱらと舞い、燐光が煌いた。そして床が少し持ち上がった。成功だ。
 僕は更に床を押し上げた。僅かだった光が一気に僕の元に雪崩れ込んできた。僕はその眩しさに目が眩み、瞼を閉じ、そしてそっと開けた。柔らかいあの教会の明かりだ。マンホールと同じように、僕は切り取られた床を完全に持ち上げ、床に置いた。僕は完全に明かりの中に舞い戻った。
 講堂の神聖な雰囲気とは裏腹に、僕が見上げているのは僕の家のリビングを数倍に広くしたような家庭的な雰囲気漂う部屋だった。ソファが置かれ、暖炉があり、テレビジョンがあった。大巫女様や神父様はこんな部屋で暮らしているのか。
 僕は大巫女様や神父様がここで生活している様子を想像しながら教会のリビングを物色した。今の状況が忘れられる程、その部屋は暖かく、僕を内包した。
 壁掛け時計の長針の先まで見渡すと、僕はお供え物をくすねるために――いや、大巫女様に会うために床下から這い出た。パイプオルガンの裏、大巫女様が住んでいる所は未知の世界だ。とにかく僕は講堂まで出ようと靴を脱ぎ、ドアの一つを開けようとした時――
 ドアが開け放たれ、大巫女様が飛び出してきた。
 僕はまるで始めてあった時の――くすねたのがバレた時のように、僕は硬直した。余りにも大巫女様の出現が唐突だったのもあったけど、まず僕が第一にびっくりしたのは大巫女様の驚いた顔だった。大巫女様は慌てていた。それは式の開催が大幅にずれ込んだりしても見せなかった焦りの表情だった。
「……クロノア」
 大巫女様は僕を確認するように言った。僕は頷いた。
「……どうしたの? こんなに埃まみれで……しかもその臭い……」
 僕は下水を通ってきた事に気が付いた。臭いが身体に染み付いているはずだ。僕は鼻を塞いでも、その隙間から染み出るようにして鼻腔を通ってくる程強烈な臭いの中を進んでいたから、多分感覚が麻痺しているようで気付かなかったのだが、平穏な空間にいきなりこの臭いが表れたら戸惑うはずだ。僕は大巫女様並みに慌て――でもどうする事もできなく、ただ手を前に突き出し心配要らないよというつもりで左右にぶらぶらと動かした。
 しかし大巫女様は僕に心配の声を掛けただけで、この臭いについて何も表情の変化を見せなかった。それは本当の気持ちの上に穏やかな顔つきを塗ってごまかしているのか、無頓着とも言える優しさなのか、僕はそのどちらでもないと思った。
 大巫女様は焦っていた。何か重大な決断――しかも両極端な――を迫られて、どちらともとれない状況で戸惑う時の表情によく似ていたからだ。大巫女様が静かに取り乱すぐらいの衝動。生活空間が腐乱臭で掻き乱されても平然とできる程の切羽詰った状況。僕は身震いした。
 大巫女様は僕の背後を一瞥し、そして何かを納得したかのような表情を見せた。微細な皺の変化だったが、横を見たときにもう大巫女様は僕がしたことを気付く筈だ。つまり下水を通って僕はここまで辿り着いた。途端大巫女様は呆けたような顔つきで一瞬固まったかと思うと、逡巡するように目線をあらゆる所に泳がせ、そして最後に僕の目を見つめ、僕の肩に手を置いた。
 僕はその行動が何を意味するか直に悟ったが、大巫女様がその行動を取るとは思えなく――しかも僕に――、僕は全くその大巫女様の行動に理解できなかった。
……大巫女様が僕に頼みごと? 
いや、そんな筈は無い、ありえない。僕なんかに。それに大身子様なら頼める人はいっぱいいる筈だ……。
 だけど大巫女様は、言った――「お願いがあります」から言葉は始まった。
「――クロノア、世間は今大変な事になっています――分かるでしょう、今の状態……。社会が歪んで、そこから生まれた混迷はやがて世界を支配し、私達を陰の風に導くでしょう。はっきり言いましょう。私達はボルク政府に捕まります。警察が私達『風の民』を全員検挙するという情報が入りました。私達は捕らえられるのです。今もう警察がこの教会を取り囲んでいるはずです。警察の目的は私の逮捕にあります。だからクロノアさん。私達が守ってきたものを、陽の風が吹く所に、ブリーガルに持っていって下さい――」
 大巫女様が始めて僕の事を「さん」付けて呼んだ。職業上の立場で大巫女様は儀式の時、名前の頭に「風の息子」と付けて人を呼ぶ事になっていた。また、呼び捨てをする場合は話し相手と対等の立場に立った時であり、そして「さん」を付けて呼んだ時は――
 今まで味わったことの無い、身震いしてしまうような緊張と共に僕の頭でブリーガルという単語が顔を左へ右へと駆け抜ける。ブリーガル。それは大巫女様の言葉の中で何時も『陽の風が吹く所』と言い換えられていた場所であり、曰く『心の故郷』だった。
それは僕達『風の民』の故郷であり、僕達の希望だった。ファントマイルを構成する二つの大陸。一方の大陸にボルクがあり、対になるようにしてブリーガルがある大陸が存在する。未だ見ぬ僕の、僕が繋がる源の故郷。それがどういった形で存在するのか写真でしか見た事は無いけど、写真に写る人たちは皆笑い、そしておじさんは何時もこう言った。「何時かは金を貯めて、ブリーガルに戻るのだ――」。太陽が沈む、もっともっと先にある所。そんな所に僕は――
「無理だよ! そんなの――御免なさい、僕には絶対に……」
「私達神職についている者は厳しく政府から管理されています。だから私達が何人か、今何処にいるかなんて警察は把握している筈……。分かりますね、私達の中の誰か一人が抜ける事は出来ないのです。つまり貴方しか居ない……クロノアさん!」
 大巫女様は僕の肩から手を離した。僕は大巫女様に突き飛ばされた訳じゃなく、差し出されたあまりにも巨大な大巫女様のお願いに圧倒し、後ろによろめいたのだ。離れる僕を繋ぎとめるように、大巫女様はそっと僕の手を握った。
 初めて触れる大巫女様の手は繊細で、すべすべしていた。友達の拳骨や、おじさんのごつごつした岩のような手、じっちゃんのふさふさした掌しか握った事が無かった僕にとって、大巫女様の手はそれらのどれよりもか弱く、今にも崩れ落ちそうなガラス細工のようだった。だけど暖かく、その手に包まれると僕の手は――気持ちまでもがふわふわと宙に浮いている感じがした。
 僕の胸の内から何かが込み上がって来た。それは喉を熱し、からからにさせ、喉は渇かなかったけど声を出す力を無くした。しかし声にしなくとも、僕の気持ちは大巫女様に伝わっただろう。僕は大巫女様に衝き動かされた。しかしそれは諦念によって受け入れたのではなく、僕の心から湧き出るものと共鳴したからだった。僕は生まれてから一度も感じる事の無かった感情の昂ぶりに顔が火照り、そして僕がそれを無意識に渇望していた事を知った。
 それは決意という、誰からも与えられない、自分一人の力で手に入れる自分だけのもの――意志だった。
「クロノアさん、お願い。貴方しか居ないの。ブリーガルまで行けとは言わない。捕まってもいい。だけどできるだけ遠くに、遠くに行って頂戴……彼等の好きにはさせたくないの! 」
 僕は大巫女様の手からするりと手を抜き、逆に握り返して言った。「それは何処にあるの」。握る手の力で、僕は大巫女様に決心を伝えた。手を通じて大巫女様の鼓動が響いてきた。
 大巫女様は突然の僕の豹変に吃驚し、そしてすぐに表情を切り替え切迫した声で言った「こっちよ」。冒険小説によくある、王女様が信頼する部下の騎士に貴方だけのお願い事を言うシーンに似ていて、僕は少し誇らしくなった。でも王女様がお願い事をする時は、最悪の事態が避けられなくなったぎりぎりの時だけだ。
 大巫女様はらしくない早歩きで僕を導き、歩幅が小さい僕は大巫女様に合わせせわしなく足を動かした。僕は大巫女様の手を握っていた。そうしていないと、大巫女様と離れそうだったからだ。僕は大巫女様の柔らかい指一つ一つと、暖かさと、手を伝う血潮の確かな響きを感じ、ずっとこのままだったらいいのにと思い、それができない現実を呪い、そしてそれをも押し潰そうとしている現状に慄いた。
 だから僕はこの時を大切に心の物置に閉まっておきたいと思った。時がゆっくりと進む事を切望した。だけど大巫女様は早歩きで時を急かした。時は矛盾する二つの思いの間を取り持つように、何時も通りに進む。
 僕が始めて訪れる空間は眺める余裕もなく過ぎ去って行った。そして僕は、新たな部屋の前に立った。大巫女様は胸元から鍵を取り出し、錠前を取り外して観音開きになっている扉を開け放った。見るからに重そうな扉は、寝ている人を起こした時のように緩慢に身を捩らす。教会の、ここはおそらく宝物倉庫だった。
 光が差し込まれ、様々なものが露わになる。宝物倉庫とは言ってもその大概が全て木箱に入れられ、しかもそれら全てが柔そうな素材で作られており、それによって大体中に入ってあるものが想像できた。しかしその『宝物』の中で一つだけ、異彩を放つ木箱を見出した。
 その木箱は金属で縁取られ、最近開けられた形跡があった――箱に埃がついていなかった。他の宝物は半年に一回の住民総出の大清掃でしか掃除されないのに対し、この箱だけは頻繁に手入れされていた。そういえば以前、僕も掃除を手伝った時一度だけここに入ったことがある。その時、たしかこんな木箱なんて無かったような――
 大巫女様はもう一度胸元から鍵を取り出し、木箱を開けた。僕は箱の中を見た。顔を突っ込まなくても、僕に託したい物が何であるか一目で分かった。
 頑丈な木箱に入れられ、更に中を白粉のような真綿で覆われた箱の中に、まるで胎児のように眠っているものは一つだけ――リングだった。巨大な、僕の顔ぐらいありそうなリングがそこにあった。
 金色の、見るからに高価、いや気品のあるリングには巨大な碧緑色の宝石が埋め込まれており、それは僅かな光を反射して淡緑に煌いていた。
僕は、これを、ブリーガルに。
 それは確かに貴重なリングだったが、僕にまで縋ってボルク政府に奪われないように躍起になる程金銭的価値のあるようなものに思えず、また、僕達が直面している極限状態下でそんな価値は意味を成さない筈だ。それを差し引いても重要だというこのリングが持つ意味、それはやはり僕の手に負えるものではないような気がして、ここまできていて僕は尻込みする。
 だけど僕はそこで踏み止まった。発想を転換させた。大巫女様がそこまで言うのなら、ようし、僕が出来る所までやってみよう――そう、やるしかなかった。
 大巫女様はリングを手にとった。思っていたより重い物でなく、大巫女様はリングを持っても平然としていた。このリング、何で出来ているんだろう。まさか金メッキじゃないよね。大巫女様は何の説明もなく、ただ「これを」と僕に差し出した。
 今更ながら僕は大巫女様の顔色を伺い、そして僕はリングを握った。大巫女様の気持ちが、このリングを通して伝わってきたような気がした。決意。
 決意。
 大巫女様は手を放した。リングには手応えがあったが、気軽に持ち運べるほど軽い物だった。片手で持てそうだ。僕は左手でリングを持ち運ぶ事にした。大巫女様はそんな僕の姿を見て、僕の心を慮る心情を吐露した。
「無理、しないでね。抵抗して死んじゃ駄目よ。……あと、こんなむちゃな仕事を押し付けてしまって御免なさい……」
「大丈夫! 任せてよ!」
 僕は大巫女様のそんな気持ちを吹き飛ばそうと精一杯の元気な声を出した。無理はするけど、死なないよ!
僕は笑った。大巫女様はそんな僕に呆れ、そして安心し、微笑んだ。こんな感情が沸き起こるのは何年振りだろう。僕はそんな大巫女様を見て嬉しくなった。
 だけど何時までもこうしてはいられない。「じゃあ、行ってきます」と言い残し、僕は元来た道を走った。出来るだけ早く遠くへ行かないと。
走る最中、僕はちらりと宝物倉庫を振り返った。大巫女様は宝物倉庫の中央に立っていた。目は僕をじっと見つめ、不安が三分、そして遠慮がちの期待が七分の視線を僕に投げ掛けていた。大巫女様、止めてよ。そんな目をしたら、僕達一生会えなくなりそうじゃないか。もう一度会うんだから! 僕はもう一度、大巫女様の手を握るんだからね! 
 僕が教会のリビングに戻ると、礼拝の日に見慣れた神父様や神官さんが正座し黙想していた。顔には苦虫を噛み潰したかのような皺が走り、涙を流している人もいた。学校の宿題が終わらなくて、がんばっているのに仕上げられそうにない時、僕は迷わず寝る事を選択する。覚悟を決める。神父様とてそれは同じだった。僕が寝るように、神父様も黙想しないと、捕まってしまうという事実に耐えられないのかもしれない。
 僕は行ってきますとも任せて下さいとも言えず、無言で靴を履き――それは誰かが乾かしてくれたのか乾いていた――来たときと同じように床下に滑り込んだ。でもさすがに神父様達が居た堪れなくなり、僕は複雑な気持ちになったとき何時も口にする言葉を呟いた。
「……ごめんなさい」
 僕は来た道を返った。リングがつっかえないかと心配だったが来た時と同じように通り抜けることができた。
僕は再び暗闇の世界を這いずり回る。懐中電灯を点けるため、僕はリングを手に通し、その手で懐中電灯を持った。僕の周りに黄色みを帯びた世界ができた。逆再生で、僕は梯子に手を掛け、ゆっくりと――気持ちは急いで降りて行く。
 不安定な梯子から下水道の通路に足を下ろしたとき、僕は一つの要件を達成した達成感と、それと共に沸き起こる安心感に包まれた。地下世界の暗闇は今度は僕を守ってくれる。さて、どう行こうか。僕は取り敢えず来た道を戻ることにした。
 そういえばみんなはどうしているだろう。警察が取り囲んでいるって言ってたよな。とするとみんなは――
 確か、マンホールが開きっぱなしになっていた筈――
 ――警察の目的は私の逮捕にあります。
 僕の頭の中で大巫女様の言葉が繰り返された。大巫女様は僕達の精神の拠り所になっている。だから僕達の意思を挫く為警察は何としても大巫女様を捕らえるだろう。大巫女様の住んでいる所、風車教会の近くの公園で開けられたマンホール。警察に対し友達は何と言うだろう。それは考えずとも分かった。
 僕は反転した。今までに無い程大きく僕の心が波打っている。僕は全速力で駆け出す。目の前に浮かぶ光の円が大きく揺れる。直後、僕の背後で人の気配と、それに続く無数の足音を聞いた。「動くな! 」
 嫌だ! 僕はもっともっと、速く走ろうとした。警察だ。僕の心が小さい僕の体の中でのた打ち回り、僕の頭は逃げる事で一杯になった。逃げろ。走れ。逃げろ。走れ。逃げろ。
 お話ならこの次は止まらないと撃つぞと言う筈だった。しかし僕はその代わり銃声を聞いた。問答無用だった。薄い膜を被せられてまだぼんやりとしていた現実が僕の目の前にその巨躯を現した。デモ現場で響くあの音。空気を切り裂いて一変させる音。それが僕に向かってくる。
 尚も銃声は響いた。ズドンと一吼、僕の左前方、下水管の壁に弾痕が穿たれた。僕はその事を見て見ぬ振りをし、走る。前から後ろへ痕跡は流れていき、また僕に再確認させるかのように弾痕が、今度は二箇所、目の前に現れた。狙っていた。銃撃は正確だった。だから次は――
 僕の左手に衝撃が走った。痺れるような痛みと共に、明かりがふっと消えた。
懐中電灯が、吹き飛んだ。
 僕は前後左右分からなくなり、とにかく今までやってきたのと同じように走る。真っ暗闇で、何も見えない。同じ事の繰り返しで、感覚が麻痺して果たして僕が動いているのかさえも分からなくなってきた。ただ感じるのは、僕の汗と、激しく収縮する僕の心臓と、遠い銃声と、そして地を蹴る足の感触のみだった。相手も僕の位置を探れないのか、散発的な銃撃を散らして、止んでの繰り返しが続いている。しかし危機は続いている。僕は走り続ける。
 続いていた銃撃も止み、静寂が訪れる。それも束の間、精神の集中によって聞こえなくなっていた下水の轟音が再び僕の耳を塞ぎ、悪臭が鼻を刺激した。僕は来た時と同じように――今度は右手で鼻をつまみ、汚臭によって麻痺し、今にも僕の体から溶け出ていきそうな全ての感覚をなんとか保った。もう訳が分からない。僕は今何処に居るんだろう――いや、僕はそもそも今何をしているのだろう。
 ただこうして地を蹴り、踏むの繰り返しの、果てのないように思われる運動が僕を混乱さる。僕は何をしているんだ。僕は何をしているんだ。僕は――
『危ない!』
 突然耳元で声が聞こえた。僕の身体を中心に淡い緑色の光球が生まれる。懐中電灯よりも小さい、せいぜい二メルク程の明かりだったが僕の身に迫った危機を示すのには充分だった。
 目の前で突然下水管が左に曲がっていた。僕はよろけそうになりながらも、なんとか壁に身を凭れるようにして身を捩り下水に転落するのを防いだ。僕の心が大きく跳ね上がり、そしてどすんと元あるところに戻った。その衝撃で僕の臓腑が揺れた。もしこのまま進んでいたら――無為な考えが頭の中に広がる。下水に落ちて、僕は溺れ死んでいただろう。僕は声に助けられたのだ――しかし誰の?
 淡緑の明かりは僕を生へ誘った。縋るような思いで、僕は明かりの指し示す方向――とにかく前へ走る。過去これだけ自分の肉体を酷使した事があっただろうか? しかし疲れは全然感じていなかった。生き延びたい。僕は切にそう思っていた。
『左へ!』
 また声が僕を呼んだ。目の前には丁字の分岐路があった。右から左へと、さらに大きな汚水の濁流が流れていく。疑うことなく、僕は左へ曲がった。警察が、この暗闇までもが敵と感じられた今は、何処からともなく聞こえるその声だけが僕の味方だった。根拠もなく僕はそう信じた。
 更に大きな下水管に僕は入った。明かりが下水を挟んで対岸の壁まで届かない。直径五メルク程もあろうかというその下水管はボルク河が氾濫した時のようなごごごごという音を立てて流れていた。臭いも倍増。もうここまでくると、鼻が潰れてひん曲がって、臭いなんてちっとも分からなくなったけど。
『今度は右!』
 言われる通り僕は壁伝いに走った。今度は下水管が左右に分たれている。合流し、一つの大きな下水管を作っていたのだ。
――そうやって言われるがままに行動していると、余裕を取り戻した僕の頭がしきりに声の主が誰なのか説明を求め始めた。しかし僕は荒い息で充満した口から声を出す余裕まで持ち合わせていなかった。
 蛇行する下水管の中を、僕は進む。
『右へ!』
 丁字の横棒に、僕は居た。右に分かれる道がある。曲がり、暫く走った。
 声が途切れた。しかし指示が無いので、僕は走るのを止めるわけにはいかず――とにかく走るしかなかった。声が聞こえてこないのは僕を少し心配にさせたが、その代わり明かりが僕の前を正確に照らしていた。地下世界を、僕は駆け抜けた。
 どれくらい走っただろう。『止まって!』という声が聞こえ、僕は慌てて足を止めた。濡れたコンクリートの床で滑りそうになったが、通路に据え付けられた手すりにつかまりなんとか姿勢を安定させる。足音さえ聞こえなくなり、僕の息遣いと下水の流音が再び僕の周囲を取り囲む。
『壁を見て、そこに扉があるでしょ? 入って。隠れられる』
 見ると鉄製の扉がぽつんとあった。ドアノブが所々錆びかけていて、それは明確に、ここの中に入れられるものの中に人は含まれていない事を示していた。
 僕はドアノブに手を掛けた。鉄の冷たい感触が掌に突き刺さる。回すと抵抗があり、長い間使われていない事を僕に告げてくる。偶然か必然か、ドアに鍵穴は無かった――まぁ下水管を徘徊するような好事家は居ないだろう。僕は中に入り、すぐ閉めた。半ドアになっていないか確認し、僕はふらふらと部屋の中心へと歩んだ。
 見渡してみるとそこは資材倉庫だった。部屋には何に使うか想像する事ができない程に変な形をしている道具やコンクリートの塊が無造作に転がっていた。此処に居れば絶対見つからないという保証は無かったが、一応の安全確保にはなるだろう。そう思うとどっと汗が噴き出してきて、僕の身体を水の膜で覆った。
 今まで抑えられていたものが一斉に吹き出し、僕はへなへなと座り込んで――
 僕は泣いた。思いっきり泣き叫んだ。僕は生きている。その事を確かめたかった。汗が止まるほど僕は泣き喚いた。大巫女様、やったよ。僕はここまで逃げ延びた。
僕は泣いた。顔が涙で溶けてしまいそうなぐらい、今はただ、僕は泣きたかった。
 生きたいと思う気持ちに抑えられていた感情が僕の胸から一斉に飛び出した。良かったという言葉に還元される僕の様々な感情は、部屋の中に溢れそうな涙と共に流れ、安心感が僕をそっと抱いた。まるで大巫女様が手を握った時のような、あの感じが――今は大巫女様が、僕を包み込んでくれている。僕はまだ泣いた。泣き声がわんわんと部屋の中で反響していた。
 泣いて喉がからからになる。だけど僕はまだ泣き足りなかった。その時――
『もう泣かないで』
 あの声が聞こえた。僕は腕の中に埋めていた顔を上げた。
 そこに彼――声の主は居た。
『初めまして、クロノア。僕の名前はヒューポー』
 彼――ヒューポーと言った声の主は僕の名前を正確に言い当てた。彼は宙に浮かんでいた。丸い光球――と言ったら語弊があるけど、喩えるなら――
『君が持っている、そのリングの精なんだ』
 ヒューポーは僕の疑問に答えるように言葉を継いだ。リングの精ヒューポー。見るとリングの宝石が自ら輝いていて――これがさっきの明かりの正体だったんだ――、ヒューポーはその光と同じ色をしていた。
 僕は涙が溜まった目を拭き、ヒューポーを見た。ぼやけて見えなかったヒューポーは今はっきりと目の前に浮かんでいるのが見えた。ヒューポーは笑っていた。
 僕が住んでいるボルクではありとあらゆるものが人の手によって造られていて、雲さえもが人が生み出したものだった。さも世界の中にある全てのものが人によって作られたかのような、そんな事を感じる街。学校でもそう教えられた。だから僕は世の中の不思議とか神秘とか言われてもピンと来なく、教会で神の教訓を授かっても目の前にものが無い以上僕は半信半疑――いや、真っ向から神に対して疑いを持っていた。
 しかし今、神話の中の一節が、僕の眼前に事実として広がっている。夢じゃなかった。幻覚じゃなかった。
僕は泣いていた。だから僕は死んでなくて、そして今生きている事を知っていた。これが現実なのだという事を知っていた。
 そして神話が今、生きている。
『確かクロノアは、"じっちゃ"と二人暮らしだったんだよね――大巫女様から訊いたんだ。訊いたと言っても、尋ねた訳じゃないけど……』
「そうだ、じっちゃんは! じっちゃんは――」
 すっかり忘れていた。じっちゃんの存在。暗闇のキャンバスに、ボルクの街並みが、今朝の風景が広がっていく。
 ヒューポーは少し黙った。話す事を逡巡しているようだった。だけど、意を決したのか、口を開く。
『はっきりと言えないんだけど、推測からすると、もう皆捕まっちゃってると思う……』
 キャンバスを軍靴が押し潰した。ヒューポーも夢でなければ、検挙も夢じゃなかった。銃撃に合い、何者か――多分警察の人に殺されかけたというのに、僕はまだ真実を嘘だと疑いたかった。
 僕は奇跡にも逃げ延びる事ができた。だけど逃避は回帰ではなかった。逃げたらまた前のような生活が始まると思っていた。根拠もなく、ただそうでありたいと願っていた。だけど事実は変えようが無かった。
 大巫女様の言う通りになった。僕はブリーガルに行く事になった。だけどどうやって? 僕は泳げないし――
 だから僕は、ヒューポーに頼んだ。
「……お願い、ちょっと眠らせて」
 ヒューポーは微笑んだ。そして囁くように言ってくれた。
『いいよ。朝になったら起こしてあげる』
 その声に安心し、僕はゆっくりと、その場に横になった。資材倉庫のコンクリートの床はひんやり冷たく固くて寝難かったが、明かりが僕を暖めてくれた。
 僕はヒューポーが傍に居てくれるのを感じながら、眠りに落ちた。

 次の朝――と言っても、僕の周りは暗かった。明かりの無い密閉された地下にあるから当然だった。僕は起き上がり、まずヒューポーを探した。ヒューポー。ヒューポーは眠りに就いた時と同じように、僕の目の前に浮かんでいた。
『おはよう。クロノア』
「……おはよう。ヒューポー」
 僕は始めてヒューポーの名前を口に出してみた。それに対しヒューポーはうんうんと二回頷いた。そう。僕の名前はヒューポー。
 僕は上半身だけ起き上がり足を前に投げ出した姿勢のまま、ヒューポーを見上げた。暫くそうして時は流れ――ヒューポーが何も言ってこなかったので仕方なく僕が話を切り出す事にした。
「……取り敢えず、どうしよう」
『クロノアの家、クロノアは戻ってみたくない?』まずヒューポーはそう応え、微笑んで言葉を続けた。『着替えもある事だしね』
「そう――だね。うん。戻りたい。……でもどうやって戻ろう」僕は上を見上げた。「ここ何処だろう……」
 ヒューポーは僕の視界に回りこんだ。
『《チップルズ・ジム》の真下……って言ったら分かるかな』
 僕はすぐさま応えた。
「ああ、分かる分かる! チップルの家だよね! 良く分かるね、今の場所」
『配水管工事の人に教えて貰ったから。それに走った距離と地上の相関図が頭の中にあるからね』
「ふーん」と僕はいまいちその理由が分からなかったが、取り敢えずヒューポーが今何処にいるか、どう行けば帰れるのか分かる事を知って安心した。
「帰ろう! 僕の家へ」僕は言った。その言葉にヒューポーは一瞬だけ困惑した顔を見せた。だから僕は、心の中でヒューポーの心配を打ち消した。大丈夫。大巫女様との約束は絶対だから。
 ヒューポーはまた笑った。『じゃあ、行こう!』

 物凄く複雑な行程を進んで僕は僕の家の前にあるマンホールの下に辿り着いた。ヒューポーに下水の臭いについて悪態をつきながら何でさっさと地上に戻らないのかと訊いたら、ヒューポーは真剣な顔つきで応えた。『まだ警官がうろうろしているかもしれないし。だから当分は我慢して』
 まぁ僕の家に無事に到着できるなら我慢できない事も無いかと信じ込み、僕は下水道を進んだ。
 歩いている途中、下水の中にも色々な種類があるのかもしれないなと逃げている時気付かなかった事を発見した。生活廃水だと思われる、腐乱臭のもの。銀色に光っていて、刺激臭がするもの――これは工業廃水だろう。色々な匂いをかぎ、そのどれもが確かに地下に隠したくなるほどの気持ち悪いものだった。当たり前だけど。
 そして僕は今、梯子の真下に立っている。「登ろうか」と一言、僕は梯子に手を掛け、登って行った。ああ、これでやっとこの臭い空間から解放される。そんな気持ちが心を撫で下ろしたが、地上に戻ると警察に検挙されるかもしれないと思い、今度は不安が胸の中をせり上がってきた。
 でもずっとこの場に留まってはいられない。ヒューポー曰く僕の臭いは『不快指数九十八パーセントだよ。残り二パーセントは何考えてんだ貴様、って感じの』というものらしく、少し腹が立ったけど一夜を下水管の中で明かした僕は反論する余地も無くとにかくお風呂に入って別の服に着替えないと駄目なようだ。
 僕は梯子を登り――そしてまた鉄の板に頭をぶつけた。一度有ることは二度有るという言葉を思い出す前に今度はすぐに痛みが頭を襲う。さっきのよりもマンホールが重い分、痛みが倍加している。単に昨日と同じ所に当たっただけかもしれないけど。
「……つぅ!」
 何故だかそうしなきゃいけない気がしたから、僕は叫びたいのを我慢して声を押し殺した。その代わり心の中で思いっきり理不尽を叫んだ。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い何でヒューポーは教えてくれないんだよ! 
『……本当に当たるとは思わなかった。御免』そう言うヒューポーの顔は『ドジ』と笑っていた。僕は膨れっ面をヒューポーに向ける。ヒューポーはそんな僕を見てまた笑った。もう! 
 痺れる頭頂がマンホールに触れないようにして、僕はマンホールを押し上げた。重い。でも手応えがあった。なんとか、なんとか一人で開けられそうだ。だけど、そういえば――
「何でこのマンホール、開けられるんだろう」
『クロノア、これは罠だ』
 ヒューポーの顔から笑みは消え、押し殺した声が僕に注意を喚起していた。しかしここで踏み止まる訳にはいかなかった。
『君が出て来るのを、待ってるんだ』
どう考えても僕には家に帰る必要があった。家に帰らないと、全てが始まらない。退路は絶たれたのと同じだった。僕の動悸が早くなる。
『クロノア、気をつけて』
「……うん」
 僕はなるべく音を立てないように、ゆっくりとマンホールの蓋を持ち上げた。風が流れ込んできた。一日振りに嗅ぐ、新鮮な空気。同じ物なのに、地上を流れるものと地下世界を流れるものでは全く違っていた。戻ってきた。地上に。そして危機も。
 僕は半開きになったマンホールから目を覗かせ、辺りを見回した。昨日一日中空を覆っていた雨雲は消えうせ、薄暗い青空が広がっていた。青空。僕は何日振りに見ただろう。それは工場が動いていない証拠だった。空は今までに見たことが無いほど青かった。
 街中には誰も居なかった。何も聞こえてこなかった。不気味な街。昼間でも灯りを点けないと霞んでしまう街並みが、青空によって露わになっている。街に照射する日光が、この街に誰もいない事を見せつける。耳には僕の呼吸音しか聞こえてこない。無気味な無音空間が、目の前に広がっている。
僕はもっと慎重になって、マンホールをゆっくりと、ゆっくりと横にずらしていく。半月ぐらいの大きさにまでずらすと、僕は頭だけをマンホールから出し、辺りを見回した。
『危ないよ! クロノア! 撃たれるかも――』
「頭を出しているのに撃たれないのは監視が無いからとみた」
 それにもう一つ理由があった。見境無しに撃ってくる人達だったが、僕は今、リングを僕のお腹に隠している――つもりである。だから相手は僕がリングを持っているか持っていないのか分からない。だから僕を死なせてしまっては、もし僕がリングを下水管に置いてきた場合、何処にあるか分からなくなる。――まぁ僕を撃ち殺してゆっくりとリングを探すという方法もあるだろうけど、きっと僕は子供だからそこまで酷い事はしないだろう。僕は今頭だけは自由に動かす事ができた。
 背後に工場。何時もの唸り声が聞こえないという事は操業が停止しているんだ。右に回って道路、挟んで長屋、そしてぽつんと場違いな感じの一軒家――これが僕の家だ。じっちゃんが言うには先祖代々の土地らしい。家からは生気がただよって来ない。じっちゃん……。
 家の後ろには石油プラント。石油の巨大なタンクが家の十倍ぐらいの高さにまで積み上げられている。そして右に目を巡らせば、また工場。そして道路。ざっと見ただけでは人影は確認できなかった。それがまた不安を増加させたが、今は行くしかない。
「行くよ、ヒューポー」
 唇を動かさず、それは息を吐くような声だった。僕はマンホールの穴から飛び出し、そして僕の家まで駆け抜けた。
 何も見えなかった。何も見なかった。周りに気を散らす余裕が無かった。僕は無心に、僕の家まで走った。
 僕は玄関まで辿り着き、ドアノブを回し、引っこ抜くぐらいの勢いで開け、家に飛び込んだ。とうとう到着した。僕の家。たった一日家を開けただけなのに、僕は懐かしさで胸が一杯になった。家に、着いた。
 家は平然としていた。ラジオの電源が入れられており、ニュース番組と思われる、アナウンサーの平坦な声が家を満たしていた。何時も通りの家の風景。だけど僕は他所の家――入ったこと無いけど――に居るような気がした。
じっちゃんが抜けた我が家は、悲しみに沈んでいた。そして主を無くした寂しさが、家を構成する全てのものの上に降りかかっていた。じっちゃん……。
 その時、物音が聞こえた。それは何かが自然と崩れ落ちた時のような無乾燥な音ではなく、はっきりと音自体に意思を持っていた――つまり、良く分からないけど何か違う音だった。誰かが此処に居る。
『誰かが此処に居る』ヒューポーも言った。僕の家に居るといったら、じっちゃん。だけど僕はその可能性を真っ先に排除した。じっちゃんは、まずそんな足音は立てない。足音じゃないかもしれないけど、音の感じにじっちゃんとははっきりと違ったものを感じた。その物音は喩えるならがさつだった。
 僕はごくりと唾を飲み込んだ――物語で英雄がそうするように。また物音が聞こえ、僕の心が飛び跳ねた。僕は一つの事しか考えられなかった。即ち、捕まる。
恐怖が頭を埋め尽くし、それとは逆に平静を手に入れて、僕は悟った。僕がここに帰ってくるって分かってるんだから、僕の家に居ておけば確実に僕を捕まえられるじゃないか。僕はばかだった。
 捕まる。いや捕まったと考えると、思い返す事以外思考回路は停止してしまい何も考えなくていい消極的な安らぎに僕は包まれる。僕は時の流れに身を任せ、誰かが僕の目の前に姿を現す時を待った。ヒューポーは何時の間にか居なくなっていた。見ると、宝石の輝きが消えている。姿を隠したんだ。ヒューポーはそれだけしか身を隠す術を持ちえていないと気付くと、急にヒューポーという存在が哀れなものに思えてきた。
 僕が居なくなったら、ヒューポーはどうするんだろう。大巫女様はヒューポーの事を話さなかった。大巫女様はきっと、リングにヒューポーが居るなんて知らなかったんだろう。ヒューポーは誰にも自分の存在を打ち明けられず、ずっとあの箱の中にいた。もしかしたら、今まで僕以外にもヒューポーを知っている人が居たかもしれない。そして、僕以外にもこれから誰かが――でも、僕がヒューポーと離れたら、それが何時なのか、もしかしたら永久に来ないかもしれない邂逅の時をヒューポーはずっと待ちつづける事になるのだろう。
 ただ聞く事のみしか与えられない、生きているという時間の浪費、それは死んだ事と同じ気がした。そうやって、ヒューポーは生死を繰り返しながら、生きていく。
 ヒューポーは多分、そんな自分の運命を受け入れているのだろう。だけど、やっぱり一人はさみしい筈だ。ごめんね、ヒューポー。僕は君のことを余り知らないままに去っていく事になっちゃったよ。ごめんね。何もしてあげられなくて。僕が弱い奴で、ごめんね。
 僕はリングを、ぎゅっと握った。ヒューポーを離したくない。リングの宝石が、すこし淡く光ったような気がした。
 物音は断続的に続くようになり、そして、とうとう声を発した。
「おい!」
 若い。僕はまず始めにそう思った。年は高校院生ぐらいだろうか。高校院のグラウンドでメスト(註:サッカーのようなもの)の練習をしている人たちが上げる声に良く似ていて、しかしその声ほど野性的な響きは無く、劇で役者さんが出すような声だった。
「誰か居るのか!」
 再び声が聞こえる。やはり高校院生ぐらいだ。僕の頭は混乱した。警察に、高校院生ぐらいの年齢の人は居ない。というと、もしかすると――
 生き残った人が居るの? 
「誰?」
 僕は見知らぬ誰かに応えた。ヒューポーはまだ隠れていた。相手は黙り込み、張り詰めた空気が緊張という琴線に触れ震える。そして僕の心がまた再び動き出す。誰だろうという期待と、まだ相手がどんな奴か分からないという不安に彩られながら。
 パタ、パタと床を靴が踏みしめる音。硬質な響きが、相手が土足で僕の家に上がり込んでいる事を伝える。台所にスリムな影が現れる。黒っぽい影は、実際に黒いズボンと黒い靴を履いている事を示しながら、次に目に飛び込んできたのは、紅い、ジャケット。そして革製のガンベルトだった。ガンホルダーに銃は無く、しかしブレットホルダーにはきらきらと光る金属――銃弾が差し込まれている。
 僕の目は紅いジャケットに釘付けになった。僕の心臓が命の危機を叫ぶ。そして、そいつは全貌を明らかにした。
「……お前、誰だ?」
 男――いや、青年。しかし思春期特有の弾けた明るさは相貌に無く、細く睨むような目つきは俺は今までいろんな所を旅してきたと、服装と相俟って相手に無言の圧力を与えている。それは相手より優位に立とうという卑しい願望の表れではなく、ただ自己を真っ直ぐに表し、相手に自分という存在を示していた。
「誰、だ?」
 青年は同じ言葉を繰り返し、右腕をこちらに突き出した。その動きには無駄がなく、"それ"がなくとも青年は何をしたいのか分かりそうなほど、洗練された一連の動作だった。
 握り締めていた銃を、僕の額に向けた。三度目の正直とでも言うように、青年は言葉をまた繰り返した。「誰だ?」
僕は答えた。生まれて初めて向けられた銃口――デモの最中におじさん達に向けられ、僕には決して向けられないだろうと思っていた銃口。それが目の前にある。撃たないのは分かっていた、しかし青年の目付きにはそう断言できる意思の光はなく、ただ照準を目標に合わせる事だけを考えているかのような、限りなく無表情な眼窩。まるで青年とは思えない、熟しきった大人だけが持つものだと思っていた無感動という表情は、まだ幼少期の面影が残るその体躯に余りにもアンバランスだった。僕はその不気味さから起こる震えを噛み殺して、同じ様に無表情に言おうとした。
「クロノア」
青年は僕の言葉に反応を示さなかった。うわ言のように「クロノア……」と繰り返し、黙った。考え事をしているとか、頭を整理しているとかそんな顔付きはやはり見せず、時が止まったかのような錯覚を感じて――
 青年が、笑った。正確に言うと、にやついた。ただ口をつり上げ、相貌を左右非対称にしただけの"笑い"。青年という言葉に全く似合わないその表情に、僕は思わず後ずさった。
 そんな僕に、青年は追い討ちをかける。
「お前がクロノアか。ふぅん――」青年は僕に一歩歩み寄り、「というと、持っているんだよな、"あれ"を」。僕は更に一歩、彼から身を引いた。
 僕はリングを背に回し――でも隠しきれず、リングは僕の肩幅からはみ出た。僕は青年ともっと距離を取りたかったが、もう背は玄関の扉についていた。
「持っていないとは言わせねぇぞ。お前が手に握っている――それだ」
 青年は尚も歩み寄り、頭一つ分距離を開けて立ち止まった。額に金属の感触。撃たれた、と思う程冷たい感触が頭を貫いた。
 青年は言った。
「それを――リングをよこせ」
 全身からさっと血の気が引いた。僕はその場に棒立ちになった。
 リングを渡せばこの場を切り抜けられるのは分かっていた。だけど僕はそんな事は念頭になかった。それは罪悪感? 大巫様との約束? ――いや、それはひとえにじっちゃんに替わる僕の理解者を得たという事であって、僕は君の為に居られるという目的を得たという事であり、何より――
 僕は、ヒューポーの友達だ! 
「嫌だ!」
 僕は思いっきり叫んだ。この耳の遠そうな冷徹野郎に聞こえるように。
 青年は怯まず――当たり前か……――、「誰だ」とこの言葉しか知らないかのように、もう一度言葉を繰り返した。
「……よこせよ」
 僕は青年の気迫に圧倒され――しかし頭の中でヒューポーの笑う顔が浮かび、その顔はどうしても目の前の青年と結び付けられなかった。僕も負けじと繰り返す。「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
 目頭が熱くなり、僕も青年のように睨みつけたかったが、叶わなかった。青年は何も喋らなかった。言葉による脅しをやめ、手に持つ巨大な銃で僕を威圧した。これが何か分からないのか。僕は初めて、彼の表情が語りかけるものを読み取った。彼は相変わらず無表情だったが、確かに焦っていた。言うことを聞かない赤ん坊をあやす時の困った表情だ。彼には僕を撃つことができなかった。ガキのくせに、何故言うことをきかねえんだ。これが何か分からねえのか?
 ――時が流れた。僕と青年だけではこの沈黙を解決できなかった。無言に次ぐ無言。どちらからも切り出せず、ただお互いを見つめ合い、そして――
『それは出来ないよ』
 ヒューポーが僕の目の前に出てきた。突然の出来事に青年はたじろき、顔をこわばらせた。初めて見せた、人らしい表情。しかし青年はすぐに元の仮面のような表情に戻し、素早い手裁きでもう一つの銃を抜きヒューポーに向けた。二丁拳銃。
「誰だ、お前……」
『僕の名前はヒューポー。リングの精だ』
 青年の眉が少し吊り上がる。「……じいさんの言ってた事はどうやら本当のようだな」と意味の分からない事を呟くと、今度ははっきりと聞き取れる声量で「どうでもいい。俺が欲しいのはそのリングだ」と言い腕を一杯に突き出した。だけどヒューポーは怯まなかった。そして、多分僕も。
『僕の主はクロノアだ。お前なんかじゃない』
「それがどうしたって言うんだ」
『僕の主はクロノアだ。だから……その……』突然ヒューポーは言葉を濁す。さっきまでの強い口調は何処へやら、ヒューポーが小さく見えた。
「世界の運命を握るリング……?」
青年の言葉にヒューポーの身が震えた。そして僕も、身震いした。世界の運命?
 本当かい、ヒューポー?
ヒューポーは答えなかった。無言の後ろ姿が真偽を語っていた。青年は、嘘を付いていない。
 世界の運命。僕はまた一歩、神話の世界に足を踏み込んだ。具体的に何の事か示されていない、しかし強烈なインパクトを持ったその言葉は大巫女様のお願いを現実のものに近付けた。全く面識を持たない、しかも性格が大きく違う二人から発せられた言葉。それが絡み合って、事実という果実を実らせる。
 冗談でしょ? みんな。だけど世界は真剣だった。皆、このリングを求めて血眼になっていた。世界の運命。それが今僕の右手にある。ヒューポーは言った。『それは出来ない』。
 ヒューポーは僕を選んだ。世界の運命を握るものとして。
 しかし、リングはリングであり、ヒューポーはリングの精で不思議な存在だけど、そのどちらにも世界の運命という言葉が入り込める余地は無いように思えた。僕は世界の運命というものにもっと神がかりなものを感じていたからだ。災害を呼ぶとか、持ち主の姿が消え去るとか、そういうものを。
 世界の運命は開け放たれた筈なのに、世界は何時も通り回っていた。
『僕は……多分君の言った事を知っている。でも、僕は人からその言葉を言われて思い出す事しか出来ないんだ……。だから、僕は何も言えない……』
「……良く分からねぇ」
 青年はポツリと呟いた。その言葉はこの場全体を代弁していた。緊迫した空気が、一気にたるんで、そして――
「臭ぇ……」
 青年は僕に背を向け、咳き込んだ。銃をしまい、青年は身を屈み鼻を摘む。うえーと一声吐き、そして僕に命令した。
「お前、今すぐシャワー浴びろ。臭ぇんだよ!」
 さっきと全く変わった声のトーンだった。青年の地が出た。鉄の皮を被ったガンナーという先程まで僕が感じていた面影はそこには無く、高学院に行き損ねた青年が僕の眼下で蹲っていた。「早くしろ!」
 僕は慌てて、お風呂場に向かった。青年の前を通り過ぎると、またうえーと彼は唸った。ごめんなさい。僕は心の中で呟いた。

「ごめんなさいッ! 慌ててたから着替え持ってくるの忘れた! 取ってくれない?」
「馬鹿野郎! 何処だ! 」僕をどやしつけながらも、服の場所を聞く青年が面白おかしい。もし僕にお兄ちゃんが居たら、こんな感じかなとシャンプーをしながら空想した。
「二階の部屋の、赤色のタンスの上から二番目の引出し!」
 そう言うと、青年が階段を駆け上がる音が聞こえた。僕はシャンプーを泡立てる。「風呂は時間がかかるから、シャワーだけだぞ!」と言われ、仕方なく僕は背中に流水を当てている。これで三回目のシャンプーだった。「臭いから最低五回はシャワーと石鹸使え!」シャワー五回よりお風呂一回のほうが綺麗になると思うんだけどな。
 がさごそがさごそと二階からのせわしない音が聞こえる。僕の部屋だ。二階には部屋が一つだけ――一・五階と言った方がしっくり来るだろう。風呂場はその分天井が低くなっていて、上からの音がよく響いた。
 じっちゃんはこの音を聞きながらお風呂に入っていたんだな、と僕は知って、今度からお風呂に入っているときは静かにしようと決心した。今度があるなら――の話だけど。
 いや、必ず今度は来るだろう。大巫女様の約束をきっちり果たして――
 私達が守ってきたものを、陽の風が吹く所に、ブリーガルに持っていって下さい。
 僕ははっと気付いた。リングをブリーガルに持っていく。するとそれはヒューポーとの別れを意味するのではないのだろうか。
 僕は絶対にそれは避けたかった。だけど大巫女様との約束は約束だった。約束が、束縛に変わっていく――
 そこで僕は考えるのを止め、これ以上物事を詮索しないようにした。大巫女様が言ったのはリングをブリーガルに持っていくこと。たったそれだけだ。その後どうなるか分からないし、もしかしたら用事が済んだリングは僕にくれるかもしれない。それに、どうであれリングは大巫女様の元に返ってくるだろう。もしそうなれば、大巫女様にお願いしてリングを見させて貰えるようにしよう。ヒューポーの事を話したら、大巫女様、きっと分かってくれる。
 洗い場の扉がガラガラと開く音がする。僕は風呂場の扉を少し開け、入って来た青年を凝視した。青年も視線に気付き、僕を睨みつけた。しかしさっきみたいな殺意の篭った視線ではなく、大人が子供を叱り付ける時の、気の緩みがある目つきに変わっていた。
 僕の視線の意味を青年は気付いたんだろう。「盗らねぇよ、馬鹿」と一言言い残し、洗濯物箱の上に着替えを置いてすぐに去っていった。
「ありがとーう!」僕はシャワーを再開した。「五月蝿ぇ!」という青年の応える声はシャワーの音によってかき消された。多分、もう臭いもとれただろう。抜け毛が気になり、僕は五回の所を三回で勘弁してもらった。シャワーを止め、濡れた身体に密着するバスタオルのふわふわした感じが気持ちいいのでじっちゃんが居ない事をいい事に僕はそのままの姿で洗い場に出た。
 顔をふきふき、身体をふきふき。ドライヤーで全身を満遍なく乾かし、僕は服を着替えた。乾いた服、爽やか気持ちいい。「お待たせー」と僕はリビングに戻った。
 青年はラジオに耳を澄ませていた。「ああ」と一言、もう一度青年の意識はラジオに集中した。何かな、と僕もラジオの声を聞く。雑音交じりのアナウンサーの声は、冗長なニュースを伝えていた。
「――ジャグポット付近を航行されている方は、今すぐ最寄りの港へ避難してください」
「どうやら戦争が始まるらしいな」と青年は僕に視線を移し、続けた「まさかと思っていたが、お偉いさん方は転がる自分を抑えられなかったようだな――おい、知ってるか。ここの住民な、人間の盾とかなんだか言って、最前線だの発電所だのに送り込まれたらしいぞ」
 青年は僕を凝視した後、さっと目を逸らした。よほど見るに耐えられないものを見たらしかった。それは多分、僕の顔だろう。
最前線? 戦争が起こったら真っ先に攻撃に曝されるじゃないか! だから、人間の盾なんだ。だから、そう言ったって……。
「人間の盾なんて……そんな、卑怯だよ……」
「それがあったって戦争が起こらない訳無いしな。贄なんだよ。運良かったな、お前」
 もしかしたらこの事を大巫女様達だけは知っていたかもしれない。だから、あんな怖い顔付きで……。
 僕は運命を呪った。僕だけが生き延びて、大巫女様が死んじゃうなんて理不尽だ。不公平すぎる! 僕なんて、僕なんて奴が……。それにじっちゃんも……!
 僕の家。じっちゃんの椅子があって、その隣に一人用ソファがあって、ラジオがあって、窓から工場が見えて、煙突がもくもくと――いまは煙を出していなくて、とにかくそんな、僕の目の前にあるもの全てが黒味を帯びた。そして途端、それらは音を立てて崩れた。失った虚脱感で、僕の目はブラックアウトした。
 目の前が黒一色に覆われる。しかしその中心の一点から光が差し込み――
 僕は意を決した。青年に向かい、僕は声を発し――ようとした。名前、何だっけ?
「……えーと、君の名前って――」
「お喋りは終わりだ。ちょっとここに長居しすぎたようだな」
 青年は窓の外を見ていた。僕もつられて覗き込んだ。でも、何も見えなかった。しかし青年は、そこから何か感じ取っているようだった。青年は一点に視線を集中している。そしてゆっくりと銃を抜き、安全装置を外し、撃鉄を起こした。先程の無駄の無い動きに、更に殺意が加わっていた。
「囲まれている。数は――七、八。厄介だな」と素っ気無く青年は一人呟いた。厄介という言葉で括れるほど事態は楽観的でなかった。二人に向かい一斉に七つの銃口から銃弾を打ち込まれたら確実に僕達は死に至る。運良く一つの銃撃を見切れたとしても、また六つ残っているのだ。
 しかしそう青年が言い切れているのは、その視線から読み取れる、全てに対して――死に対して達観しているその感情からなのか。
「お前は此処に残れ。俺は奴等を始末してくる。勘違いするな。奴等は殺しのプロだ。気配を消している。お前が出てきたら足手纏いこの上ない。逃げようと考えるな。外に出たら死ぬと思え。せいぜいリングを守っとけ」
 青年は手短にこれからする事を説明し、戸口に向かった。僕はその時、青年に訛りがある事に気付いた。スラム訛りとでも言うのか、僕達の方が訛っているのだが、言うならば、青年は標準訛りだ。学校でボルク語の時間、笑いを堪えて聴いた、教科書のあの朗読のイントネーションそっくりだ。
 しかし青年はあそこまで完璧にボルク語を発音できていなかった。僕達と同じように言葉につまり、どもっていた。僕の心の中で急に青年に対して親近感が沸いてきた。だから僕は、一番気になっていたことを口に出す事ができた。
「名前は……?」
 青年はドアノブに手を掛けようとした直後投げかけられた言葉に固まり、やはり対した表情の変化を見せず、すげなく応えた。「……ガンツ」
 ガンツは、外に出て行った。扉は自然に閉まり、バタンと音を立て外界を遮断した。
 僕は玄関のドアに耳を当て、外で起こっている事に対し聴神経を集中する。ガンツが吹き曝しの道路の真中で、一人ぽつねんと立っている姿が想像できた。
「居るんだろ! おい! お前等。出て来いよ!」
 すると、別の方向から声が聞こえてきた。
「……ガンツ君じゃないか」
「……その声は!」
 どうやら二人は面識があるようだった。どう言う事だろう。
『同じ業界で知れた顔なのかな』
「どういう業界? それ」
 きっとヒューポーが言っているのは暗殺業界という、実際あるのかどうか分からないものだろう。しかしガンツという人物を見た以上、無いと言い切れなくなってきた。
 僕達は耳をもっと澄ませる。
「こんな所に一人でのこのこと。道路に突っ立ってるっていうのはどういう事ですかねぇ。サイトインしているかもしれないのですよ」
「家の中で騒いでるっていうのに撃ってこないのは狙撃班が居ないからだろ? それにお前の趣味じゃない。ジャンガ」
『ジャンガ……』
 ヒューポーが呟く。知っているという顔ではなく、ただ新しく出てきた人名を覚えようというため声に出したようだった。
「どっちにしろ、君の不利に変わりは無いですがね」
 ジャンガの声につられ、足音が聞こえてくる。ガンツが危ない。
「どうしよう……」
『どうしようと言ったって……』
 ヒューポーはガンツとジャンガの会話に意識を集中しようとする。だけど僕はどうしても耳を傾ける事が出来なかった。何かしなければ、何かしなければ僕達も危ないというのに。
「おうおう、九人もレンジャーを連れてきてどうしようって言うんだ。俺がそんなに怖いのか?」
「まさか。十年前君は私と会ったとき君のお父さんの足元にしがみ付いてぴーぴー泣き喚いていたくせに」
『ガンツのお父さん……』
「ヒューポー……!」
 僕は何か無いか、と僕の家の周りに広がる風景の地図を頭の中に広げた。家の前に工場。右に回って道路、挟んで長屋、家の後ろには石油プラント。石油の巨大なタンクが僕の家の十倍ぐらいの高さにまで積み上げられている。石油のタンク――それだ。
 僕の頭が石油タンクという言葉を中心に一つの計画が素早く構築され、閃きとなって僕の目の前に表れた。
「ヒューポー、行くよ」
『行くって、何処に……』
 リングを掴み、僕は足音を忍ばせて家の裏口に向かった。友達に呼び出された日、何時もそこを通ってじっちゃんの目を盗んで出て行った。台所の裏。裏口のドアノブに手を掛け――
 足元の隙間から漏れる光の中に影があった。ドアの前に誰か立っている。僕は思考が止まり、そして――
 僕は思いっきりドアを開けた。ボンという鈍い音。それに続く「うぐふッ」という呻き声。僕は何かを吹き飛ばしたようだった。
それは人の頭だった。完全武装のその男は、銃を構えたまま後ろに倒れ、気絶した。ガンツ、十人だったよ。
『……やったじゃん』呆れた声でヒューポーが僕を賞賛した。表はこの異変に気付いていないのか、相変わらず二人の会話は続いている。
「君はスケープゴートですよ。リングを手に入れるための。気付かなかったのですか?」
 僕は彼等の言葉を耳に入れながらも、ぴくぴくと痙攣している男の装備を剥ぎに掛かる。まず目に見えたのはガンツが持っていたものより大きくて、強そうな肩掛けベルトがついている銃一丁。そして手榴弾と、予備の薬室と、持ち運び消火器みたいな小さいボンベみたいなものが数個腰ベルトに付けてある。
『TUGブルパップ式ライフル。二二三口径で装弾数二十三発。軽いからクロノアでも使えそうだね』
「嫌だよ。銃を使うなんて……」
『今は緊急事態だから我が侭言わないの。あとは手榴弾に――フラッシュバン。これは使えそうだ。全部貰っていこう』
 ヒューポーがフラッシュバンと呼んだボンベみたいなものは『閃光と爆音で相手の意識を失わせる非殺傷系の武器』だそうだ。どうしてこうもヒューポーは、色々な事を知っているんだろう。しかしこのままではガンツと一緒に撃ち合いをやりかねない。僕はヒューポーに対し、僕が考えている計画を説明した。
背後には堆く石油タンクが積まれ巨壁のように僕の家を翳し、そのさらに上には石油タンクを運んでいる途中で止まっているクレーンリフトが聳えている――
「ヒューポー、今から僕は、あのクレーンリフトに乗ろうと思うんだ」
ヒューポーは僕の顔色を疑問の念で伺い、そしてクレーンリフトを眺め、僕の考えを理解した。それが今の僕にできる、最大の効果を上げられるものだという事を。『分かった、行こう』というヒューポーの声を聞き、僕は男から銃と腰ベルトを頂いて、共に肩に掛けて秘密の抜け穴に忍び足で走った。
 石油タンクはカプセル型になっており、それでは石油タンクをどんなに綿密に並べようとしても必然的に隙間が出来てしまう。僕はそれに着目した。石油タンク――正確に言えば石油タンク備蓄倉庫と僕の家は木の塀で仕切られていて、それを目立たなくするために家の庭には低層樹や潅木の植え込みがある。数年前、僕はその塀に穴を開けた。じっちゃんごめん。友達との約束を守るには、こうするしかなかったんだ。
 二メルク間隔で太い木の棒が家の境界上に打ち込まれ、その間を横に板が渡してある。何年前に作られたのか、もう大分朽ちてきており僕は容易に穴を開ける事が出来た。茂みの中に入らないと絶対に分からないその穴は初めて穴を作ったときよりも一回り、二回り大きくなっている。板を割って木が脆くなっているんだ。じっちゃんホントごめん。
『クロノア。銃の安全装置が外れてる。何かの衝撃で暴発するよ』
 僕は銃を持ち上げた。ヒューポーがここ、ここと指し示す所にあった回転スイッチは『フルオート』の場所を指し示している。その下には『セミオート』『セイフティ』の文字。僕はスイッチをカチリと音がするまで回すと、これまで何回もしてきたように茂みを掻き分け、穴に向かった。
「俺がスケープゴート? ……気にくわねぇな」
「じゃあ貴方の今の状況を見てご覧なさい」
 会話は尚も続いている。恐らくジャンガはこうやってガンツを釘付けにし、裏口からの別働隊によって僕を――リング奪おうとしたのだろう。そうはさせない。しかしなんでこんな回りくどい方法を?
 それは多分、ガンツの戦意を挫く為か、それとも……私怨。僕はガンツとジャンガ、二人の間にただならぬ因縁を感じた。リングを巡って争う二人の間に、所有欲以上の執念がある。
 とにかくこのままでは、ガンツが危ない。僕は穴を抜け、タンクの間を這い、そして広場に出た。本当なら人の目を気にして隠れて走らなければいけないはずのそこに、人の姿が無い。いや、人の気配が全く無い。生命感の無い、だだっ広い広場。僕はこの機会逃すまじと広場の真中を通り、クレーンまで直線距離で走った。
「私がなんで、君にここまでお付き合いしてあげたと思うのです……?」
 聞こえるはずの無い銃を構える音が聞こえた。急がなければ。ガンツに対し銃眼がにじり寄っている様子が頭の中で鮮明なイメージとなって現れる。生命の危機――それは人に強烈な印象を与える。当事者だけでなく、周りの者にも。遠く離れた、僕にも、それは聞こえる。
 クレーンは一本の太い円柱によって支えられ、ビルの四階分位の高さに制御室があり、そこからクレーンの腕が伸びている。腕の先からワイヤーが伸びていて、石油タンクが一つぶら下ったままで放置されていた。検挙はそれ程唐突に行われたんだ。大巫女様、みんなに教えてあげたら良かったのに……。でも、皆いっぺんに逃げる所が無いか。
 僕は円柱に巻き付くようにして制御室まで伸びている螺旋階段を駆け上がった。階段を走っている最中、僕は偶然に、そして奇跡的に逃げ延びる事ができて本当に幸運だと思った。制御室まで辿り着く間、僕の頭の中では様々な風景が流れた。その中に映る僕はどれも意気地無しの表情をしていた。僕が一番弱かった筈なのに、僕は最後まで生き残っている。
 しかし僕がここまで生き残れたのは僕が僕だけで生を勝ちとったのではなく、殆ど他力によるものだという事を思い出して、僕はちょっとがっかりした。でも、こうすると決めたのは僕自身だ! 制御室に行くと決めたのは僕自身だ!
「私は君の考える事が手に取るように分かる」
 制御室は半開きのまま帰らぬ主を待っていた。エンジンはアイドリングし、小刻みに制御室を揺らしていた。つまりご丁寧に、カギを差したままになってある。まるで僕がここに来るのを分かっていたみたいに。
『ちょっと待って! クレーンを動かす前に、フラッシュバンを使おう! 数秒稼ぐ事が出来る!』
 僕は家のほうを振り返った。ガンツは家の陰に隠れて見えなかった。さっきみたいな武装した人の姿が、何人か家からはみ出して見える。距離は、百メルクぐらいか。
「無理だよ! あんなに投げられない!」
『駄目で元々! 早く!』
 もう考える暇は無かった。事態は一刻を争っている。
 ジャンガの声が聞こえた。
「今頃、別働隊が戸口の裏から――」
 それは僕の心の引き金になり、僕はピンを抜き無我夢中でフラッシュバンを投げ、叫んだ。
「ガンツ!」
 僕の方向に人の顔が向いた。驚いてか、真っ直ぐにこちらを向いている。大成功だった。しかしフラッシュバンをガンツまで気絶させないように、ガンツより遠くに投げる必要があった。僕は階段から落ちそうになるほど振りかぶって投げ、ソフトボール投げ十三メルクだった自己最高記録を塗り替えた――筈だ。そして僕まで気絶しないように耳を閉じ、目を瞑る。バン、と何かが何かにバウンドする音が聞こえ、そして――
 瞼の裏側まで閃光が突き抜けた。黒いはずの瞼の裏が一瞬白くなり、爆竹を百個いっぺんに爆発させたかのような爆発音が轟いた。僕はそっと目を開ける。立っていた人が蹲り目を抑えている。やった。だけどガンツは……。
「ガンツ! 逃げて!」
 僕はそれだけを言い残し、制御室に急いで入る。僕は黒い人工皮のシートに座った。気になっていた、憧れだった制御室のシートは大きかった。
 大きなハンドルがどんと構えている。『これでクレーンを左右に動かすんだ。左に回して』ヒューポーの声に従い、僕はハンドルを回す。『回すだけじゃ駄目。アクセルペダルが足元にあるでしょ』僕は右足を突っ張って、なんとか一つのペダルに行き着いた。『それはブレーキペダル。アクセルペダルは左隣。御免』座るのは諦め、僕はシートに添うようにして立ち左足でアクセル
ペダルを思いっきり踏んだ。っていうか、本当になんで、ヒューポーはこんなに物事を良く知っているんだろう――。
 ぎゅんという威勢のいい――元気がありすぎる音と共にクレーンが回る。そのまま一回転しそうになり、僕は慌ててブレーキペダルを踏んだ。ちょうどいいことにクレーンは延長線上に僕の家が来るように止まった。急発進・急停止で石油タンクが揺れている。
「餓鬼! 邪魔しおって!」
 ジャンガのがらがら声が聞こえる。悲鳴ともいえる叫び声からすると、ジャンガ達に相当のダメージを与えたようだ。でもガンツは……。
『クロノア! ハンドルの右隣にあるリフトレバーで限界まで前に持っていって!』僕はヒューポーの声にはっと今すべき事を思い出し、僕はレバーを探した。「前後」と書かれたレバーが一本。『それだ』
 僕はさっきより慎重に、レバーを前に倒した。うぃぃぃというモーターの唸りと共に、クレーンが伸びていく。遅い。じれったい。早くしろ!
 それは数秒の間に入る動作だったが、焦っている今僕はこの時が数十秒に感じられた。がぃんと何かがかみ合う音が制御室を揺らして、クレーンは止まった。恐らくそれはクレーンが伸びきったという事なのだろう。危なっかしい事に、僕の家の真上に来ている。事故が起こったら、どうするんだろう。
 いや、今から僕は事故を起こすんだ。僕は石油タンクを家に落とす――本当にごめんじっちゃん。でも許して――お願い! これしか無かったんだ、多分! 
『解放スイッチで、石油タンクを吊り下げているフックを放すことができる――って聞いてる?』
「聞いてるよ! でも……」
 ガンツが心配だった。ガンツがもし気絶していると、ガンツまで巻き添えを食らっちゃう。それだけは避けたかった、いや、避けなければならなかった、が、ガンツの生死を確認する術は無い。どうしよう……。
 救いの声は、そんな時に聞こえた。
「馬鹿野郎!」
 あの威勢のいい声が制御室に届いてきた。それと同時に、僕の家から離れていく赤い人影。ガンツ! 
 僕は解放スイッチを押した。未だ揺れていた石油タンクはその分勢いをつけジャンガ達を襲った。バキバキと木が裂ける鋭い音が響く。僕の家が石油タンクでぺしゃんこになる。『クロノア! ライフルを石油タンクに向けるんだ』僕は躊躇い無く、銃の安全装置を外し、銃口を僕の家に向けた。さよなら。僕の家。僕は、僕は……。
 制御室の壁を背もたれにし、戸口に出た僕はトリガーを引いた。抱きかかえるようにして撃ったつもりだったけど、鼓膜に突き刺さる乾いた音と共に銃弾は四方に飛び散った。甲高い銃声と、お腹を揺らすライフルの衝撃で僕は耳がおかしくなり、吐き気を覚える。しかしそれも一瞬で、数秒で全てを撃ち尽くし、薬室を換える暇無く――
 爆轟音が衝撃波となって体全体を揺らした。目の前に火球ができた。僕の家は、火に包まれた。僕はその火に吸い込まれるようにして一瞬意識が遠のき、そして目の前に屹立する火柱がうねり蠢いているのと同じように、僕の足元から熱いものがこみ上げてきて、体中を暴れまわるのを感じた。破片がここまで飛んできて、からんからんと階段の上で跳ねた。火柱は上から順に黒煙へと早変わりし、周囲を燻した。ガソリンが燃えて生じた熱い空気の流れを僕は感じた。僕の家が燃えて生じた、空気の流れを。
 煙は周囲に膨らみ、僕は石油が燃えて生じる特有の刺激臭を嗅いだ。僕はその場に留まって、家の残骸を眺めたかった。しかし黒煙は広がり、僕は身の危険を感じ階段を無心に駆け下りた。爆発の動揺が、足許をおぼつかないものにさせた。手すりに手を掛けながら、僕は二段飛ばしで降りて行く。
 地面を踏み、僕はもう一度僕の家があった方向を眺めた。黒煙が左半分の空を覆っている。もう帰る所は無くなった。でも――
「おい! 行くぞ!」
 広場の中央にガンツが居た。ガンツは巨大なバイクに跨り、僕にこっちへ来るよう手招きしていた。爆発の衝撃でふらつきながら、僕はガンツに駆け寄る。煙で目が痺れ、涙は煤煙を拭き落とそうとするがうまくいかない。とにかくガンツの声を頼りに、僕は走った。
「後ろに乗れ!」
 僕は涙を手で振り払う。充血した目で、僕はガンツを見た。僕はガンツだけしか見えなかった。ガンツの背、僕はそれにめがけて、飛んだ。
「出るぞ!」
 僕はガンツの背にしがみ付いた。エンジンの鼓動が聞こえ、モーターの雄叫びと共にバイクは最大速に向け加速した。最初は震えでしかなかった空気の流れは、次第に風になり、僕の服をはためかせる。僕は帽子が風に飛ばされないよう何時もより目深に被り、リングを肩に通した。銃が邪魔になり、僕は投げ捨てる。ガンツはそれに何も言わなかった。
 僕は去り往く街を眺めていた。備蓄倉庫も次第に街並みに隠れ、黒煙だけが僕が住んでいた所の目印になり、その黒煙はもう一度火柱に変わった。そしてバイクの振動とははっきりと違うと分かる、世界をひっくり返そうとするような、まるでそれはフライパン返し。『積んであった石油タンクに引火したんだ』とヒューポーは二次爆発の原因を誰に話すとでもなく呟いた。
 対抗車線をたくさんの消防車が走っていく。消防車に乗る人は僕達に決って視線を投げかける。僕は彼等に対して、微笑みを投げかけようかと思ったけど、止めた。僕はその代わりに心の中で言った。ざまあみろとか頑張ってねとかそういう意味を持った言葉ではなく、ただ、ばいばい、と。
 僕はもうボルクには帰って来られないと確信した。爆発によって、僕の周りを形成する僕のボルクは跡形も無く吹き飛んだ。僕は少しでもこの街の形を心に留めておこうとするけど、一つの絵になる筈のパズルが、一向に完成しない。ピース同士がくっつかなかった。
 バイクはボルク郊外へ走り、R1の標記が見えた。ボルクが、離れていく。僕は、僕が育った街を、ただ眺める事だけしか出来なかった。
 あるはずの未練は僕の心には無く、僕の心にはただボルクを去るという事象のみが刻み込まれ、僕の心のページがまた一つ、捲られた。

「大丈夫だった?」
 僕の質問に対しガンツは「何が」と素っ気無く尽き返してきた。僕は言葉の意味を説明した。
「フラッシュボム。ガンツから何も返事が返ってこないからどきどきした」
 ガンツは少し黙り込み、そして答えた。
「話の最中に家の方で何か倒れる音がしたから、家で何か起こったなと直感した。ジャンガが何も表情の変化を見せなかったから別働隊がクロノアを倒したのか、それともクロノアが別働隊を倒したのを気付いていないのか、どっちかだと思った。俺は真っ先に後者の考えを消去して、腹括ったけど、まさかお前が生きていたとはな。石油タンクの方でお前の声を聞いた時は吃驚した」
 そこまで言い終わるとガンツは乾いた笑い声を上げ、まだ話を続けた。
「お前の声が聞こえて何かすると思ったが、何するか分からんから取り敢えずその場に固まった。んで家の屋根に何かが当たる音がしたから、俺はフラッシュボムを使ったと思った。俺はそれに気付いて真っ先にしゃがんだけど、奴等、何の事やら分からずぽかんとしてたぜ」
 僕はガンツの顔色を窺おうとした。でも背中が大きくて見えなかった。しかし気になっていたガンツの思いは、ガンツの口を通して語られた。「有難よ」僕はその言葉に満足した。
「俺はお前の家の裏に石油タンクがあるのを気付いていたから、もし取り囲まれたときにそれを利用してスワッピングしてやろうとか考えてた。だからあの後あそこにいたお前がどうするかも分かった」
『スワッピング、人質交換の事だよ』とヒューポーは僕に囁いた。説明後も良く分からなかったけど多分こういう事だろう。いざという時に、石油タンクに爆薬か何かを仕掛けて全員が死ぬのが嫌だったら敵は手を引け、と。両方生き残るか両方死ぬか。
 今度はガンツが訊いてきた。
「でもよ、一向にお前、タンク落とさないから、早くしろと思って言った直後に落としただろ。あれ何でだ?」
「当たり前じゃないか! ガンツが巻き添え食らうと駄目だから……」
「……お前、俺が裏切るとか考えなかったのか?」
 え? 今更何を、と思い僕は「何で、そんな事考えるの?」と訊き返した。ガンツは黙り込み、一言ぽつりと漏らした。「純粋な奴だな」
「俺がどんな奴なのか分からない、のにか?」
「だって……、信じるしかなかったから」
 その言葉にガンツは黙った。空白の時間が流れ、僕はガンツの背をじっと見つめた。何で俺を信じるのか、だって? 寂しい奴だな――かわいそうな、奴。
「……人に信用されたのは久しぶりだ」ガンツはそう自嘲気味に言い、ガンツは自分の身上を打ち明けた。
 ガンツの背中が、その時しゅんと丸まっているような気がした。
「俺は、人を信用しないで生きてきた。だから、人にも信用されなかった。それでいいと思った。自分もそれがいいと思っていた――俺は独りを悟ると、生きる為に一番自分の近くにあった、父親と同じ職業を選んだ。俺は賞金稼ぎだ――自称な。稼ぎは主に依頼された財宝探しのカスリだが、それだけでは食っていけないから要人警護とか――まぁそっちが本稼ぎになってるけどな、つまりはそういう事して食ってってる。そのツテは全部親父が残した人脈だ。俺はそんな人生を送るのが嫌で、俺は親父がやっていない事を一つ成し遂げようと思った。それが、親父が俺に言い残した『金色のリング』っていう言葉だ」
「……ガンツのお父さん、死んじゃったの?」
「分からねぇ。でも多分死んだ。ハメられたんだ。ジャンガの野郎に。ジャンガと親父は二人でチームを組んでた。有名だった。俺がこうやって親のすねかじりできるぐらいにな。――財宝探しは違法じゃないが、多分、けど色々と政府の奴等に目を付けられる仕事でな、ある日、ジャンガが俺の親父を政府に売りやがった。自分の保身の為にな。最後の親父の姿、無様だったぜ。俺が何時ものように親父の帰りを待ってると、ボロ雑巾みたいなのがふらふらと家に入ってきたんだ――それが親父、だ。親父は何時ものようにジンの瓶を取ると、俺に『金色のリング』と言って出て行った。それきり親父には会ってない。どこか人知れず身投げしたかもな」
 ガンツはさらりと自分のお父さんの最後を言い流したが、背中は別れの辛さを湛え、少し震えているように見えた。
「そんな事無いよ! ガンツのお父さん、きっと何処かで生きてるって!」
「さぁな。だが俺の中で親父はあのボロ雑巾になっちまった時、死んだ。何かネジが一本外れてた。あの親父の体の中から」
「……でも、会いたくないの? ガンツのお父さんに」
「俺の親父は賞金稼ぎだった頃の親父ただ一人だ。それ以外の親父には会いたかねぇ」
「……変なの」僕の言葉にガンツの耳はぴくりと震え、暫く押し黙った後、ぼそりと言った。
「……まぁ、俺の親父が死んだ所が分かれば、供養してやりたい気もある」
 やっぱり。ぼくは心の中で呟くと、はっとある事に気が付き、今度は僕の気持ちが沈んだ。
「もしかしたらジャンガ、ガンツのお父さんの生死――もし死んじゃってたら最期の場所、知っていたかもね、僕は、ジャンガを――」
 僕の言葉をガンツが強い命令口調で遮った。
「やめろよ、馬鹿」ガンツは僕に言い聞かせるような調子で続ける「お前がやった事は、お前ができた事の最大限のものだ。それ以上何かしようと考えるな。自分の掌でできる事、それ以上の事を考えるな――お前はよくやったよ。有難な」
 ガンツの言葉に、僕は再度安堵した。でも、まだ釈然としない思いが心の底にこびり付いているのも事実だった。考えるなと言われても、考えてしまう。
『そうだよ、あんまり考えない方がいいよ』ヒューポーも僕を慰めるが、僕の思いは払拭されなかった。僕ができた事、僕ができる事、何かもっとあるような気がして、気がしたくて僕はただ闇雲に悔しがった。
 僕はこれからどうなるんだろう。希望ではなく不安で彩られたその思いが僕の胸の大半を占めている。その鍵はガンツが握っていて、僕はこのままずっとガンツの背に凭れていたくなかった。それはガンツに対する反抗心でなく、ガンツにあまり迷惑を掛けたくないという気持ちとできるだけ、僕ができる事は僕がしよう、僕ができる事を増やしていこうという自立心から来たものだった。
 僕の心に初めて、自分で何かしようという気持ちが生まれた。
「親父が残した『金色のリング』という言葉。それをジャンガが政府の力を借りて追っていた。事態が現実味を帯びてきたな……」
 ガンツが独り言を呟いた。世界の運命。僕はその一番近くに居る。政府の人達がリングを――僕を追う。僕の周りを無数の手が取り囲んでいるような気がして、僕は、そんな中リングを守りきれるかと思い――
「御免、ガンツ……ちょっと眠らして」
「……好きにしろ」
 僕はガンツの背中に頭を埋めた。ジャケットは思いのほか厚手でふさふさしていて気持ちよかった。おやすみなさいを言うかわりに、僕は青空を一瞥した。
 蒼空が眩しく輝き、世界を照らしている。ボルクを覆う黒雲はそこには無く、一面の青が、バイクの――僕の行く先を明らめていた。写真でしか見たことが無かった、青い空の下に僕は居る。いや、写真にも無い。こんな透き通った青空は。世界は今、破局に向かおうとしているのに、空は何時もと変わりの無い表情を見せていた。
 風が吹く。ボルクでは粘りついてきた風は、ここではさらりと僕の身体を撫で、僕の前を通り過ぎていく。横薙ぎの風は、涼しくからからに乾いていて気分が良かった。何もかもがボルクと違う、そこは別世界だ。
 僕が見たことの無い世界をバイクは猛スピードで突き進んでいく。ボルクでは元気を無くしていた太陽が元気一杯で調子に乗っている。陽光が僕の目に飛び込んできて、僕はその眩しさに思わず目を閉じ――
 僕は、ガンツの背を枕に昼寝した。空の青と、地の緑が僕の瞼に滲んだ。


1(ボルク) おわり


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