亡き王女へのパヴァーヌ


*この小説はフィクションのフィクションであり、私自身のクロノア観で書かれたものな
 ので、なるべく合わせては御座いますが公式設定とは食い違っている所(デッチ上げ)
 が少なからず存在します。
 しかしこの小説によってあなた自身のクロノア観が悪い方向へと変悪されたことによる
 損害責任は持ちません。
 あくまで私の『夢』として捉えて頂ければ不幸中の幸いです。

 悪夢は、果てようとしていた。
 混濁とした意識は潮が引いていくように遠のいていき、私の体に再び駆け巡った四肢の
感覚が全ての終焉を物語っていた。
 終わり、だ。
 ここまで辿り着くのに、一体どれだけの時間を費やしてきただろう。この結論を導くの
に、一体どれだけの悲鳴を聞いただろう。それは私の周りに纏わりつく人々の残留意識が
上げる、悲しみや憎しみに染まった金切り声が象徴していた。
 しかしそれは次代にか細いものに変わっていき、やがては消えるだろう。闇という靄が
かかった世界は晴れていき、赤、次は青といったように次々と色彩を取り戻していく。そ
の光景は浄化という言葉でしか表せない不可触で荘厳なものだった。長い洞窟の終着は、
闇ではなく出口という光に包まれていた。
 人々の悪夢の集合体であるナハトゥムは内部分裂を起こし、その身を無へと墜とそうと
していた。ナハトゥムという形で圧縮された憤怒や憎悪は、ナハトゥムから離れ彼岸の彼
方へとその身を投じる。それは死であり、決して再生という生易しい言葉で彩られるもの
ではなかった。
 ここには人の闇が作り出したナハトゥムと呼ばれる怪物も、闇なる王と罵られたガディ
ウスという男も居ない。そして私が生み出した全てのものが塵となる時はすぐに来るだろ
う。そうやって、私の全てが消えていく。
 だが、それは決してカタルシスではなかった。
 それが何であるか、私の目の前に立ちはだかっているであろう異の夢―強い意識―が示
していた。
 突然、短波放送のチューナーをずらしたかのように私の視界がブラックアウトし、何度
かフラッシュが瞬いたかと思うと、次の瞬間柔らかい蒼白な光が私の網膜に飛び込んでき
た。それは月の光であるという事に気付くのは一瞬だったが、光と共に目の前に広がる眺
望がクレスであろいうという事を悟るのに数秒の戸惑いが必要だった。自我を喪いかけて
いるナハトゥムが私を拠り所にし、私に全てを委ねてきたのだ。
 クレスは何も変わってはいなかった。三千年前、私が人々が共有する無意識空間にばら
撒いた『おまじない』によりファントマイルは停滞を余儀なくされていたからそれは当然
の事であったが、私はクレスがありし日のままで私を待っていてくれたような気がして、
思わず目を閉じ、そしてそっと開けた。頬も抓りたかったが、それは叶わなかった。しか
しそれだけで十分だった。そこにクレスはあった。それは私の心が作り出した錯覚のクレ
スではなく、真のクレスその姿だった。そして時は巡り始めた。
 私は確かに心臓の鼓動を感じた。ナハトゥムは自己喪失という苦しみにのた打ち回り、
血肉を構成する怨恨は千々に散乱し、本来有るべき場所へ旅立っていく。その内の一つに
過ぎない私も同じように、復活した自らの感覚が一コマ一コマ抜け落ちていった。手の先、
足先から順に感覚は流れていき、そして―
 風を感じた。
 抱擁されるような、あの風の感触だった。フォーロックの細切れの風や、ジャグポット
の叩きつけられるような風ではない。風が集まってくるという点でクレスの風は同じだが、
この風は確かにブーリガルのものだった。ブーリガルの薫りがする、若芽の、常緑の便り
を運ぶあの風だ。
 錯覚かと思い、私は風の吹く所を目を細め睨んだ。
 そこに少年はいた。
 初めてこの眼で見る、異の夢、強い意志、私を導いてくれる存在の姿だった。三千年前
の僕のそのままの姿で、少年はそこに立っていた。私が用意した陰湿なハードルを全て乗
り越え、少年は風薫る姿そのままで―僕のままでここまで来てくれた。それはもう、自分
を偽る必要がなくなった事を誇らしげに表していた。
 少年は私の元へ駆け寄ってくる。私は突然、眩暈を感じた。眩暈によって二、三度視界
が瞬いたかと思うと、次の瞬間世界はぼやけていき、まるでカメラのピントを極端に合わ
せたかのようにクレスは霞んで少年だけがはっきりと目に焼き付いてきた。更にその上か
ら、それらとははっきりと異なっていると分かるものが重ねられる。始め白黒だったそれ
は次第に色数を増していき、霧散していく私の意識のうち今の今までこの場に留まった私
の一片の上に影を落した。私の意識はこうこうと燃え上がり、それを明るく照らす。
 レフィス……。
 もはやナハトゥムの意識は無くなり、その中で眠っていたレフィスが目を覚まそうとし
ていた。辛うじてこの場に留まる事ができている私も、目覚めによって完全に消えうせる。
長く待ち望んでいた永遠の眠り―絶対の安らぎの時を、今、迎える。
 少年は私に駆け寄ってくる。少年は吼える。それは咆哮というには程遠く、声変わりを
終えていない優しい雄叫びは悲痛の篭った叫び声のようだった。
 もう自分を偽る必要はない。
 レフィス、最期に君を一目見れて良かった。そしてレフィス、最期に一言だけ、君に僕
の声を聞いて欲しかった……。
 ああ……。僕が、僕が帰ってきたよ。


亡き王女へのパヴァーヌ
written by new 2003/2

はたして このゆめは だれのゆめ?

―namco 『風のクロノア Moonlight Museum』より―


 それが何を意味するかなんて、子供の頃は分からなかった。
 そして今でも、時々分からなくなる。
 これがよかったのか、これでよかったのか
 僕は、王侯貴族の子としてこの世に生まれ落ちた。

 ブーリガルは、平坦だった世界に神様が空から気まぐれで落したかのような涙の形をし
た小高い丘陵地の総称である。
 晴れた日にはジャグポットやフォーロックからでもその壮大な『神の涙滴』を仰ぎ見る
事ができ、そしてブーリガルから見下ろす事ができる。その様に魅せられ、我々の王はブ
ーリガルの地に剣を下ろしたのだろう。
 かつては風と共にあらゆる物がこの地に集まってきたと言うが、衰退し、世界の芯軸が
クレスに移った今は、建国以前にここに住んでいた分の人口と、勃興期に作られたその人
口と同数かという風車が林立する一農耕地域にブーリガルは身を落ち着けた。勃興期の面
影を見ることができる唯一の遺産である風車は、それ以来ブーリガルのシンボルとなった。
 起伏の無い世界にぽこりと盛り上がった丘陵地であるブーリガルは、そのような環境柄
当然そこに風が集まる。様々な方向から一日中吹き付ける風を有効活用する目的で作られ
た風車は、ブーリガルの人々―『風の民』の気質と驚くべきほどに合致していた。
 どんなに強い風が吹きつけようと、風車は絶えずゆっくりと回る。それはブーリガルの
人々の大らかな性格の正しく鋳型だった。
 人々は心や体に何も抱え込まず、倦怠や惰性でなく快活にめくりめく季節を過ごしてい
く。
 僕はそんなブーリガルを飛び跳ねまわっていた、風が生んだ少年だった。

 少年時代の僕の両腕は、ブーリガルを抱えるだけで精一杯だった。
 だからブーリガルの王侯貴族の息子であるというポジションに自分がいるという事を自
覚するのに、僕がブーリガルを離れクレス王立学術院に留学する十五の夏まで成長しなけ
れば、世界全体を掴めなかった。
 父はクレスへの留学生だった。留学期間中に父は母と契りを交わし、暫くクレスに滞在
していたが、両親は昔の王族のようにブーリガルに魅了されたのか、僕が生まれるずっと
以前にブーリガルに移り住んだ。そういう事実は小さい頃から知っていたし、世の中を生
きる様々な子供がそうであるように、僕も一生をここに埋めるのでなくいずれはブーリガ
ルから巣立つ事になるという事を十歳ぐらいから気付いていた。だから十五の夏、それま
ではっきりと輪郭を持っていた世界の渕に立ち、霞みもやいで距離感覚さえも掴めない新
世界の壁面に触れる時、僕は恐怖感を感じず、純粋な興味でそれを迎えた。
 緑ではなく闇に包まれる森の中を、僕はデイバッグ一つでクレスへと進んだ。天地創造
の折、神が定めたかのようにおのおのの役割がはっきりとしていたファントマイル4つ国
の中でクレスは世界を平和の内に統べる賢知を担っており、近年人々は錯綜することなく
クレスに集いそれぞれの国の特産物を交換し合ったり、様々な条規を締結する会議を開い
たりする場となった。
 人が集う場所に才俊が集まるのは当然の運びで、何時しかクレスの最高学府はファント
マイル一の叡才の学林とその名を知らしめることになった。それがクレス王立学術院だっ
た。ブーリガルから来た奴も居たし、フォーロックの豪族の息子、クレスの豪商の次男坊
等、とにかくそういう奴等の集団に僕は紛れた。王立学術院に入る事によって各々の王へ
の忠誠心を表し、そして当然社交場―諸侯貴族の見栄の張り場としても機能する、つまり
各国にある王立学術院に入る事が貴族達の息子に課せられた義務であり、そして生き残る
ために、勝ち上がるために必要な試練の場だった。僕は最難関であるクレス王立学術院に
入院した事によって、一つ目の試練を余裕持って突破することができた。
 僕は王侯貴族の中でもランクは下のほうだったが、王族の血を引いていたらしく、幸運
な事に常に周囲に対しピリピリしながら少しでも自分のポテンシャルを上げようと恐怖す
る毎日を過ごすのを避ける事ができ、自分の好きな学問に情熱を打ち込む事ができた。
 僕は文字通り学問と研究一筋になった。幼い頃ブーリガルで一番大きかった風車の三角
帽子から見た世界の情景、それが僕を駆り立てていた。
 僕が生まれ育ったブーリガルはこんなに小さくて、世界はこんなに大きい。大人になっ
て背が伸びて、足が速くなってもきっと僕は世界を全て回れないだろう。靄に霞むフォー
ロック。無数の水路が緑の土地とマーブル模様を織り成すジャグポット。そしてクレス。
世界はどうしてこんなに鮮やかなんだろう。
 僕の心に浮かぶ疑問符はいつも答えを求めていて、そして僕もその答えを知るのにうき
うきしていた。僕は王立学術院を次席で卒業。主席の奴は官僚となり根回しの世界に身を
投じ、そのお陰で僕は王立研究所の主任候補として格別の待遇で入所する事ができた。そ
んな僕を妬まず研究所の人々は暖かく迎えてくれ、僕は再び自分が選んだ分野の研究を続
けられることができた。最新設備の研究所で、僕は世界を形作る『夢』の研究に没頭した。
―これが僕の全てである。こんな僕が何をしたと神は言うのだろうか。
 この時を境にして、突然世界は禍禍しく渦巻いて、僕の体に絡みつき始めた。僕の周り
を囲っていた世界の化けの皮が脆く剥がれていき、現れたのは一様の黒だった。
 だから僕は、本能的に一番僕の近くに居た、居てくれた彼女に人肌の温もりを求めて抱
きついたのだろうか。
 レフィス。君は僕の、僕であるための、それが証明できる唯一の存在なんだよ……。

 これは自分ではないって、僕も思うよ。
 あの時、君もそう言ってくれたね。
 僕は何なんだ?僕は怖いよ。自分が自分でなくなるのが、
 本当の僕が無くなってしまうのが。だから―
 僕は恐ろしいほど正気だよ……。

 第一研究室とその他を分け隔てる分厚い扉によって他と隔離されていても、研究所の空
気が緊張へと一変した事を僕は直ぐに感じ取る事ができた。
 一瞬、研究所全体が慌しくなり、そしてその雰囲気が驚くべき整合性で整えられ、次に
訪れるのは無という完全な沈黙。雑然と散らかったトランプがさっと組みあがりピラミッ
ドを形成する。それは誰かに見られるために。見てもらうための礼儀として。
 今日も来てくれたんだね、レフィス。
 僕は飛び上がって部屋の中を駆け回りたかったが、残念ながらここには研究員が僕以外
に二人いて、それは憚られた。だから僕は、レフィスが来てくれる時を静かに待った。
 今ごろ君は、何処に居るのだろう。まだ守衛所に居るのかな。それとも所長への挨拶の
途中かな。君の小さな足取りでも、礼儀正しい静々歩きでも、僕の今の鼓動ぐらい歩く速
度が速かったら、今ごろ扉の真前に居るだろうに。早く会いたいよ。
 僕は手元に立ててあった試験管の一本を取り上げ、その中の液体を覗き込んだ。青色を
した液体には僕の顔が歪んで映り、うまく隠している筈なのに僕の顔は明らかににやつい
ていた。そんな口元以外、顔は最高。眼の下には隈がない。僕は元の場所に試験管を戻し、
その場に直立不動で彼女を待った。
 他の二人も僕と同じように案山子になる。今まで動いていたものが全て静止し、波打つ
海が静まった時のように部屋の空気が途端に穏やかになった。そんな第一研究室の空気を、
ドアが弾いた。
 皇女様のご入室だ。僕にとっては、レフィスの。
 トン、トンとせわしない何時もの場合より五倍くらいはゆっくりとした感覚のノックの
後、まず案内役を務めているのであろう、研究所の若い助手が僕の視界に入り、彼が手を
差し伸ばした後、彼女がゆっくりと視界に現れた。それは珍しいことでは無いのに、僕は
何時もまるでそれが初対面であるかのような気持ちに襲われた。レフィスだ。
 俯きがちの視線から零れ落ちるのは暗然ではなく気品が、ゆっくりとした足取りは倦怠
ではなく高潔さがというように、レフィスはマエストロが丹念にくみ上げた人形のような、
完璧という形容動詞と脆いという形容詞が混ざり合って出来上がった淡雅の女君だった。
そのレフィスが、一歩一歩踏みしめるような足取りで僕の目の前まで歩いてくる……。
 レフィスは僕の足先から二メートル離れた場所で歩みを止め、真っ直ぐに僕の目を見た。
視線が僕の瞳に焼きつき、痛かった。レフィスは傍に居た助手から一枚の書類を受け取り、
それを朗読し始めた。澄んだ声で、まるで独唱しているかのような口調で。
「訓告。皇女レフィス。貴殿は当研究所での研究活動に置いて多大な功徳を築いた事によ
 り、本日付けで、王立学術院研究所第一研究科の主任に命ずる」
 レフィスはここで言葉を止め、書類に落していた目線を僕の顔にチラリと向けた。今に
も笑い出さんばかりの無邪気な微笑みと共に。そしてレフィスは書類の最後の一文を読む
為、再び視線を書類に埋めた。
「王立学術院研究所所員。カイン・トロイメント」
 僕は淡々とレフィスに向かって頭を下げ、書類を受け取る。同室していたのは僕たちの
ほかに三名だけだったが、ささやかな拍手が沸き起こった。レフィスは「この後新主任に
訓示を授けるので一同席を外されよ」と全員に向かって声を掛け、僕以外の全員を部屋か
ら追い出した。笑いで噴出すのを辛うじて抑えながら、じっと皆が部屋から出て行くのを
待った。部屋のドアがバタンと閉じる音がしてから十秒数え、部屋は僕ら二人だけになり、
僕達は顔を見合わせ―。
 僕等は大声で笑い合った。

「そこに座ってよ」
 大体全部僕等は前に出会った時から溜まっていた笑いを吐き出すと、僕はレフィスに席
を勧めた。となりの空きテーブルから―レフィス用に空けてある―ちょっと新しめの椅子
を引き出し、レフィスはそこにちょこんと座った。さっきみたいに静々とではなく、子供
がソファのあの柔らかい感触を確かめるようにはしゃいで。さっきの高貴な君も良かった
けど、今の君の方がずっと君らしくて可愛いよ、レフィス。
「ちょっと待ってね。今、お茶を淹れるから」
 僕は浮かれた手つきでティーポットを引き出しから取り出し、あらかじめ用意していた
魔法瓶のお湯をその中に注ぎこむ。そして僕は言う。何時も通り、ティーバッグを両手に
一つづつぶら下げて。
「インティモ?インペトゥーソ?」
 レフィスはまるでそれが只事ではないかのような困った顔つきで「先にポットにお湯を
注ぐクセ、直らないね」と呟き、直ぐに「インティモをお願い」と続けた。
「僕はインペトゥーソが良かったな」
 本当はどっちでもよかったが、僕は嘘をついた。「半々にしよう」と両手に持ったティ
ーバッグをポットの上に浮かべた。ティーバックを揺らして水気を含ませば、直ぐにティ
ーバックは底に沈む。揺らした衝撃でお互いのティーバッグが絡まり、それぞれ寄り添う
ようにして、ティーバッグはポットの底に倒れこんだ。
 インティモとインペトゥーソの半々。レフィス・カインのスペシャル嘘ブレンド。レフ
ィスが「インティモ」と言ったら僕は「インペトゥーソ」と言い、逆に「インペトゥーソ」
と言ったら僕は「インティモ」を選ぶ。何時もこれだ。馬鹿だと言われるまで僕はやり続
けるだろう。しかし、馬鹿と言われてもやり続けるかもしれないな。
 僕はお湯が充分に紅潮した頃合を見計らって、マグカップにお茶を注いだ。インティモ
のお茶の真髄ともいえる格調高い香りと、インペトゥーソ独特のスパイシーな香りが混ざ
り合い、えも言えぬ―分かりやすく言うとヘンな―香りが二人の鼻をくすぐる。僕はマグ
カップを片手で手渡し、レフィスふぁんとまいrはそれを両手で受け取った。
「……ありがとう」
 彼女が言うありがとうには霊感がある。一度でもその言葉を耳にした者にそう同意を求
めると誰もが頷くだろう。そんな魅了させられる誘惑が、彼女の「ありがとう」にはあっ
た。僕はその一言を聞いただけで胸が詰まり、発せられるべき「どういたしまして」とい
う言葉がお腹の下の方で燻った。
 レフィスはふぅと一息、お茶の上の湯気を吹き払う。レフィスは決して音を立てない。
そう教育させられているからなのか、歩く時でも、もちろん食べたりする時も。でもホッ
トティーを飲むとき、耳をすませば彼女の口元から小さくお茶をすする音が聞こえる。熱
いものが苦手なのだろうか、僕にはそれがたまらなく可愛かった。僕は気兼ねなく盛大に
お茶をすするが、それでもレフィスは啜っているのをけな気に隠している。
「喫茶店で三時間粘る方法」
 僕は九割方残ったお茶を机の上に置き、唐突に話を切り出した。レフィスはマグカップ
に落していた目線を上目遣いに僕の方に向けた。
「飲み物無しで三時間過ごすのはとても辛い。カップの水位に目を配り、残り時間と残量
 を常に把握しなければ―」
「理系的な考え方!」
 レフィスは小鳥が囀るかのような笑い声で唇を濡らした。彼女のマグカップの中のお茶
はもう三分目といった所だろうか、レフィスはからかうような卑しさではなく、かといっ
て諭すような粘っこさもなく、こういう考えがあるとトーンを落して僕の意見と対等に言
葉を抑えて常識を教えてくれた。「さめたインペトゥーソやチャイが飲める?それに―」
「お茶はおまけ。歯車を回す前に差す油。無くても困らないけど、あると会話が弾むでし
 ょ?会話の歯車をテンポよく回すために、心をほぐす為にあるのよ」
 そう言ってレフィスはまた微笑み、お茶を口に含んだ。僕もそれに習うようにしてマグ
カップを口元に運ぶ。僕はマグカップをビアジョッキ持ちで、さっきまでのマグカップの
傾きより三倍の角度をつけ、僕はお茶を『含んだ』。マグカップの中のお茶は直ぐにレフ
ィスのマグカップの中のお茶より少なくなった。そして僕はマグカップを口から離し、レ
フィスに向かってにぃと笑った。さっきからそれぞれ意味、種類は違えど僕等は笑いっぱ
なしだった。「子供っぽい仕草!」と声を上げ、レフィスも微笑んだ。そして二人はしば
らく笑い合い―
 燃料が切れたピストン機関が回転を止める時のように、僕等二人の間へ緩やかに静寂と
いう暗さが降りてきた。
「……それが今回用意した話の全て?」
 レフィスは面白くてたまらないというより、一度回りだしたら暫く止まらないという感
じの息切れを起こした笑い声混じりで言った。僕は照れを隠すため、バツが悪くなった子
供がそうするように頭を少し垂れ、こくりと頷いた。
 レフィスは困ったように眉間に小さな皺を寄せる。しかし実際レフィスは困惑なんかし
ていなかった。僕にはそれが分かった。彼女はあえてこういう顔を作る事で、この場を楽
しんでいるんだ。それは多分、二人だけでこういう空間を共有できているから。
 でも、流石に二人して黙っているときを作るのは避けたかったのか、二人の間に積もる
沈黙の埃を払いのけて乞願するようにレフィスは言った。
「仕事の話……で、いいよ?」
 レフィスはそう言うと僕が嫌な顔をする事を知っているのだろう。レフィスは相変らず
口元を緩ませていたが、その奥に気まずい感情があることを、小さく萎縮した眉から僕は
窺い知る事ができた。僕はそれを言われては困るという事を言葉ではなく雰囲気で伝える
為、何時も通り眉を顰めた。レフィスの小さいからだがもっと小さくなった。
 レフィスは俯きがちだった。顔を上げ、満面の笑みというものを作った。でもレフィス
の本当の気持ちが目元に溢れて、泣き笑いの表情を顔面に形作っていた。レフィスは僕に
「その方が、貴方らしいよ……?」と催促した。レフィスはお化け屋敷に入るか入らない
か迷っている人を入り口に押し入れようとしたのだろう、しかし僕は彼女の意に反してそ
の言葉に背を向け、入り口のドアにもたれ掛ってしまった。自分から逃れるために。
「僕らしい……か」
 彼女を責めるつもりは無いのに、結果的に責めている事になってしまうこの言葉を僕は
選んでしまった。心の中で君は悪くないと必死で打ち消すが、言葉はどんどん口から流れ
ていく。堰を切った川の流れのように。
「仕事をしているときの僕が、ずっと僕らしいのか……」
 今度は僕がレフィスをお化け屋敷の中に閉じ込めてしまった。レフィスは俯き、ごめん
と小さく呟くようにして言葉を床に落した。その一言で、僕の理性がより戻されてきた。
君は悪くないという感情が、僕の負の感情の上にスライドする。
「ごめん……君を責めるつもりは無かったんだ……ホントにゴメン」
 彼女は顔を上げなかった。しかし僕の言葉に耳を傾けてくれているらしかった。僕は話
を続けた。
「世界が夢を中心に回っているって言う話、前に話した事あるよね」
 レフィスは小さく頷いた。
「人は夢を持つ事で自分を思うように変えていく。人々の悲しい思い、嬉しい思いが好不
 況を作り出す。それでは世界も夢を見ている事になるのではないか。僕達はいわば世界
 の一細胞に過ぎない。いや、過ぎると考えると世界はどうなるのだろう。それが願望と
 いう形に成しえているか分からないが、現に世界は流転している。
 このスケラトヘイデスの提唱が元になり、これを理論という形で証明したのがヒューラ
 ーだった。彼は夢を仮想粒子エーテルと仮定し、実験の結果エーテルの流れを観測する
 事に成功した。これがほんの百年前の話。そこから急激に夢学―エーテル物理学は発達
 し、今では夢がここクレスにいったん集まり、『夢のプリズム』と呼ばれる現象によっ
 て世界に分配されるという事まで突き止めた。
 夢は様々な生物が持つ願望だ。クレスに集う過程で雑多になった夢から僕は人の夢だけ
 を抽出し、悲しい夢、嬉しい夢、そんな夢が世界にどのような影響を与えているかを調
 べている。でも―」
 今度は僕が俯く番だった。ブランコの両端のように、レフィスはそれに合わせてかくん
と顔を上げた。
「この仕事をしている時、僕は僕を見失うんだ……」
 僕の喉元にはある言葉がこみ上げてきていた。しかし僕はその言葉を表に出すのを躊躇
っていた。それだけ汚い言葉だった。しかし、その言葉は的の中心を正確に射抜いていた。
僕を表現する、言葉のあやの的を。
 僕は僕自身を汚してでも、彼女に心配して欲しかったのだろう。僕はその言葉を吐き出
した。
「僕は、覗きなんだよ……」
 僕はそう言うと直ぐに、その言葉の意味を説明するために言葉を繋いだ。
「僕は仕事柄、人の夢を見てしまうんだ。人の夢を見るということはどういうことか。そ
 れは人のプライベートを覗き見るという事なんだよ。人は心に多くの襞を作っていて、
 その襞で辛い事、悲しいことから身を守っている。その襞をすべて取り払ったまっさら
 な心、それが人の本性だ。あろうことか僕は、その部分を見ている―。
 僕にはそれが絶えられなかった。何としてもその夢から距離を置きたかった……。僕の
 本当の気持ちに反して、なるべく研究中は残酷に、冷酷になろうと考えた。そういう気
 持ちが、僕と夢との間の強力な壁になってくれたんだ。仕事は全て、その壁がこなして
 くれた。
 しかし仕事を続けるうちに、その壁は段々高く、そして強力なものになっていった。そ
 してその壁は、仕事以外にも人に対しても隔たりを作ろうとしている……。僕の中に新
 しい僕ができてきているんだ。残忍で、無感情の僕が……」
 僕は膝の上に肘を置き、その上で手を組み頭を項垂れた。そうしなければ僕は頭を支え
る事ができなかった。心の奥底で溜まっていた泥溜まりが全て思考として頭の方に上がっ
ていったのだ。
 僕は言った。彼女にしか吐けない僕の本音、弱音を全てその一言にこめて。
「そんな僕が、怖いよ……」
 レフィスは僕の手の上に彼女の手を重ねた。手袋を通して、彼女の温かみが伝わってき
たような気がした。
「貴方は貴方よ。たとえ貴方が別人格という仮面を被ったとしても、それは貴方が言った
 心の襞……。仮面の裏側には、カイン自身が居る。それを信じて……!」
「でも僕は、仮面を被った僕にならないと僕として存在できない……仮面を失った僕の手
 に、何が握れるというのだろうか……」
「それがどうしたって言うの!」
 僕は彼女の剣幕に驚き、思わず顔を上げた。実際にはそれは剣幕などという激しい感情
の放出でなく、それはレフィスの精一杯の叱咤と激励だった。レフィスの口調はまるで幼
い子を慰めるようなものだった。
「世の中がどうしたって言うのよ……。貴方が今、貴方自身の目で見ているのは世の中と
 いうものじゃなくて、自分の世界、カインだけの世界なのよ!他人は二の次、まず自分
 を信じないと、カインの世界はどうなっちゃうの!」
 僕は何も言えなかった。レフィスの瞳以外、何も見えなかった。僕は何も聞こえなかっ
た。レフィスの声以外、何も聞こえなかった。レフィスの全てが、僕の全てを揺さぶった。
「私は多分、将来は王女になるわ……。王女になるという事、権力者になるという事、そ
 れはどういう事なのか、私はなってみないと良く分からない。けど多分、こういう事だ
 と思う。昔はブーリガルの地に王は見を置き、今はクレスから世界を見下ろしているよ
 うに、王は自分ばかりを見ず、視野を広げなければならない。他人の世界を常に考え、
 つまり自分を抑えなければならない―
 私は自我を殺す事が怖かった。他人によって自分が蹂躙されるのが恐ろしかった。でも
 運命から逃れる事はできない……。だから私は、世界を知りたかった。そんな時に、貴
 方と巡り会えた。
 私は手を取り合って、カインと世界を見たかった。私は何も知らなかったから、知ろう
 としているカインを少しでも手伝いたかった。今もそう。でもカインがこんなに迷って
 いたなんて……」
 レフィスの目がぱっと見開かれた。レフィスは全感覚器官をフルオープンで、僕に訴え
かけてきた。
「カイン。自分の見失った時、迷わず私の所に来て。多分、私はカインの支えになれると
 思う。たった今、私に話し掛けているカインは、カインだから―」
 レフィスは言い終わると、私はここに居ると言う代わりに僕の手をぎゅっと握った。今
度ははっきりと、レフィスの温もりを感じる事ができた。レフィスの手を通して流れてく
る、レフィスの想い。それは僕の体を駆け巡り、僕を柔らかく包み込んだ。嬉しいとか幸
せとかそういったチープな感情は僕の心には無く、ただただ時の流れるのをじっとレフィ
スと共に見ていた。そして僕は、そのときのゆりかごから離れたくは無かった。
 レフィス、好きだ。

 人と人とを個人という単位に分かつものは何なのだろうか。人を外側から見ると、成る
程肉体というもので個人の区別をする事ができる。では突き詰めていって、肉体を失えば
人は何で区別できるのだろうか?流れる言葉だけで、人は個人たりえるのか?
 ある人はそれを記憶といった。その人が今までに得てきて培ってきた経験、それが個人
を作り出すと。それでは記憶を失えば人は『人形』になってしまうのだろうか。記憶を失
えば、人は皆ゼロになってしまうのだろうか。
 僕は人を人たるものにしている要因、それを夢と考えた。「たら・れば」という願望、
「〜になれたら」という欲求、生きているという現在、生きるという希望……そのどれに
も夢は介在する。夢はいくら種類が同じでも、その根底に存在する意識が違えば、夢は様
々でどんな色にも染まる。つまり個人というカテゴリを作る要素となりえる。結論を言う
と、人が夢を生み出すのじゃなくて、人は夢そのものなんだ。
 もし人が夢だとしたら―夢は共有できる。人の夢に参加する事ができるし、夢それ自体
も共鳴する。分かり易く言おう。人は、その心の中で他人と共存可能であり、夢を知る事
によって本当の意味で人とコミュニケイトできるんだ。その時、人は真の意味で人を知る
事になる……。
 僕は今、夢を知るために夢をイメージで分析し、夢を分類するという研究をしている。
怖い夢、悲しい夢、嬉しい夢、楽しい夢……それらが世界にどのような影響を及ぼすのか、
それらがどんな形になって世界に現れ、そしてどのように人を形成していくのか、それを
知る事ができたら、今までよりももっとマクロに世界の流れを読み取る事ができるし、人
を知る事ができる。確実な理論体系を持っていなかった精神医学界の諸判断に、科学を持
ち込む事ができる。いや、それだけじゃない。世界が広がるんだ。
 万物は夢見る。山は山たろうとし泰然と自らを構え、川は川たろうと山から海へと流れ
ていく。生存本能も、言い換えれば夢そのものだ。では、その夢見るエネルギーはどこか
ら来て、どこへ流れていくのだろうか?

 仕事場での一人称は『私』だった。
 しかし、論文発表や学会等
 一日の内仕事の占める割合が多くなり、
 何時しか君と話す以外に『僕』を使わなくなっていた。
 僕は、僕を忘れていた。

 三年目にして初の、そして大きな快挙だった。
 実験炉を使い、僕は初めてクレスに集う夢の中から人の夢を抽出し、さらにそこから七
種類の夢に分化させることに成功した。
 そしてすぐに僕はその実験結果をまとめた論文を学会にて発表したが、学会での評価は
冷めたものだった。しかし、大地に降る雨がじわりじわりと地中に染みていくように、そ
の論文は静かな波紋を広げていった。
 研究所は日増しに私用という事でやってくる訪問客が多くなり、その多くが僕との面会
を希望してきた。それ以後数々の学会に呼ばれ、僕は世界を飛ぶようにして回った。
 そんな最中、旅先でいきなりやって来た来客だったので、僕は油断して彼を部屋に招き
入れた。災厄というのは、そのようにして日常に紛れ込むという事を知らず。
 僕が泊まっていたホテルにやってきた闖入者『ガディウス』。それが私に与えられた、
彼の名前だった。
「久しぶりだね、カイン君」
 薄ら笑いと共に『ガディウス』はそう言うと、しげしげと僕が泊まっているスイートル
ームを眺め、最後に僕の顔に目の焦点を合わせると、口元の皺を更に深く掘り込ませた。
「『ガディウス』さん、よくぞいらっしゃって下さいました……。私の発表を、是非とも
 最初に貴方に知らせたかった」
 僕が差し伸べた手を『ガディウス』は無乾燥な顔つきでそれを無視し、あざ笑うように
こう言った。
「えらく羽振りがよさそうだな……ん?」
 そう言うなり、『ガディウス』は近くにあったソファに身を沈めた。僕はその一連の行
動に対し少し困惑を覚えながらも、これは彼なりの祝福の与え方なのだと思い、僕は微笑
みに加え感謝の念で目を細めた。『ガディウス』はそんな僕から目を逸らした。
 僕が『ガディウス』と出会ったのは僕がまだ学術院生だった頃まで遡る。とある時期、
学術院には風変わりな男が居た。学術院の昼休みになると学食や中庭などに出没し、教授
とは一目見て違うと分かり、用務員には相応しくない背広を来た四重過ぎるか過ぎないか
の男は、男女学部問わず学生に話し掛けまくるその姿から、学生達に『学食おじさん』と
いう仇名をつけられるほど有名であり、そしてミステリアスだった。
 決して自ら素性を明かさず(これは彼に関する噂の中から彼の素性についての話題が一
つも出てこなかったから。男に対する噂は一時学校内で大ブレイクした。)、自由に校内
に入り込めて教授達からお咎めなしというところから学術院関係者なのだろうという事し
か推測する事ができなかった彼は、ある日学食で僕の隣に座った。初めて『学食おじさん』
と昼食を共にする事になって緊張していた僕に対し、男は単刀直入、話をこう切り出した。
「お前のここの中には、何が入ってる?」。男が指差した先には、男のこめかみがあった。
 僕は所属している学部名だけを呟いた。すると男は夢の話をした。当然それは希望とか
のようなものではなく、心理学をベースにした夢学についての彼なりの論告だった。僕は
男が何を言っているのか、それが何を意味するのか、すぐに分かった。男はきっと技術者
をスカウトしに、この学術院にやって来たのだろう。千才一遇のチャンスだと思った。相
手の素性がわからない以上、こちらも現在行われている研究内容等の緘口令が如かれてい
るものの琴線に触れないよう僕は夢学の表面をなぞるような控えめの論駁をした。すると
男はそんな僕の心理を見透かしてか、内容のハードルを少し上げた巧妙な反論をしてきた。
僕は表面からもう少し深いところをすくって返した。そういった議論が昼休み中続き、昼
休みの終わりのベルが鳴り響こうとしていた頃、男は徐に一言呟き、学食を後にした。
「いい感性をしているな」。その日から、彼は昼休み僕の姿を探すようになった。
 男は『ガディウス』といった。名前を聞いた時、明らかに偽名だという事に僕は既に気
付いていたが、基本的に一体一でしか話さない事と、生理的に余り男と関わり合いたくな
い事が相まって、それ以上問い詰めなかった。
 『ガディウス』というのは上級貴族が使う通り名だった。仮面舞踏会などで、自分が何
者であるかを明かさず、そして相手の階級を知るために作られたのが通り名で、その名は
上級貴族の中でもかなり上位の位でなければ使えないものだった。
 何回か会話を重ねるごとに、男は自分も同じ夢学を志していたという事、骨のある若者
は居ないかと大学内をふらついていた事など少しづつ自分がしている事の意味を明かして
いったが、何処からきたのかやそれは何の目的なのかについては口を割ろうとしなかった。
普通ならこういう男に対して怖いという感情を抱くものだが、僕は彼が話す夢学について
の論述の確かさや、意外性や面白さに心を奪われていて、不自然なものに対する好奇心と
知識欲が僕を彼の目以外見えなくさせていた。だから、彼が心の内に持つ闇や彼の後ろに
広がる混沌を全く気付かなかった。
 もしかしたら僕も、そうとは知っていながら彼の姿を無意識の内に隠していたのかもし
れない。
 僕の他にも何人か男の目に止まった人が居たらしく、僕が遅れて学食に行くと男はそう
だと思われる奴に話し掛けていた。しかし僕の学習院生活に終わりが近付いてきた冬の寒
い日、男は急速に話し掛ける人の数を絞っていき、そして僕は彼の最終オーディションに
残った。
 そして彼との第二の出会いの日、研究所入所希望出願書の提出期限日の一週間前、僕は
その日学食で食べた伸びきったヌードルの感触が今でも舌に粘りついて離れない。
 昼休み、僕は願書をただ眺めていて、丼から湯気がもうもうと噴き出すヌードルに手を
つけないでいた。
 僕はその時何も考えていなかった。感じてさえいなかった。あるとすれば、それは挫折
感と無力感で、それが僕に物を考える気力を無くさせていた。四日前筆を走らせ、家に送
った出願書。今日の朝届いたそれには、親の名前と判印が無かった。親の名前は、小さく
同封されていた短い手紙の墨に書かれていた。
 その手紙は父親らしく、母親らしく、親の愛情が詰まった優しく語り掛ける口語体の文
章中心で書かれていたが、僕にとってそれは残酷な一方的宣告に過ぎなかった。お前は研
究所に行かず、官僚への道を歩め。そういう意味の手紙だった。
 親は没落した王侯貴族で、ブーリガルに移り住んだのもクレスに大使として滞在する任
期が切れ継続契約が認められなかったからだという事実を僕はその頃発見した。しかしそ
んな親がクレスやブーリガルに対ししぶとく野心を持っていたことは知らなかった。親は
その為にどうしてもクレスへのパイプを貫通させたく、息子の学力を利用する腹積もりだ
った。そんな所だろう。そんな親の気持ちに同情してしまい、僕は怒りに任せて手紙を引
き裂いたりできず、ただ呆然と今日という一日を過ごしていた。
 『ガディウス』は何時も通り学食にやって来た。僕は入ってくる『ガディウス』を見な
かった。『ガディウス』は僕の隣に座った。尚も僕は、『ガディウス』の顔を見なかった。
でも『ガディウス』という存在感に耐え切れず、僕は漏らした。今日起きた出来事と、そ
れに対する僕の意見。そして僕の心にある、学問に対する情熱を。男は静かにそれを聞き、
話が終わると真っ直ぐに僕の顔を見た。その迫力に気圧され、僕も彼の顔に目を合わせた。
この時初めて、彼が只の『学食”勧誘”おじさん』ではなかった事を悟った。緩んだ目尻
の舌に一瞬だけ険しい皺が刻まれたのを僕は見逃さなかった。
 『ガディウス』は口を開いた。僕は何と言うかある程度予測はついた。
「研究がしたいか」
 僕は頷いた。そして次に『ガディウス』が吐いた言葉は、僕の想像のつかないものだっ
た。
「では、研究をさせてやろう」
 彼は進んで自分の身の上話を始めた。こんな事は初めてだった。
 男は有名な製薬会社の名前を挙げ、研究し絶えられたデータやサンプルを横流しして欲
しいと言い、その為に資金はいくらでも用意すると言った。研究所にあてがわれる政府予
算は雀の涙で、研究用資金は主任のスポンサーの大小によって増減すると噂されていたの
で、僕は良心の呵責に悩まされながらも、研究ができるという魅惑によってそれは直ぐに
打ち消し二つ返事で彼がスポンサーになってもらえるよう頼んだ。始めは半信半疑だった
が、翌日僕の口座に振り込まれた大金を見て、頭の中の『ガディウス』は急激に輪郭を持
ち始めた。かくして僕は、王立研究所に入所する事ができたのだ。
 自分がここに居られるのはひとえに彼のおかげであり、彼は僕のアイディンティティを
復活させてくれた恩人だった。
 そんな彼が今僕の目の前に居る。この場にお茶やお酒が無いのが残念でたまらなかった。
しかしルーム・サービスにシャンパンがあることを思い出し、僕はボーイを呼ぼうと壁に
据え付けられていたボタンに手を伸ばした。それを『ガディウス』の声が遮る。「いや、
いい」という彼の声に従い、僕は手を引っ込めた。シャンパンが出せない代わり、僕は満
面の笑顔を作り『ガディウス』に差し出した。
 『ガディウス』は口の端を吊り上げる。笑いのような、しかしそれそのものではない微
妙な表情だった。
「研究の方はどうかね……捗っているかね?」
「はい、それはもう」
 僕は『ガディウス』に全ての研究内容を話した。その中には学会に公表していない秘密
の情報も含まれていたが、『ガディウス』から受けた庇護を返す一心で、秘匿義務という
言葉は脆くも崩れ去った。
 『ガディウス』は僕の一言一言に頷いてはいるが、決して満足そうな顔はせず、ただ聞
き役に徹しているという感じだった。しかし僕の話の中に数度、『ガディウス』が反応を
見せる個所があった。その時だけ、『ガディウス』は本心であろう表情を顔に覗かせた。
トレジャーハンターが探し求めていたものを掘り当てた時の、目をギラギラとさせるあの
顔つきをしていた。
 「夢を分解」、「幻覚」。僕が確かにそう言った時だった。
 病気というのは字が表している通り心の病である。病気に罹るという心理状況下でどの
ような薬が効果的か、製薬会社も独自のラボを持って夢の分析について僕と同じように研
究していると聞いていたので、きっとこの事について興味があるのだろう。はじめに会っ
た時やデータを横流ししている最中はそう自分で納得し、そしてその時もそれが至極当然
の反応のように思えた。
 僕が全てを話し終えたら、『ガディウス』は彼の足元に視線を落し、目を泳がせた。何
か考え事をしているのかと僕は考え、取り敢えず近くにあった椅子に腰を落ち着かせて、
それからしばらく彼が口を開くまでじっと黙っていた。
 『ガディウス』はソファいっぱいにどっかりと座り、落ち着き払った様子だったが、頭
の中でどのような考えを巡らしているのか、瞳はその動きに合わせてかころころと動き回
っていた。ふと僕は、『ガディウス』が何者であるのかという事の詳細な部分は、あの日
以来考えた事がないことに気付いた。『ガディウス』は僕にとって神に等しい存在であり、
慈悲心で僕に様々な物を与えてくれた。神は神それ以外の何者でもなく、確かに彼には製
薬会社の発展とかいうような目的があるのであろうが、僕にとってそれは遠く彼方の問題
でありそれをはっきりと意識して気に留める必要の無いものだった。
 しかし僕は気付くべきだった。神に対し敬虔という気持ちとともに我々は畏怖という感
情を持って接しているように、僕が『ガディウス』を詮索しないのは彼に対する本能的な
怖れがあるということに。
 『ガディウス』は俯きがちだった顔を上げた。怪物が首を擡げるように、重々しく。
「幻覚、という感情があるな?」
 僕は短く、はいと応えた。『ガディウス』の目は細まり、目尻は下に垂れた。しかし眉
間の皺はそのままだった。
「実は私、その感情について研究していてね。それの人工抽出方法を色々と模索している
 のだが、なかなか上手くいかなくてね」
 そういって『ガディウス』は頭を下に垂れた。その仕草はわざとらしく、僕は何年か振
りに彼に対し疑問符を打った。疑惑の対岸は急激に色付き始め、近付いてきた。
 『ガディウス』は出方を窺っているようだったので、僕は彼の口から何か言葉を出すた
めに『幻覚』について少し語った。
「幻覚は非常にデリケートな感情です。特殊な心理状況に陥らないとそれは発生せず、し
 かもその感情が夢のどの分野に属しているのか未だに未解明です。嬉しいのか、悲しい
 のか、幻覚が生み出す大きな作用の一つである『覚醒』が何に起因するのか分からない
 今、幻覚は全ての夢の感情が総合して生まれるとしか言い様が無いのです」
「私は君に、それを抽出して欲しいのだ」
 僕は初めて、彼が何の目的で近付いてきたのか悟った。対岸はもう目と鼻の先にあり、
そこはうねるような炎で覆われていた。そして彼はそこに足を踏み入れようとしていた。
 僕は頭を振った。彼を拒否するために。
「無理です……それは」
 しかし『ガディウス』は僕の心を読み取っていた。恐怖の感情が僕の顔に全て現れてい
るらしく、彼は尚も僕に迫った。
「君ならできるよ」
 父が子に自信を付けさせるかのような口調で『ガディウス』は囁いた。そしてもう一度
同じ言葉を繰り返した。微かに苛立ちの篭った、脅すような口調で。「君ならできる」
「私はこの仕事について以来、ずっとその感情を追い求めてきた。今はもう、それが輪郭
 を成してはっきりと感じる事ができる。手を伸ばしたら届きそうだ。金は幾らでも積む。
 もっと大型の研究炉を作ってやる。幻覚の抽出に成功するんだ。いいな……」
 いいな。最後のその言葉は矢のように鋭く僕の胸に飛び込んでき、刺さった。その一撃
は『ガディウス』に対するイメージを崩壊させるのに充分な破壊力を持っていた。そして、
僕の理性も。静かに怯える僕に、『ガディウス』は追い討ちをかけた。
「拒否したら、君はあそこに居られなくなると思え。卵の産まないチキンはいらない。そ
 れだけだ」
 僕は『ガディウス』から目を離せなく、かつ正視できなかった。彼をこれ以上見たくは
無かった。しかし一歩離れて彼が背負い込む悪の塊を見ることもできなかった。彼は僕の
右手を掴み、首筋まで手を伸ばそうとしている。もう逃れられない。焦点を合わせられな
い瞳は行き場を無くし、そして判断力もベクトルを失い僕の理性はブラックアウトした。

 突然、空っぽになった頭の中を埋めるように、脳裏に漠としたある一つの情景が広がっ
た。僕は薔薇の花畑を眺めていた。深紅の、燃えるような薔薇の色が三百六十度広がって
いた。僕は薔薇畑の中に飛び込んだ。薔薇には刺が有るとは知らずに。
 僕の、僕の心を、僕の全てを、薔薇が持つ特大の針が貫通した。

 僕は夢に付いての研究を進めるに当たって、様々な人に会い、話を聞いた。その中には
チャネラーと呼ばれる神秘現象を自らの体や声で具現化する人々も含まれていた。
 イタコ、巫女、シャーマン、人形使い等古来から様々な名前で呼ばれ、様々な形で現代
に生き残ってきた彼らは、一様に霊魂というものの存在を信じ―信じなければ彼らという
存在が一掃されてしまうが―そして人々の精神の奥底に潜む集団的無意識―つまり現代的
な意味での神の存在を信じていた。
 僕はチャネラーの一人から、人というのは『果実』であるという話を聞いた。枝から落
ちる時種撒く果実であると。果実は枝につながり、一本の『樹』となる。そこに私はチャ
ネルしているのだよとそのチャネラーは語った。
 人は自分だけの世界しか持ちえない―君が教えてくれたね。たとえ自らの瞳に他者の姿
が映っているとしても、他人の心の中を読み取れないのと同じように、それは自分の脳が
書き出した情報に過ぎず、他者が居るという証明にならないんだ。それでは何故人は友情
等の連帯感を持つのか。肌の色、髪の色、生まれ育った所で共通項を括る―そんな下らな
いもんじゃない。「自分は人だ」という感情を誰もが共有しているからなんだ。皆人であ
るという共通項がある事によって人は人と触れ合うことができる。また、感情は自分の物
だが、だれも「自分は人だ」という想いを書き換える事は出来ない。何故なら、それは
『果実』の想いでなく、『樹』の想いだからだ……。
 この樹の存在を仮定する事によって、夢学はその裾野を大きく広げる事になった。古来
から語り継がれてきた神秘と初めて、人の英知が結びついたんだ。予知、サイキック、テ
レパス等様々なものがこの樹という仮説を用いて証明されていった。輪廻転生だってそう
だった。
 前世という概念があるように、人の魂は『リサイクル』されるという考えは宗教内の森
羅万象観を通じて広く知られている。後世という存在を信じるが故に、宗教の中に前世を
組み込んだという意見が多いが、それも『樹』の思念だとして研究したグループが学術院
内で以前存在した。
 果実は朽ち落ちると樹の養分となりまた実をつける。これを人にも当てはめ、前世の記
憶を持つという者や身に覚えの無い記憶を持つものを調査対象に、彼らに口述して貰った
それらの『前世の記憶』を元に過去にそのような容貌、経験、経歴を持った者が居たかを
調査した―。公式の記録には彼らが成し遂げた仕事はここまでしか記述されていない。研
究は中止になったのか、それとも抹消されたのか―。
 一時期僕等のラボの中でこの事が凄い話題になった事がある。もしこの概念がこうして
論理的に証明されたら仮説でしかなかった『樹』の概念の大きな証明になる。しかしこの
事について何故か当の実験を担当していた研究員は一様に口を閉ざし、そして彼等は一年
以内に、友が政府の追放だと罵るほど理由無く研究所を離れていった。
 前世が証明されたら、前世の人間の権利補償問題などで行政に支障をきたす事を政府が
危惧し、研究員を良くて買収、悪くて社会的に封殺したという噂が直ぐに流れたが、その
噂も一日出回っただけで不自然に引いていった。
 何だったんだろうね。果たして。

 それ以来、僕は人を怖くなった。
 僕は人を正視できなくなり―つまりは信じられなくなり、
 人と会うとき僕の前に必ず『私』が立った。
 僕は卑怯な奴だ。
 僕は確かに現実から逃げていた。そして―
 君以外、僕を知らなくなった。
 僕って、何?

 研究所は肥大化した。
 僕はそんな研究所を、正門から見上げている。
 研究所から巨大な煙突が屹立し、それは空を左右二つに分割していた。そこから白煙が、
もくもくというより轟々と吐き出されていく。そこは研究所ではなく、工場のようだった。
 僕はその煙突を無感動に一瞥し、さっさと玄関に足を進めた。
 もうこの研究所からは僕という感情は居なくなり、全てが数値化され僕の目の前に現れ
た。僕は要らない。別の感情が僕を形作った。
 そう。私だ、私。
 僕はタイムカードリーダ/ライタに私の入所記録を記入すると、事務所にも入所報告を
し、宿直に労いの言葉をかけ、全てを済ますと真っ直ぐに実験炉中央管制制御室に向かっ
た。途中何人かの人とすれ違ったので、僕は「おはよう」とか「がんばろう」とかいった
挨拶を交わす。その声に、感情は無かった。どうせ相手も同じだろう。そんな気持ちが僕
の心を占めていた。
 僕はここに入ると人が信じられなくなる。此処で交わす全ての会話が表面的なものに感
じられ、実際そんな会話が全てを閉めていた。この研究室で交わされるデータのみが全て
の真実であり、僕はモニターが映し出す数値に没頭した。
 実験炉。それは夢を純粋なエネルギーに変える施設であった。人々は石油や石炭を用い
てエネルギーを得ていたが、夢学―その中でも物理学的分野が世に知れ渡ると、人々は新
たなるエネルギー源として期待を寄せた。まさにそれは「夢のエネルギー」だった。
 クレスに集まる夢。その中から主に解析が進んでいるものを抽出し、炉心に注ぎ込む。
それにエーテル―夢の原料のようなものを照射すると、夢は不安定なものとなり、安定す
るために『下位の夢』へと自らを転位させ分裂する。その時に大きなエネルギーを伴うの
だ。そのエネルギーで湯を沸かしてタービンに蒸気を送り込むのが発電所―これはまだ実
用に至っていない―で、実験炉はそのエネルギーを別の方向に向けたものだった。
 僕等はそのエネルギーを使いまた別の炉を動かしていた。粗鉄を鋼鉄に変える炉を思い
浮かべるといいだろう。僕は様々な夢を合成、融解させて純度の高い幻覚を作ろうと模索
していた。この炉のシステムも、前記した実験炉と同じようなものだった。
 ―このようにしてエネルギーを得る方法はまだ未解明の部分が多い。いや、未解明の部
分の方が圧倒的と言った方が良いだろう。だから僕達は一つ一つのことに万全を期す必要
があった。僕達は様々な事態を想定していた。しかしこの事件は想定した中で最も最悪な
ものだった。
 僕はこの純度の高い幻覚を作り出す実験の他、将来商用目的でこのエネルギーを利用す
る為の発電実験も同時に行う必要があった。僕はどちらか片一方に実験炉の使用を限定し
たかったが、後者は国策命令だったので、憚られた。
 管制制御室では実験の準備が進んでいた。発電実験は試しにタービンを暖めるだけの簡
素な実験だったので機械に任せ、吐き出されたデータから適当な文章を思い浮かべそれを
役人に提出すればいいだけだったので、問題は幻覚の製造実験だった。
 これはいつも細心の注意を払って行われていた。様々な試行錯誤が行われているので、
炉の中は常に不安定な状態だった。しかしエネルギーの大部分が発電に回っている今、
炉は落ち着いていてデータに記載された波の形も穏やかだった。与えられるエネルギーが
少ない分、お腹を減らして落ち着くのかなと僕は暢気に思った。
 お腹を減らした子がだだを捏ねるのはすぐだった。炉の当直が交代する時間が来たが、
明けた奴等は制御室に留まり、実験を見学する腹積もりらしかった。僕はその中にサーフ
ィンが好きな奴が居るのを見付け、心の中でこんな穏やかな海で高波を待っても仕方が無
いぞと冗談を言った。メイン制御板上にリアルタイムに打ち出されるチャートグラフは、
授業中に居眠りをする学生のように一定周期で頭を振っていた。
 実験炉から融解炉へ流れるエネルギー量は通常時の二十パーセント程だった。このよう
な低出力での操業は炉のエンストを起こす危険性があった。炉の反応を活性化させるため、
炉から引き抜き限度一杯の制御棒―反応を押さえつけるために入れられた棒―が抜かれて
いた。僕はその危険度に気付いていたが、値は全て正常値で安定していたので僕はその状
況下実験を決断した。穏やかな波形に、僕は騙されていた。
「ECCSシステムカットオフ。実験用意」
「復唱。ECCSシステムカットオフ。実験用意」
 非常用炉心冷却系。それがECCSだった。炉が暴走したとき、最優先ラインで炉心に
水を注入するシステムであり、考えられうる全ての想定事故を保護する切り札だった。そ
れはもし融解炉がエンストし、エネルギーが行き場を無くした際、それが実験炉を熱して
ECCSが作動して炉が停止するのを避けるための苦慮の判断だった。通常以上の熱量で
熱された炉は耐えられるのか、炉が百パーセント稼動した時も耐えうるとタービン技師は
言っていたが、本当だろうか。様々な不安が僕の頭を過ぎったが、時期悪くも今日は王宮
でエネルギー庁主催の晩餐が行われ、その壇上でエネルギー庁長官が未来のエネルギーで
あるエーテル力発電―この夢エネルギーで発電するシステムの俗称である―について演説
する予定だった。そのアピールの為、今夜限り王宮の電力は全てこの実験炉から出るエネ
ルギーで賄われる事になっている。王宮のランプの油を切らしたら、大変だ。
 何か悪い事でも起きなければいいがと心臓が波打ち心配する反面、もうどうにでもなれ
という気持ちが僕の胸の内に芽生えていた。技術者として一番危ない思考だった。
 実験開始のため、制御技師が局部自動出力制御装置を切る。これは炉の出力をある一定
水準に安定させるため制御棒を引き抜く装置だった。
 ここで一つの予兆が起こった。落ちない筈の出力が一パーセントまで落ちていった。僕
は左に寝転んでしまった出力メーターを眺め、「どういうことだ」と聞いた。技師は一様
に頭を振った。コメディを見ているようだった。まだその時点では。
 この時、溶鉱炉の中では夢の毒物効果と呼ばれる現象が起きていた。出力が落ちた溶鉱
炉は中に夢の残滓を溜め込んでいた。夢の分裂によって生じる不燃物―夢の残滓はエーテ
ルによって消滅し、これは夢の分裂によって生じるエーテル量の方が夢の残滓に照射され
るエーテル量よりも多ければこの『溜め込み』は起きないが、出力が低下したことにより
反応が緩慢になり、エーテルは夢の残滓を消滅させることで手一杯となり、そして夢の残
滓を持て余してしまう。この夢の残滓が溜まると炉が再稼動してどんなにエーテルが発生
しても、吸収されるばっかりで分裂が起きず、出力が低下する。これが毒物効果だった。
 しかし僕はそれに気付かず、溶鉱炉を止めて実験炉を不安定な状態にさせるのは抵抗が
あったため何とかして出力を回復するように命じた。空調装置が唸りを上げ、部屋に冷た
い空気を循環させていた。
「制御棒引き抜き限度一杯ですが……」
 若い技師が心配そうに尋ねてきた。これ以上引き抜くと炉が抑えられず危険な状態にな
る。それを彼は危惧していた。確かにここで実験を中止し発電一本に回しても良かった。
しかしそうすれば、一ヵ月後に予定していた分量のデータを『ガディウス』に渡すことが
出来なくなる。只でさえ遅れているというのに……。
 もし予定していた実験を完遂出来なかったら。『ガディウス』はきっと僕を役立たずと
思うだろう。脅す彼の顔に滲み出ていた焦りの表情。僕は間違ってそれに同情してしまい―
 僕は揺れる心の天秤が、どうにでもなれという側に振り切れた。
「手動制御棒があるだろう。それを使え」
 若い技師は僕の顔色を窺うように目を細めた。しばらくまじまじと僕を見つめ、不安に
駆られた表情を残しながらも技師は再びモニターに目を向けた。百本ある制御棒が、七本
抜かれて今は十八本。いや、十八本あると思おう。計器、モニター、ライブカメラが映し
出すのは揃って何時もの実験炉・溶鉱炉の表情だった。そして相変わらず、チャートグラ
フはゆったりとした首振りを続けている。それは『平常と変わりない』、『普通の』炉の
姿だったのに、それが返って僕の緊張感を高めた。何か良くないことを隠していないか、
僕は目で見ることが出来るあらゆるデータを眺めたが、それのどれもが『平常時』のもの
だった。こんな状態で炉は何時も通りの運転が出来るのか。僕は信じられなかった。
 一時間経過。炉は七パーセントまで回復。僕は穏やかな波が打ち寄せる砂浜に足を下ろ
した。実験開始―
「……気水分離機の水位が低下しています」
 制御板を睨んでいた技師が僕に告げる。気水分離機というのはエネルギーを電気に転換
する最も手っ取り早い方法―水を沸騰させてタービンを回す―の為に生じる蒸気から水を
分離し、水を再び炉に返す為の分離槽の事である。この水位が低下することによって炉は
安定を失う。デリケートな炉はお風呂の湯加減や量に五月蝿い。技師が指し示す指の先の
計器を見ると、炉を自動的に強制停止する警告ラインに針が差し掛かっていた。
 僕は既にこの安全装置も取り外していたので炉は止まらなかった。水位は以前下降線を
描く。僕は予備のポンプを起動させ、給水量を通常の倍に増加させることを指示。それに
より水位は回復したが、水蒸気の圧力が規定量まで回復しない。実験の為には巨大なエン
ジンを動かす必要があり、その為の電力を溶鉱炉からも取り出さなければならなかった。
僕は失敗を重ねた。蒸気を少しでも得るために、非常用蒸気加減弁をも閉めた。
 炉の出力が低すぎ、炉心での平均蒸気含有率がゼロを指し示していた。これではタービ
ンが回らない。焦りで制御室の室温が上昇した。更に制御棒が引き抜かれ、残り十本。炉
心での沸騰が回復し、圧力がプラスに転じた。緩やかな上昇。圧力の値も、気水分離機の
規定値に持っていくことができた。
 なんとか実験にこぎつけたと思った。映し出された波形も安定していた。しかしこの場
に、悪魔は降りてきた。
「溶鉱炉の出力、上がり始めてます」
 制御棒を多数引き抜いたのだから、それは当然だった。しかしその言葉は当然でないも
ので震えていた。グラフには来るはずのない高波が、果てなく上へ伸びていた。ざっと見
て十秒間に三十パーセントの上昇。その急激な変化は誰の目にも明らかに異常値に映った。
 グラフは何かを求めるように垂直に近い角度で高みへ登っていく。ボイド効果だ。
「AZボダンを押せ!今すぐ!」
 そのボタンは緊急時、制御棒が一斉に炉心に降ろされ炉を停止させる非常用装置だった。
ボイド効果。沸騰している最中は水が水蒸気に変わる事によって変化する体積の増加は一
定しているが、沸騰し始め、その体積は二次曲線的に増加する。爆発的に。僕の心の中で
炉心という怪物が暴れまわろうと尻尾を振り回していた。それに百本の槍が押さえ込むた
めに突き刺さるが―
 まず始めに空気が震えた。戦車が砲弾を撃つドーンという音が聞こえて続いて何か重い
ものが落ちるドスドスという音が制御室に響いた。振動はなかった。それだけだった。制
御室に居た全員は何が起こったのか、そして何が起こっているのかと沈黙した。衝撃の後
の静寂。それは懺悔の時間だった。空調は尚も冷えた空気を吐き出していた。
「制御棒、下降中のまま停止」
 僕は最悪の事態を思い描いた。それだけは避ける必要があった。
「モータ切り離せ。制御棒の自重で炉心に降ろせ」
「復唱、モータ―」
 彼の声はそこで止まった。神が、下りてきた。
 激しい振動。それは神の足音だった。地面から剥され浮くような衝撃を受け、僕は思わ
ず床に倒れこんだ。振動で重力感覚を失う。体が浮いたような感じに、僕は吐き気を覚え
た。この世の全てをひっくり返したかのような轟音が耳に充満すると共に、部屋から明か
りが失われた。
 炉が暴走したのか。
 それ以外爆発の考えようが無かった。しかしそれに対し悲観してはいられない。僕は跳
ね回る心臓を押さえつけ、頭の中で非常時のマニュアルを思い描く。そしてそれに書かれ
ていた第一の指示―非常用ライトに照らされた核反応度計を見るとプラスの方向に転じて
いる。メルトダウン―炉心融解の危機が迫っていた。
 炉心融解。それが起こることによっていくらかに分離されていた夢が一つに固まると、
とてつもないエネルギー体が発生することになる。つまり、クレスに大きな孔が開く。
「全員脱出!ここは私にまかせて逃げろ!逃げたら直ぐ消防を呼べ!」
 僕はその場に居る全員を引き上げさせた。しかし数人の勇敢な技術者がこの場に残り、
僕は彼等にタービン室へ行きポンプの点検をする事とバルブを開けてくる事を指示した。
そして僕は無数にある計器に囲まれそれらの中からマニュアルに無い操作方法を捻出しな
ければならなかった。とにかくメルトダウンだけは避けなければならない。僕の頭は計器
から読み取るべき情報量の多さでパニックを起こしていた。
 時が経ち、僕は有効な回答を見出せないまま事態が急速に悪化していくのを眺めた。無
力だった。生まれて始めて感じた、存在の耐えがたい軽さがあった。事故を起こしてしま
った悲しさより事態を打開できない苦しさが僕を床に縛り付け、へなへなと僕はその場に
座り込んだ。
 そんな時に、咆哮を聞いた。
 それは鉄が重みによってあげる唸りに似てはいたが、その重低音は動物的なものを感じ
させる息吹の混じったものだった。しかしその生誕は決して祝福されるものではなかった。
人がイメージとして生み出した様々な怪物。それが今まさに、ここに具現化してしまった。
 もう一度、咆哮の波が押し寄せる。僕は惹かれるように立ち上がり、中央制御室から見
下ろす事が出来る中央ホールで何が起こっているのか眺めた。そこから声は聞こえた。
 衝撃で粉々に砕け散った窓。そこから身を乗り出す。中央ホールは白煙に包まれ、何も
見えない。煙の奥で人魂のような青い炎が揺らめいていた。チェレンコフ効果が作り出す
青色。炉心だ。炉を押さえつけていた筈の鋼鉄の錘は何処にも無い。
 中央ホールには、視覚的には何もなかった。白煙が立ち上る燻った空間だった。しかし
僕は其処に見出した。見てしまった―鬼を。
 夢が固まって出来たものは爆弾ではなかった。しかし爆弾よりももっと凶暴な、意思を
持った凶器を僕は生み出してしまった。夢の残滓。それは悪夢と呼ばれるものであり、人
々の心に取り付くと理性だけでなく本能までも貪り尽くし、人を破滅へと追いやる。今目
の前に居るのはその集合体であった。
 そしてまた猛り声が響く。中央ホールの真中から聞こえてくるそれはこの世に生れ落ち
たことを確かめるような、喜びに満ちた雄叫びだった。
 僕はとんでもないものをこの世に現してしまった……。

 まばゆい光が僕を包み、僕は目覚めた。頭が痛い。まだ頭は惰眠を続けている。だから
僕は、炉の暴走事故を夢の中の出来事と錯覚する事が出来た。しかしそれは一瞬だけだっ
た。その時鋭い痛みが右肩を襲い、僕は激痛によって現実により戻された。
 右腕全体が、無くなっていた。
 あぁ……としか思えなかった。発作的に天罰だ、とか自業自得だとかそういった感情に
時折襲われたが、それは熱湯が沸いた時の泡のように直ぐに立ち消え、素早く喪失感がそ
の上を塗り潰した。
 僕はどこかの病院のどこかの病室にいた。クレスの王宮が窓から見える。市街の中心部
近くにこの病院は有るらしい。僕は詮索を止めた。今の僕にはそれだけ知れば充分だった。
僕はもうどうでもよくなっていた。
 時刻は昼前。人々はおのおのの仕事のため一部を除いて建物に閉じこもり、世界は昼寝
していた。僕の右手の所在を聞いても、答えてくれそうに無かった。
 昼になった。太陽は真上に昇ったが、世界は昼寝を続けていた。穏やかな沈黙。それを
ドアが弾いた。
 ドアの隙間から無数の目が覗かせている。レフィスだ。そしてその周りの目は看護婦の
野次馬だった。レフィスを見て、僕の心の人間らしい感情がやっと目覚めてきた。いや、
復活したといったほうが良かったかもしれない。レフィスは静かに病室のドアを閉めた。
レフィスと二人だけの空間。レフィスは僕を見て直ぐに、驚愕で目を大きく見開いた。何
を見て驚いたのだろう。無くなった僕の右腕かな。それともさっきからちくちくする頭に
巻かれた包帯かな。
 レフィスは、居た堪れないといった感情を露に目を潤ませた。
「大丈夫……?な訳ないよね……。こんな事しか言えなくて御免ね……」
 僕は首を振った。それだけでは心配だったから、僕は続けてもっと強く首を振った。君
は悪くない。謝る必要ないよ。
 しかしレフィスは僕の苦しみを少しでも分かち合って背負いたいと、自分自身に無理矢
理責任をなすりつけようとした。
「カインがやっていた事、国策命令で動いていたプロジェクトだったのね……。それがあ
 んな結末を迎えるなんて……。あんな危険な事だって分かっていたなら、私は何時でも
 中止命令を出せた。それなのに……」
 国策命令というレフィスの言葉に僕は訝しんだが、『ガディウス』という名前が上級貴
族の通り名であるという事を思い出しそうやって動いていたという事は自然なような気が
した。それ以上に疑問が残る言葉があったから、僕はそれをとっさに自己納得し、頭の隅
に追いやって打ち消したのかもしれない。結末……?
「プロジェクトチームは解散。研究所予算も大幅減額。酷すぎる仕打ちよ……」
 その言葉を聞いて、僕の感情は全てリセットされた。終わった……何もかも。そしてそ
れは新たな始まりではなかった。チームが解散する事により、僕は主任の職を失うだろう。
事件時の責任者としての枷を嵌め、これから一生助手務めになるかもしれない。元々雀の
涙だった予算がもっと減った所でどうと変わることではなかったが、しかし事件の失敗に
よって助手に戻ることで僕の利用価値はゼロに等しくなり『ガディウス』がスポンサーか
ら離れる事は予想がついた。僕は全てを失った。
 リセットと共に悲しみという感情も無くなり、僕は自嘲で顔を歪めた。人はそれを壊れ
たと言う。僕の頬を、涙が一滴伝わった。
 レフィスは僕の肩に手を置き、その手をゆっくりと背に回して僕を抱いた。彼女に甘え
たい一心で、僕は顔をレフィスの首筋に埋めた。とめどなく涙が目から溢れてきて、レフ
ィスの背を濡らした。僕の心にぽっかりと空いた空白、そこでレフィスは手を広げた。
「私がずっと、そばに居てあげる……」
 レフィスは僕の耳元で囁いた。僕にしか聞こえないような小さい声で、息を吹きかける
ように、そっと。
 僕は左手をレフィスの瀬に当て、レフィスに身を寄せると今は無き右手でレフィスの髪
の毛を撫でた。初めて触れるレフィスの髪。しなやかで繊細なその髪は、雪のように僕の
右手の掌で蕩けそうだった。僕はレフィスの髪を愛でつづけた。そうやって一時間、二時
間、時が流れた。
 元々有ったものを再確認するために、全てが流れ去った感情の池を愛情で満たすために、
僕等はたっぷり時間を掛けた。そんな僕らを覗き見するかのように日は傾いでいく。日は
紅潮し穏やかな陽光を僕等の頬に当てる。世界は惰眠を続ける。それは悠久の時だった。
 僕等に与えられた、最後の幸福な時間だった。

 僕の世界には君と僕以外誰も居なかった。
 君の世界もそうであって欲しいと思った。
 僕は君を僕の中に取り込みたかった。
 それは叶わない想いだとは薄々気付いていた。
 僕は、僕の世界に閉じこもっていった。
 終わりを示す福音の鐘がなる時は、来た。

 それからレフィスは毎日僕の病室に来て、僕の車椅子を押してくれた。彼女は僕に最近
起こった事を話してくれた。病室で篭りっきりの僕は話すネタが無いので僕の子供の頃の
話をした。蜜月の日々は退院の日まで続いた。
 退院の日は快晴だった。眩しい朝日が僕の目の前を照らした。義手になった右手はまだ
不慣れでぎこちなかったが、何とかその右手で受付から領収書を受け取る事が出来た。半
年振りに、僕は病院の外へ足を踏み入れた。
 王宮は日の光を反射し淡く輝く。僕はレフィスに退院の日を言わなかった。いきなりレ
フィスに会ってレフィスを驚かそうと思ったからだ。酩酊したような足取りで、僕は王宮
に向かった。
 暫く市街を歩き、ダウンタウンの中心部に差し掛かった所で、僕の横に自動車が急停車
した。何だろう、と僕は立ち止まり、それに目をやる。近くにあった露天の親父が何か怒
鳴った。その方向を一瞥すると自動車のバンパーが僅かにリンゴの箱に当たっていた。親
父が何と言っているかは聞き取れなかった。自動車から飛び出し、僕に駆け足で走り寄っ
てくる男に全神経が集中していた。
 僕は一歩足を引いた。あと一瞬、男が声を掛けるのが遅かったら、僕は逃げ出していた
だろう。男は俗にボディーガードと呼ばれているような人が着る服に身を包み、顔も僕が
イメージしていたボディーガードそのままだった。
「サー、トロイメント!」
 男は淀みない声で僕をその場に押し止めた。男は右手を突き出す。素早い挙動は僕の身
を強張らせたが、それが僕に握手を求めているのだと気付くと、震える手で僕はそれに応
じた。
「お待ちしておりました、サー。ご退院おめでとう御座います。今ここで全てを話す時間
 は御座いません。レフィス殿下がお待ちです。緊急事態です。早く車にお乗りになって
 下さい」
 男は手短に、分かり易く文を細切れに切って僕を催促した。僕は何も分からず、しかし
その男の無骨だが慇懃な物腰と男の言葉に出てきたレフィスという言葉に誘われて言われ
るがまま車に乗り込んだ。
 何かただならないことが起こっているという事に僕は気付いていたはずだが、僕の頭は
なんだ、レフィスは僕の退院日を知っていたのかと暢気に悔しがっていた。僕が助手席に
乗り込むと、車は急発進した。僕は背もたれに軽くとんと押し付けられ、ダウンタウンの
街並みが、僕の背後に尾を引いた。
 ハンドルを握る男は押し黙っていた。僕も彼とは必要なこと以外余り話そうと思わなか
ったので、同じように口を閉じていた。
 目を前に向ける。王宮が病室で見たときの二倍の大きさで目の前に立ちはだかっていた。
男は言う通り王宮に向かっている。それを確認すると、このまま何処かに連れ去られるの
ではないかという不安が一掃され、僕は心を助手席の背もたれに落ち着かせることができ
た。
 暫くの間僕は前を見ていたが、代わり映えしないフロントの眺めに愛想をつかせて僕は
視線を横に移す。前から後ろへと流れていく街並みが気持ち良い。僕は到着までそれらを
眺める事にした。
 半年という時は短く、その間クレスは何も変わらなかった。季節の変化は周期的なもの
で僕にとってそれは余り変化とは言い難いものである。若葉が黄色に身を染めても、それ
は僕に既視感を呼び起こさせるだけだった。
 一瞬、風景の中に黒いものを見た気がしたが、それは気のせいだった。
 二十分程時間が経過しただろうか、突然男が口を開いた。「身を助手席の足元に隠し、
敷いてある筈のタオルケットで体を覆って下さい」。僕はその言葉に耳を疑った。しかし
確かにその言葉は男の口から出てきたものらしかった。訝しみながらも、僕はそれに従う。
検問があります、と男は事情を説明した。前は素通り出来たのに、どうしてだろう。何か
王宮内で揉め事が起こったのかな、と僕は推測した。例えば、テロとか。
 狭い助手席の下に身を丸め、タオルケットで自分を覆う前に、ちらりと男の顔を窺った。
男は車を運転するために前を見ながらも、僕が言う通りにしているかどうかを確認するた
めか、一瞬だけ僕の方に目をやった。その目は犯罪者を護送している最中の、無表情を装
う空疎な目に似ていた。それを見て僕は、王宮内での僕の立場が危ういものになっている
という事を悟った。僕はもっと身を縮めた。
 五分ほど車は走り、ゆっくりと減速、車は止まった。窓を開ける音がして、男が窓の外
の何者かに向けて喋った。これが検問なんだろう、と僕は身を固めた。僕は今何が起こっ
ているのか推測でしか分からなかった。怖くて、目をじっと瞑っていたからだ。長い時間
がタオルケットの中、暗闇の中で流れ、今か今かと待ち続けていた時、ゲートが開き、車
が再始動する時がやってきた。窓が閉じられ、男がアクセルを踏む気配。緊張と車の底に
溜まった埃で喉が詰まった。
 車は走る。王宮内に入ったはずなのに、男はタオルケットを取っていいとは言わなかっ
た。指示が出ていないので、僕もそのまま身を屈めていた。王宮内は徐行運転らしかった
ので、入ってからの時間は長かった。僕はその間タオルケットをぎゅっと握り、不安から
身を守ろうとした。僕は車が完全に停止するときを静かに待った。何度か停止するときが
あったが、それは交差点で車と行き違ったり道を横切る人が完全に通過するのを待ったり
といった理由だろう。暫くすると車はまたゆっくりと走り出した。そして三度目の停車。
ギアダウンする音が響き、次にエンジンが止まる音が耳に入ってきた。到着だ。「到着で
す」。男も言った。
 僕は助手席のドアを開け、たった数分間だったのにとても長く感じられた助手席下の潜
伏から開放された事を確認するため外に出るなり大きく伸びをして、深呼吸をした。王宮
を漂う空気はクレスと同じものの筈なのに、何故かどこよりも新鮮な感じがした。大きく
大の字に手を広げて背を回したかったが、男の視線を感じて僕は小走りに男の元に向かっ
た。男は静かに男が向かう方向―後宮に歩みを進めた。
 後宮はその前に構える雄大な正殿とは対象的に背の低い、こじんまりとした建物だった。
正殿と後宮の二つの建物で構成されるクレス王宮は、その全く対照的な二つの建物のコン
トラストによって見るものに印象を与えていた。左右二つある高い尖塔が特徴的であり、
三階構造の内外全てに華美な装飾が施され荘厳な構えの正殿に対し、建物から装飾を排し、
替わりに流水や緑園を随所に配置した後宮は、居住目的で建設された後宮本来の意味を正
鵠に突いている造りをしていた。
 後宮に入ると心が落ち着く。そんな心情に誰もがなるようにと設計者や建築者は思った
のだろう。建物の五倍はあるかという建物以外の敷地―つまりは庭は広さに圧倒されるの
でなく、つまりは威圧的でなくそれが自然であるかのように振舞うことによって心を和ま
せる。庭という見せられる為にあるものにとって後宮のそれはある意味実験的な佇まいを
見せていた。
 実験的であるがゆえに、そこには試行錯誤があり、僕が来る度に後宮の庭は何時も違っ
た表情を見せる。僕は後宮に来る時必ずその変化を眺めて楽しんでいたが、今日はそれ所
では無かった。浮かれた気分を後宮の庭が落ち着かせ、僕は初めて、ごく自然な感情であ
る危機感―恐怖感を覚えた。
 鬱蒼と茂る木々の間を潜り抜けるように敷かれた後宮への道を抜けると、色とりどりの
花に身を包んだ後宮に再会した。地上二階、地下一階の長方形の建物。構造的には簡素な
作りをしていたが、玄関だけは違い吹き抜けになったエントランスの形をそのまま刳り貫
いた大きな口を開け、止め処無く来る来訪者を捌いている。採光性が重視されていて日が
傾いてもエントランスや玄関から光が消えることはない。玄関はロータリーになっており、
男と同じように僕も左から回って後宮に入った。
 ロータリーの真中に設置された大噴水の水滴が頬を濡らす。振り向くと、噴水が跳ね上
げた水滴が日の光を跳ね返しきらきらと光の玉を作っていた。後宮に来た時よくレフィス
と噴水を飽きもせず眺めて過ごしたものだが、今はじっくり見る余裕がない。前を行く男
の足取りは心なしか早くなっているような気がした。
 エントランスに入り、その左右に設置された二階への大階段の内左の方を男は躊躇いも
せず登っていく。たとえ王であっても王女に会いに行く時、エントランスで待って王女が
部屋から出てくるのを待ち、王女―つまりここの住人と一緒でなければこの階段を登るこ
とはできない。しかし男は一人で二階へと登り、振り返って僕に無言の催促をした。数秒
逡巡したが、僕は何も考えないことにして階段を駆け上がった。深々とした絨毯の気持ち
悪い感触がここは走る場所ではないと警告してきたが、僕は無視した。男も何も言わなか
った。
「レフィス殿下のお部屋は、私も知りませんでした。十年来レフィス殿下の下で勤めさせ
 て頂いて来たのですが、私もここへは足を踏み入れるのは初めてです。貴方は幸運な人
 だ……」
 声は無感動を装っていたが、次代に低くなっていく男の言葉に僕は羨望を聞き取り、僕
は頬を赤らめた。後にも先にも、男が自分の感情をはっきりと口にしたのはこの一言だけ
だった。
 男は道の空間に足を一歩踏み出す。そのしっかりとした足取りから僕はあらかじめレフ
ィスは彼に自分の部屋の位置を教えているのだと感じて、今度は僕は彼の横に並行して歩
いた。エントランスから覗く事のできなかった暗い坑の中に、今僕は居る。通路の両側に
は机や椅子が置かれ、当然花も生けられているが、玄関などに飾られているような整った
様式美でなく女性的な―女の子的な可愛さをコンセプトとした美しさで生活臭が感じられ、
僕の心に気恥ずかしさが急に襲ってきた。
 部屋数はエントランスから見て左側二階には眺めただけでざっと十室程。一階には部屋
がなく、この後宮が左右対称であるということを考えると合計二十部屋程度という所か。
ふと頭の中に女子寮という言葉がもたげ、僕は慌ててそんなやましい考えを殴りつけて抑
えた。
 そんな事を考えているうちにレフィスの部屋に辿り着いたようで、男はとあるドアの前
に立ち止まった。二階から上がってから三番目のドアの前だった。
「どうぞ」と男は言ったが、ドアを開けようとはしなかった。きっと畏れ多いのだろう。
それとも、ボディガードという職に就く者のプライドか。彼とは対照的に僕は気兼ねなく
ドアを二回ノックして、「入るよ」と一言、レフィスの部屋へ足を踏み入れた。
 そこにレフィスは居た。僕はレフィスの部屋を物色する前にレフィスに釘付けになり、
レフィスの顔を見続けた。そして憑かれるように、レフィスの目の前までふらふらと歩い
ていった。
 男はドアの後ろから僕等二人を眺めていて、それ以上中へ入らない。
 レフィスは俯いていた。喉に何かが詰まったかのように胸に手を当てる姿は心配で胸が
詰まりそうという表情を代弁していた。レフィスは何時も通り綺麗だったが、今日のそれ
は落ちる花弁が最期に見せるあの輝きのような、脆く哀しい美しさのようだった。それは
病室に入って初めてであった時のあの顔、何か悲しい事があった時の表情だった。
「……どうしたんだい?レフィス」
「カイン、貴方は狙われています」
 強い口調で、レフィスは僕に宣告した。狙われています。どういう事だい?レフィス。
僕が何をしたと言うんだい?君も。
 レフィスの唇は震えていた。それは緊張からくるものだろうか。もしそうであれば……。
 僕は忘れていた恐怖という感情が心臓の動悸によって体中に駆け回るのを感じた。
「何で、僕が?」
「私にも分かりません。とにかく貴方の事を良くなく思っている方が残念ながら政府に居
 るのです。私は偶然聞いてしまいました。貴方を暗殺しようとする計画について……」
 今度は心臓が萎縮した。全身から血の気が引いていくのを感じた。嘘だろ?と僕はレフ
ィスをじっと見るが、強い意志をもったレフィスの瞳はそんな疑問を跳ね返すのに充分な
輝きを見せていた。嘘だろ……。
「あの事故が原因で……でも暗殺なんて……」
 嘘だろ。嘘だろ。嘘だろ……。レフィス……。
「考えるのは後にしましょう。それより今は逃げなければ。ブーリガルに私の離宮があり
 ます。そこは私の許可がない限り、誰も入れないことになっています。そこで暫くの間
 身を潜めて―」
「すみませんが私の任務はここまでです」
 突然二人の会話にボディガードが割って入ってきた。先程までの落ち着き払った声は何
処に消え去ったのだろうか。彼の声は悲痛に震えていた。彼が何を言っているのか飲み込
めず、僕等は彼の方を向いた。
 彼は口をへの字に結い、何時も通りの武骨な顔つきだった。しかし口元がぴくぴく震え
ている。何か込み上げてくるものを必死で抑えている感じだった。
「十年来、私はレフィス殿下のボディガードを務めさせて頂き、とても楽しかった。感謝
 しています。しかしもう、私は……」
 補足説明するつもりで繋いだ彼の言葉はやはり意味不明だった。しかし彼の挙動によっ
て、僕等は嫌でも彼の考えを汲み取ることになった。
 彼は銃を抜いた。
 鈍い銃声。直後、僕は自分の心臓が大きく跳ねる音を聞いた。それは僕の生存証明であ
り、彼は誰を狙ったのかを的確に示していた。レフィスは弾き飛ばされた。事実は僕の耳
から音を奪った。感覚が麻痺し、視神経に全てが集中した。手を大きく前に突き出して、
レフィスは倒れた。レフィスの胸から血がとくとくと噴出していた。
「レフィス!!」
 僕はそう叫んだのか、それとも単にそう口が動いただけなのか、何も聞こえなかったの
で分からなかった。でもレフィスには届いたはずだ。僕はレフィスに駆け寄り、レフィス
に覆い被さるようにして跪いた。
 銃創はレフィスの胸を貫いていた。それは僕に助けを呼ぶことの虚しさを示しているか
のように正確に心臓を射抜いていた。僕の視界に靄がかかり、全てのものがグシャグシャ
に滲んだ。僕は知らず知らずのうちに泣いていた。僕は泣くのが嫌いだった。泣く事によ
って言葉は呂律を無くし、意味を正確に伝えられなくなる。ああ、こんな時に、レフィス
に言いたかったことが一杯あるのに……。
「レフィス!レフィス!!」
 レフィスの顔が蒼白になっていく。筋肉が力を無くし、レフィスの顔はもう死者のもの
だった。しかしレフィスは喘ぎ、生き長らえようと口を動かす。レフィスの心の奥の何か
が、死の世界に入る事を必死に拒んでいた。
 レフィスは呼吸とは違う、口の動きをした。僕は顔をぐっとレフィスに近付けた。
「レフィス……!」
「お願い……アベルって呼んで……」
 それは私が生まれた時に貰った、母さんがつけてくれた名前なの。レフィスは途切れ途
切れにそう言った。レフィスは小刻みに痙攣を始めた。死期は近い。僕は何もすることが
できずにただ死を眺めている悔しさ、切なさに震えた。
 僕はアベルとは呼びたくなかった。アベルと呼んだら、レフィスは何処かに消え去って
しまいそうだった。レフィス、レフィスと尚も僕は呼びつづけた。そんな僕に、レフィス
は静かに微笑んだ。
 過ぎた時は戻らなかった。レフィスとの甘美な日々はもう遠く彼岸に離れていって、手
が届かない。レフィスの最期。僕達の最期。二人で居た時あんなにゆっくり過ぎた時は、
今は急ぎ足で二人から邂逅を奪っていく。微笑で強張った唇から、力が抜けていく。僕は
囁いた。二人の時に、終止符を打つように。墓前にささげる為に花束を置く時のように。
「……アベル」
 僕の声はレフィスの耳に届いただろうか。言い終わったころにはレフィスは息絶えてい
た。安らかとは言えない、苦しみに包まれた死に顔で。生きようと、生きたいと、レフィ
スの顔は言っていた。
 レフィスは何時も優しかった。小柄な彼女に似合わず、彼女は全てを包み込み、卵を抱
く親鳥のように僕を暖めてくれた。そんな彼女に似合わない最期だった。僕は彼女がそん
な最期を迎えた事を認めたくなかった。
 レフィス、レフィス、レフィス、レフィス、レフィス、レフィス、レフィス、レフィス、
レフィス……。
 僕の左手に物が覆い被さるような感触に気付き、見てみるとそこにレフィスの右手があ
った。僕はそれをしっかりと握り返すと、やるせない虚脱感を感じただ静かに涙を流した。
手を真っ直ぐにしているだけでは体重を支えきれず、僕は肘を曲げた。
 僕の心に再び穴が開いた。それは心の原型を留めないほどの大きな穴だった。僕は涙で
そこを満たそうとしていた。哀しさや悔しさではない、喪失感の涙だった。
「レフィス殿下。皇帝陛下に屈してしまった私をお許しください。どうか、私に罰を……」
 再び部屋に銃声が響いた。そして大きな物が倒れる音。男は自殺した―ようだ。僕は男
の方を振り向かない。レフィスをずっと見ていた。涙ではなくレフィスの顔で僕は心を埋
めようと頑張るが、レフィスが死んだという事実が頭の中に横たわり、拒絶した。生きて
いた頃は有効だったレフィスのイメージが、機能しなくなった。
 レフィスが居ない世界。それは何を意味するだろう。それは僕が居ない世界と等しかっ
た。僕が居ない世界。それは何を意味するだろう。
 僕の周りの世界が崩れ去り、全てのものが意味を成さなくなった。
「カイン君……」
 何もなくなった頭に突然飛び込んできた人声。僕はそれに素早く反応した。聞いたこと
があるボーイソプラノに僕はレフィスの顔に名残惜しみながらも、声のした方を振り向い
た。
 数人の武装した男がドアの前に押し寄せている。その中に何故か『ガディウス』が居た。
「『ガディウス』……」
 僕は悲しみに震える足で立ち上がった。そして『ガディウス』を見て、レフィスが言っ
ていた人物が誰であるのか、そしてこれが全て『ガディウス』の企みであるという事を悟
った。
「レフィス殿下は残念な事でした。お父上のお考えにそぐわないばかりに……。そして君
 も、私の考えにそぐわないばかりに……」
「『ガディウス』……」
 僕の周りを武装した男達が取り囲む。腕章には王宮警察のエンブレムが描かれていた。
国家を挙げた欺瞞だった。
 僕の手を武装警官が縛る。僕は抵抗もせず、ただその光景を眺めていた。僕の体が僕の
物でないような感じがして、自分のことなのに僕は完全に傍観者を気取っていた。もうど
うでもよかった。レフィスの居ない世界なんて、何もないのと同じだった。
「……殺すのなら直ぐ殺せよ」
 僕は強がるでなく、本心でそう言った。死に未練はなかった。夢や樹の研究をしている
というのに、僕はその時死後の世界でレフィスと今すぐに巡り合いたいと願っていた。し
かし『ガディウス』は僕を死なせてくれなかった。
「君は幻覚を生む薬の製造に失敗した。統治するにはもっと純度の高い幻覚が必要だ。し
 かし君は失敗した。君は役立たずだ。しかし私は君を最期に役立たせる方法を考えた」
 『ガディウス』は顔を歪めた。人を貶める、卑しい微笑だった。
「カイン・トロイメント。君は事件の失敗という枷を嵌めて生きていくことの辛さと降格
 処分の辱めに理性を失い、レフィス皇女を暗殺した。今度の君は犯罪者だ。失った右手
 がそれを証明している。義手を外せば、君は犯罪者の姿として遜色ない」
 そうか……と僕は納得し、こんな醜い考えを思いつく彼に失望する意味を込めて、小さ
く呟いた。『ガディウス』。
「因みに『ガディウス』という呼び方は止めてほしいな。それは私の上司の名前だ。私に
 はちゃんと上司から授かった『ジョーカー』とか『マークス』とかいう名前がある。一
 番『ジョーカー』が気に入ってるから、それにして欲しいな」
 心を落ち着かせるために、これ以上『ジョーカー』の顔を見ないほうが僕の為だった。
しかし『ジョーカー』は僕に向かい歩いてくる。両手を後ろに回され縛り上げられた僕は
無抵抗で、顔を逸らすしか彼を見ずに済む方法は無かった。しかし彼は顔を逸らした方向
に自身の顔を向けてきた。『ジョーカー』の淀んだ目が、僕の瞳一杯に広がった。
「これから君は簡素な裁判の後、クレス中を引き回されることになるだろう。皇女殺しの
 犯罪者の顔。薄汚い黒い肌の風の民は犯罪者に仕立て上げるのにぴったりだ。君の顔は
 クレスの住人の目に焼きつき、語り継がれる。彼らは君が犯罪者である事に疑いの目を
 向けない。そして皇帝陛下は再び平和の内にクレスを統治なさるだろう。我が侭な娘に
 気を煩わすことなく……」
 『ジョーカー』の言葉に頭が疼いた。失いかけた理性が再び戻ってきた。彼の言った言
葉が頭の中を跳ね回り、品詞分解されてまた再構築されていく。皇帝陛下は、再び、平和
の内に、クレスを、統治なさる、だろう。
 我が侭な、娘に、気を、煩わす、こと、なく。
 『ジョーカー』は続けた。『ジョーカー』の声は何も知らない者と接していることで得
る優越感に震えていた。
「最後に一言。君は何で右腕が無くなったか不思議に思わなかったかい?―私の部下が切
 ったのだよ。君を犯罪者に見せるために、ね」
 僕の頭に鈍い衝撃が走った。それは連撃になり、僕は気を失った。
 薄れていく意識の中、僕は何故か失った人の名を思い浮かべていた。
 レフィス……。

 ……。
 …………。
 …………。
 ……。
 ………………。
 ……。
 …………。
 ……暗いな……。
 ……。
 何処だろう……ここは。
 …………。
 閉じ込められているのか、僕は。
 ……。
 右のほうに、僅かに明かりが見える。それは垂直に引かれた何かの影絵を作ってる。鉄
格子だ。というと、ここは牢屋だ。
 ……。
 それも当たり前か。僕は犯罪者になったんだっけ。
 …………。
 取りあえず起き上がろう。
 寝転んでいた僕は起き上がり、壁にもたれ掛って座った。正座、胡座、何でも良かった
が僕は何故か無意識に三角座りを選択していた。背を壁に寄せ、僕は寒くも無いのに縮こ
まった。
 暗さとこれから僕の身に降りかかるであろう絶望でで僕は何も考える気力が起こらなか
ったが、とにかく今は考えなければいけなかった。レフィスの為に。
 僕は『ジョーカー』が言っていた言葉を思い出した。お喋りらしい彼は言葉の中に様々
なヒントを織り交ぜていた。『統治』、『純度の高い幻覚』、その言葉を結びつけると、
出てくる答えは『洗脳』。彼らは薬を使っての洗脳を試みようとしていたのではないか。
 幻覚は一度その状態に陥ると全ての感情がリセットされ、人は幻覚の思うが侭に振り回
される。つまり幻覚によって人に共通意識を持たせる事が出来る。そうすれば人には個性
が無くなり、人を簡単に操ることが出来る。確かにそれは、『皇帝陛下』にとって都合の
いい薬だ。無能な愚民ほど、権力者を喜ばせられる者は居ない。
 そして『我が侭な娘』。レフィスはその計画に反対していたのだろう。僕はその計画に
荷担している事を言わなかった。それが国家計画とは知らなかったし、僕は『ジョーカー』
の存在によって口を閉ざされていた。ああ、もし僕がこの事を生前レフィスに言っていた
なら……。
 レフィスは死なずに済んだ。最悪の事態は免れた。例え研究所を追い出されようが、君
が生きていてくれたら……。御免―では済まされないよね、レフィス。
 話をすべて結合させる。皇帝は全てを自分の中に取り込もうとしていた。自分自身によ
る完全な統治。彼はそれを望んでいた。その為に彼は人民を一様に平伏させようと人々に
夢を見させることを考えた。その過程で嫌いなものでどうしようもないものは排除する事
にした。その中にレフィスは含まれていた。レフィスは死んだ。
 皇帝が考えることはその程度か……。僕は自分の胸に顔を埋めた。しかし考えが渦巻き、
突然レフィスの顔が頭に浮かんだ。レフィスがいなくなって以来、初めて僕にレフィスは
微笑んだ。
 僕は発想を正反対に転換させた。皇帝でさえそう考えているのなら。
 レフィス。僕は僕を取り戻すよ。そして君も奴等から取り返してみせる。もう勝手には
させない。
 君は言ってくれたね。そう。僕の目から見た世界は僕自身のものだ。
 僕はポケットの中を弄った。手に触れる硬い感触。どうやら抜き取られずに無事に済ん
だようだ。ペンダントを。
 僕はペンダントを取り出し、目の前に持ってきた。ペンダントは僅かな光を浴びて鈍く
光を跳ね返した。月のペンダント。それは王宮に行く前に退院祝いの為に、レフィスとの
想い出の為に奮発したものだった。一度も君の首に掛ける事が無かったペンダント。
 いや、今から僕は君の首筋にこれを飾ろう。
 僕はそれに向かい詠唱した。
 ナハトゥムを召還する為に。
 ナハトゥム。それは炉が暴走した時にこの世に生れ落ちた怪物に対し僕がつけた名前だ
った。夢食い鬼ナハトゥム。人を求め、のた打つその姿は体を持たず何かに形容し難かっ
たが、僕はそれに鬼を感じた。常に何かを求め暴れ回る、それは鬼だった。待っていろ、
今お前に体をくれてやる、ナハトゥム。
 ナハトゥムは人の悪夢の塊である。悪夢が寄り集まってナハトゥムという意識を形成す
る。僕はあの事故の時炉の稼動を止め、全てを遮断し意識の真空空間を作ることによって
ナハトゥムを現場に押し留めた。
 詠唱といってもそれは呪文のようなものでなく、その時僕の心の中で浮かんだある歌の
一小節だった。それは春を待つ思いを綴った歌で、歌い手はレフィス。僕がその歌を唄う
と何時もレフィスは寂しげな歌になるねと笑った。僕はレフィスみたいに唄いたいなと暇
な時ずっとそれを口ずさんでいた。そんな二人の想い出が僕によって無意識に釣り上げら
れ、僕の喉がそれを求めた。
 やはり僕はレフィスのように唄えなかった。でも、今はそれでよかった。
 夢―意識はイメージによってその姿を大きく変える。人が訴えかけるイメージ、その基
本的なものに声がある。歌を聴くと喜怒哀楽が生まれるように、声は力になる。僕はナハ
トゥムを抑えるために、事故当時あるものを流した。それでナハトゥムは白昼夢のように
消えていった。
 今の僕は負のイメージの塊だ。それに事故現場の一番近くに居た僕にはナハトゥムの残
留思念が多く纏わりついているはずだ。つまり僕は背後霊を背負っているのだ。ナハトゥ
ムは消えていない。僕は確かにナハトゥムを見えなくさせたが、ナハトゥムが現れる要因
は残った。意図的ではない。それはしょうがないものだ。人が悪夢に魅入られる限り、ナ
ハトゥムはイメージとして存在する。そして負のイメージが集まると、ナハトゥムが現れ
る。ナハトゥムは死なない。人が弱い存在である限り。弱き人に強さを与えてくれる。そ
れがナハトゥムだ。
 詠唱は終わりを迎えた。歌詞の中で雪が解け草原では蕾が朝日を待ち、心の中でナハト
ゥムが笑った。
 僕の横の壁が膨らみ、崩れ落ちた。飛んでくる破片が僕の頬を傷つけた。白煙が舞い上
がり、僕はその方向を睨んだ。
 ナハトゥムはそこに居た。

 ほんの少し前まで、僕は死ぬつもりだった。
 でも僕は、生きようと思った。

 正殿の地下に僕は閉じ込められていた。正殿にそんな所があったのかと黴臭いその一角
を抜け煌びやかな正殿地下二階に出たとき僕は思った。しかし百年という歴史の中、あら
ゆるものを内包し、肥えていたクレス王宮にこんなのもお似合いだと僕は嘲笑した。
 王宮の中は様々なものが渦巻き、そして淀んでいた。例えばそれは謀略や、陰謀という
言葉が表すそのものだった。それを見出すと、美しい、そのものが芸術品ともいえる正殿
の、装飾品群やエントランスの大シャンデリアはそれらを隠すためにあるというよりそれ
らを映し出すために存在しているように思えてきた。
 美しさが醜さに変わる。全てが偽善に移る。建前で動く世の中、腹の探り合いで生きる
人々、そんな世の中、僕は認めない。僕が作り変えよう。
 目の前を人が横切る。その人は僕を見て何か叫んだ。僕の何が怖いのだろう。僕に何か
『憑いている』からなのかな?
 僕は右手を振り上げた。音も無くその人の体は消えてなくなり、鮮血が宙に舞い赤い花
びら僕に手向けた。綺麗だ。
 僕はナハトゥムを背後に従えて歩く。ナハトゥムは僕の動きを忠実にトレスする。右手
を動かせば、腕長三メートルのナハトゥムの腕が空を薙ぐ。ナハトゥムはそうやって、糧
を得る。
 悪夢の集合体であるナハトゥムは体が無い。だからこうやって人を襲い体を得る必要が
あった。今は僕に憑く事によって安定を得ているが、僕という存在が居なくなれば、入れ
物を無くしたナハトゥムは不安定な存在になる。今のナハトゥムは僕が居なければ存在で
きない。言い換えると、僕はナハトゥムに縛られている。だから早急に、体を手に入れる
必要があった。
 再び僕の目の前を人が横切る。下ろしていた右手を上に振る。天井に押し花のような赤
い花が咲く。やはり僕はそれを見て綺麗だと思った。美しいという快感で、僕の動悸が早
くなった。今までにこれほどまでの美しいものは見たことが無いような気がした。地下二
階王宮倉庫。食料や武器が貯蔵され、保管されるこの空間には見回りや下郎以外人気が無
い冷めた場所だった。更なる快感を求める為、僕はもっと階上に上がる必要があった。
 僕はもう人が分からなくなっていた。ダウンタウンで行き交うもの、研究室で隣に座る
もの、泣くもの、笑うもの、それらを人とは思えなくなっていた。その感情には対人不信
という言葉が最も近かったが、僕のはもっと深刻だった。
 子供の頃、世界はもっと素直だった。しかしクレスに来て、心に襞を作る人々のその鋭
さを見て僕は驚愕した。人の裏を見ることが強要され、人々は本心を隠し建前という他所
向きの仮面を作り人を、自分を騙し、安定を得ている。人は大人になり仮の人格を得る―
いや、それが人そのものの姿だ……。そして世界はそれで回っている。僕は自我を抑えぎ
こちなく生活した。
 煌くクレスは僕にとって闇そのものだった。しかしその中で一筋の光明が射した。君だ
よ、レフィス。僕が僕で居られたのは君の前だけだった。閉ざされていた僕の内面に君は
果敢にも入り込んで来てくれた。僕も、君も共に傷付き合いながらも自分を知る喜びに震
えていたね。
 でも人は僕からレフィスを取り上げた。子供の頃、世界はもっと素直だった―
 あの日々に帰りたい。
 僕は再び泣いた。美しさに震え、泣いた。
 僕は目立たなく据え置かれた用務員用階段で地下一階へ上がる。重い扉を開けると、さ
らに美しいものが僕の目の前に広がった。パイプオルガンの音が耳に鳴り響く。多種多様
の金属光沢で目が眩しかった。地下一階はダンスホールとミュージックホール、礼拝場が
ある筈だった。その中でパイプオルガンが有るのは礼拝場だけ。
 僕は通路の行き詰まりに立っていた。上ってきた後ろを振り返ると『従業員専用』のプ
レートが掛けられた鉄の扉がプレートが示す従業員でないものに立ちはだかっていた。扉
は確かに拒絶していた。僕が扉を抜け、ここに入ってくる事を。しかしそれと同時に扉は
元に戻るなという事を言っているような気がした。
 無駄な事だとは知っていたが、僕は此処に居るのと元に戻り牢屋に入るのとどっちが相
応しいのか想像してみた。僕は果たして此処にいていいものだろうか。どちらを取るにし
ろ終着には死が待ち受けており、そのどちらも安らかなものではないように思えた。唐突
に、僕は僕の世界が怖くなった―自身を無くした。しかしそういう時に限ってレフィスの
面影が僕を奮い立たせるのだ。
 道を失ったとき、僕は彼女を頼りに前へ進む。彼女の優しさが、そのまま強さになった。
彼女の為に、僕は生きなければ。彼女の魂は暗い鉄格子の内側で朽ちるものではない。世
界を裏返して、僕はレフィスを取り戻してみせる。
 礼拝場は左右中央ブロックと分けられた地下一階の中央に属し、その前には地上一階に
繋がる大階段がある筈だった。パイプオルガンの音は前方から聞こえ、僕が居る通路は左
右に分かたれていた。丁という字の根本に、僕は居る。僕は赤い絨毯の敷かれる方へ歩い
た。
 丁字の交わる点。通路は静かだ。僕は人に気付かれないように、静かに殺した。この静
寂は何を意味するのだろう。人々は僕に気付いていないのか、それとも恐怖で息を押し殺
しているのか。どっちにしろ僕は都合が良かった。騒がれては困るし、何よりわめき声ほ
ど醜悪なものは無い。鼓膜がびりびりと震え、気持ち悪い。僕は赤い絨毯の上に立った。
 右を見ると、大階段の前に広がるホールがあった。光の多さで僕は右を見ようと思った
のだ。人が居る。今度は一人ではなく数人だ。僕が牢屋を脱出した事に気付いていないよ
うで―いや、僕が何者であるか分からないようで、やはり僕の顔を見て皆一様に驚愕で目
を見開かせ、叫び声を上げようとする。五月蝿い。
 僕はぬめっとした絨毯を蹴って、ホールへ走った。それは大音量で鳴り響く目覚まし時
計を止める気持ちに似ていた。しかしそれとは別に僕の肩に何か重いものが圧し掛かって
いるのも事実だった。
 僕という存在を求める為、僕はレフィスの為に殺した。しかしこうやってレフィスを追
い求めようとすると僕という存在が薄れていく矛盾が僕の心に有った。僕は血肉を求める
醜い獣だ。レフィスの前に屍肉を捧げる獣だ。こうやってレフィスを求めなければならな
い僕と、他人に対して仮面を作ることで世間と順応しなんとかやっていける僕の二人が今
心の中に居る。果たしてそのどっちが、僕なのだろう。
 僕はどちらを僕と認めてくれるのだろうか。
 少年時代の純情な僕がこうして僕を殺戮に駆り立てる。僕は返り血を浴びる。人の血に
舌なめずりをし、どろりとした鉄っぽい味を堪能する。これは僕なのだろうか?
 ホールから人が居なくなる。僕は階段の中心に立ち、階上を眺めていた。この上は中央
玄関になっている。やはり正殿も後宮と同じようにエントランスは吹き抜けになっており、
屋根はガラスで作られそこから光が地下一階のこの場所まで真っ直ぐに差し込めるように
出来ていた。日光が真っ直ぐに僕を刺して、僕はそれで今が正午という事を知った。体が
熱い。顔に付着した血が乾いて糊のように僕に纏わりついた。そんな状況で、僕は今此処
で生まれた、と思った。

 その部屋の名前―なんてどうでもよかった。その部屋も他の部屋と同じような部屋だっ
た。
 確かに部屋ごとにインテリアは主がコーディネートしていて個性があったが、僕はそん
なものに興味はなく、主さえも全員同じ顔に見えた。
 しかし僕はその人々からある二人を抽出しなければならなかった。皇帝と、『ガディウ
ス』だった。
 貴方達の計画は素晴らしい。でも貴方達に任せてはおけない。私利私欲、そんな詰らな
いもので世界は作り変えられるべきではない。僕がもっと面白く作り変えてあげる。
 その部屋の主は壁に背を寄せ、立ち入ってきた僕から出来るだけ逃れようと僕の対角線
上に居た。足をがくがくと震わせ、何とか立っているといった様子だった。僕は情けを掛
ける為、主―男に訊いた。
「あなたが『ガディウス』ですよね……厚生大臣」
 研究所の研究内容隠匿は大臣級のレベルを持つ者しか履行出来ない。王立学術院研究所
のトップは貴方か、文部大臣の二人。このどちらかが目を瞑って、いや計画を推進した人
々の内一人である可能性が高い―と僕は説明しようとしたが、そこまで言った所で厚生大
臣が震える声で否定した為言葉が途切れた。最後まで聞けよ。
「違う……私は……」
 僕は哀しそうな目で男を見つめた。何でそう嘘をつくのかなぁ……。『ガディウス』さ
ん。
「嘘はいけないですよ……何故なら」
 僕は右手を斜め上に振り上げた。掌の先には、紫の鱗を持ったナハトゥムの鋭い爪先が
浮かんでいた。ナハトゥムが実体を持ち始めた。
「貴方以外、もう大臣はこの世には居ません。私が殺しました」
 僕は僕と同じ考えを持った事―僕も同じ考えを持てた事に感謝するため、彼だけ特別な
処置をした。彼を僕の世界に加えてあげるため、彼の右手だけを残した。そして彼に対す
る畏敬の念を表すため、僕はその部屋にあったクローゼットから仮面を探した。
 大臣級の上級貴族しかその通り名を使えない。階級のピラミッドの頂点に立つほど通り
名は細分化され、通り名は固有なものになっていく。仮面舞踏会等で使う『ガディウス』
の仮面がこの部屋の何処かに有る筈だった。そして僕はそれを見つけた。
 マントに包まれるようにして、『ガディウス』はあった。小太りの彼に似合わない、ス
リムな印象。僕はそれを見て打ち震えた。今の僕を形容するなら、まさしくこの通りだ!
攻撃的なその仮面は人を拒絶し、大臣もさすがにこの仮面では舞踏会に出られなかったの
だろう、その隣には誂えたのであろう如何にもという仮面とマントがあった。そしてその
仮面とは対照的な、全てを包み込むかのような黒色をしたマント!僕はハンガーからそれ
らを引き剥がし、興奮を抑えるように素早くそれで身を包んだ。サイズは少し大きめだっ
たが、小さいよりかはましだ。マントに足を取られないように、僕は慎重になった。
 一つの物事を達成したことによって得る安堵と充足感。それは僕の心を落ち着かせたが、
反面僕が今から行おうとしている事に対しての悲しみにもなった。僕は奈落の底への淵に
立ち、あと一歩進めば底へと落ちて行ける。そう考えて僕は一歩、また一歩と行動をエス
カレートさせて来たが、見下ろすと足元の闇は空白ではなくまだ固い土であり、確かに穴
へと近づいているはずなのに穴に辿り着けない―僕は大臣を殺した。しかしそれでも底へ
落ちていくという高揚感は感じられなかった。人は生きている間、奈落に身を埋められな
いんじゃないか……僕は弱気になった。
 だから、僕は確かめに行く必要があった。気が付くと僕の足は皇帝の玉座に向かってい
た。
 この時間帯、皇帝は執務室で仕事に追われているだろう。外遊等皇帝が王宮から外出す
る予定は今日を挟んで前後二週間皆無の筈だった。しかし人々は僕の鏖殺にもう気付いて
いる筈だ。僕はシンパシーとも言える感情で、皇帝は王宮から逃げないと確信したが、周
囲の者が皇帝を取り囲むまでに事を済ませる必要がある。走ることは出来ず、僕は早歩き
で皇帝の元へ向かった。
 やはり僕の存在に気付いていたのか、我先にと逃げ出したのか正殿はがらんとしていた。
それとも僕が殺したのが全部だったのか。
 僕はそれでも溢れ出す人を殺しながらやっと巡り合う事ができた。正殿三階執務室。そ
れは皇帝という王宮の一番中心に据え置かれるべき者が職務を捌く場所として一見不適当
な正殿中央からやや左の場所にあったが、それはこの正殿を建築した者が賭けた揺らぎ
―美への追求心を情熱的に表していた。様式に固定されてはならない。様式の均衡を崩し
空間的な『あそび』を作ることによって建築家は美―自我を残したのだろう。硬質化した
正殿という建物で、僕はそこだけが好きになった。
 僕はその建築家に負けない破壊心を持って、執務室の扉を破った。勢い余り、壁まで抉
った。
「ジリアス皇帝……」
 てっきり座っているものだと思っていた皇帝は、侵入者を部屋に入れまいと仁王立ちに
部屋の中央で僕を待っていた。剣を正眼に構え、皇帝は光る切っ先を僕の額に向けた。
「……私は君の気持ちが分かるよ」
 僕はその言葉を聞いて微笑んだ。今なら僕も皇帝の気持ちが分かる。皇帝という孤独に
震える皇帝ジリアス。その計画は発作的に思いついたのかどうかは知らないが、彼が生み
出した考えは評価に値した。貴方は勇気のある方だ。人が誰でも思い描く願望を、恐れず
具現化してみせたのだから。
 しかしその考えには弱点があった。その椅子取りゲームには、一つだけしか椅子が無か
った。
 最後に世界の椅子に座るのは、僕だ。
「だがしかし、君のそれは―」
 僕は彼を衝いた。彼も同じように消えていった。僕が今まで殺してきた人と、全く同じ
だった。僕は一番偉い人を殺した。しかし、同じだった。
 今度は満足感よりも先に徒労感が襲ってきた。大きく足を踏み出したはずだったが、ま
だ穴には落ちられない。だから僕は無力感を感じずにはいられなかった。
 絨毯では響くはずの無い足音が聞こえる。重いものが無数に走る音だ。僕は皇帝の血糊
に背を向け、執務室から外へと穿たれた穴を凝視した。
 無数の兵士達が執務室の前に殺到してきた。彼等は部屋の有様を見て一様に声を無くし、
その後僕を見て衝撃を受ける。いや、僕ではなく、僕の背後にある何かに。
 僕の何が怖いのだろう。僕に何か『憑いている』からなのかな?
 僕は彼らに対して手を振り上げた。

 戦火がクレスを包んだ。僕はひりひりとする火の粉を浴びながら、それを眺めて過ごし
た。
 ナハトゥムはもう僕の体を必要としなくなり、勝手気ままに殺戮を楽しんでいた。ナハ
トゥムが人を殺すのは人々の心に悪夢を植え付ける為であり、それがナハトゥムの存在を
強固なものにする。しかしそれと共に―僕が僕を求めて人を殺していたはずが、何時しか
僕を見失っていたかのように―矛盾した想いによってナハトゥムは生存を脅かされていた。
 人々は恐怖に慄きながらも、再生を待ち望んでいた。いくら心に恐怖を植え付けても、
再生を希望する想いは人々の心から失われなかった。逆に、それを肥料にして再生は成長
していると言ってもよかった。
 十日間でクレスは焼け野原となり、腐臭漂う元王都の夜は完全に闇が降りて新月の夜を
思わせた。僕は月が完全に消滅した状態の事を言う新月という言葉の妙にほくそ笑み、い
ずれ満ちていくであろうその姿に思いを馳せた。
 しかし人々の再生の想いが事態をそう簡単に運ばせなかった。世界は尚も頑なに僕を拒
んだ。ブーリガル・フォーロック・ジャグポットの連合軍がクレスに向かって進軍。クレ
スを墜落させてしまうかのような勢威で行われた猛攻に、僕はクレスから撤退を余儀なく
された。そして僕は、それら三国に対し悪夢で私兵を生み出し徒党を組み抵抗することに
なった。
 クレスに世界が言う『平和』が齎された今、希望という視線がクレスに注がれ、クレス
をなくしたことによって訪れた混沌は再びクレスを中心にして回流し始め整流を作った。
 ナハトゥムは悪夢の供給源が絶たれた今、魂が薄まり穏やかな眠りに―仮死状態に陥っ
た。それは僕にとって大幅な戦力ダウンだったが、それと同時に僕の心の奥で密かに計画
していた事の煩わしい手間が一つ省けたことを意味していた。
 クレスでは早くも復興の槌音が鳴り響いている。だが依然クレスを動かす秩序は旧態の
ままであり、それには諸王国との緊密な連携が深く起因していた。計画を完遂するために
はこのままでは駄目だ。もっと抜本的な革命が起きなくてはならない。そのために、更な
る絶望が必要だった。
 人々は救世主を渇望していた。それは神ではなく、英雄というはっきりと人格を成して
いる指導者だった。僕にとってその思潮は望ましいことだったが、民衆の目は常に生き延
びた王族達へ向けられており、僕は民衆の目を据えられるべき所に据える為、そんな奴等
を根絶やしにする事に腐心した。
 水の国で旗振る者有りと聞けば、僕は急行しジャグポットにある全ての建造物を粉砕し
た。しかし血は絶えず、民衆は生きるものに羨望の眼差しを向け死人に縋る事は無かった。
時未だ満ちず。僕の理性は鋭利化し、獣性を剥き出しに僕を殺戮へと駆り立てた。
 クレスを出て九十日目、全ての始まりから丁度百日目。僕は飛空挺の舵をブーリガルに
向けた。三つ国が戦いを続けて磨り減り残った、全ての兵力を風の地に結集させていると
いう情報を掴んだからだった。三つ国の戦力は減衰し、もはや相手は一つの言葉しか考え
ていないだろう。即ち、総力戦。ジャグポットやフォーロックの民にとって異国の地で骨
を埋めることになろうとも、それを厭わない覚悟に見えるその結集は、僕に最後という言
葉を求めていた。
 飛空挺がブーリガルに黒雲を呼び寄せ、斥力によって生み出された静電気が空を震わせ
る。その数三百。一方扇型に陣を構えた三つ国連合軍は巨大魚を飛び立たせ、燐光で空に
カーテンを降ろしている。その数千百。飛空挺の対巨大魚キル比は一機に対し四匹なので、
形勢上僅かに僕の方が兵力を維持している事になる。
 決戦の日、早朝。戦乱で舞い上がった塵が見事な朝焼けを空に描き、地の叢では陽炎が
走っていた。風が強い。しかしいつもの朝だった。
 来るべくして来た、終着点だった。

 戦いは正午までに決着がつこうとしていた。明朝七時に切って落とされた戦端は、二時
間で優劣がはっきりと目に見えてきた。地に墜ちていくものは黒煙の塊ではなく、燐粉の
方が多かった。
 三つ国連合軍の気迫は凄まじいものがあり風上に居る彼等によって風が熱されて飛空挺
に吹き込んできたが、流石に疲労を隠せない様子であり、予想よりも早く戦いに蹴りをつ
ける事ができそうだった。

 僕は乗り込んだ飛空挺にクレス王立研究所の一部をそっくりそのまま組み込んだ。僕は
何ヶ月ぶりか、『王立学術院研究所』へ足を踏み入れた。計画のために無傷で残してあっ
た研究所。飛空挺第一格納庫への扉を開けると、僕が勤めていた当時のそのままの雰囲気
が僕を迎えた。ただ、人気が無く建物はがらんと冷え込んでいた。しかし僕はそれが以前
との違いとして感じられなかった。
 精神と肉体は別個のものである。どちらが主でどちらが従なのかは分からない。それは
世界が存在することに対して理由が無いように、精神と肉体のどちらが主か従かを決める
のは不毛な論議だった。
 ナハトゥムの肉体は堅固なものだったが、ナハトゥムの精神は再生という人々の思いに
突き動かされ仮死状態になっている。だから今、ナハトゥムの魂に正のイメージを与えて
やると―。
 民は今、再生のシンボルを欲しがっている。絶対に寄りかかっても倒れないような存在
を。人々はそうやって神を作り、立憲君主制というシステムを発生した―もう僕が何を言
いたいのか分かるよね。
 レフィス。
 僕が望む―君が望む世界を新しく作ろう。淀みの無い、まっさらな世界から全てをやり
なおそう。そういった夢見るイメージが、世界を形作るんだ。僕の―君の、新世界を。
 僕は何時か君に『樹』の話をしたね。『果実』は『果実』だけでは存在できない。樹が
あって初めて果実がある。果実と樹は一体だ。だから樹から、果実を取り出すことが出来
る。樹から、君を取り出すことが出来る。ナハトゥムが人々のイメージが凝り固まって出
来たのと同じように、君は人々から君というイメージを得ることによって君は復活できる。
 僕はその持ち込んだ一部―小型実験炉の中に入った。あらかじめ動かしていた炉はおか
えりの声を上げて僕を迎え、格納庫ブリッジに所狭しと並べられた計器が針を振って出迎
えてくれた。ぼくはそんな仮説管制室の中央に立ち、腹に響きくような頼もしい唸り声を
聞いた。主循環ポンプが動く音、それは炉の血となる。反応を早めるため、設計限界一杯
まで制御棒を引き抜いた。そこで僕は立ち止まった。技術者としての血がそれを押し留め
た。しかし僕はそんな思いを振り払い、そして炉の上に立ち調整棒を全て引き抜いた。そ
して僕は全ての安全装置を切った。炉を暴走させるために。
 暴走の手順は知っていた。あの事故は政府の者によって詳しく解析され、それはチャー
トのようなものに纏められ今僕の手に書類として残っている。その手順通りに操作すれば、
炉は簡単にメルトダウンを起こす。僕は蒸気弁を閉じた。ボタン一つで、炉は言うことを
聞いた。それだけだ。
 熱が溜まった炉は暴走を起こす。実験炉の出力が以上に上がり始め、それは警告となっ
て僕に赤い光を照らした。僕はそれを恍惚の表情で眺めた。科学というのは人が神から様
々な叡智を勝ち取る事だ。科学史を眺めると、今まで人が何を勝ち取ってきたかがずらり
と並べてあり爽快でもある。炉を発明する事で、人は太陽を勝ち取った。しかしそれは紛
い物の太陽でしかなかった。
 太陽は人の手に負えない。だから人は生み出した太陽を『太陽もどき』としてそれを抑
えつけた。だからこれが、人が始めて目にする人工の太陽のはずだ。
 あの時は緊急用のボタンを押して制御棒が半分ほど降ろされた中でのメルトダウンだっ
た。いくら小型炉とはいえ、これを暴走させたら―。人はプロミネンスの一片を見るだろ
う。誕生の象徴である太陽の、生誕の息吹を。
 僕は飛空挺に穴を開けてもいい覚悟だった。浮遊装置は飛空挺の背に取り付けられてい
て、そこからぶら下るような形で飛んでいるので腹に穴が開いても外気の流れに乱れが生
じるだけで、飛行は可能だった。
 僕は決して狂気に駆られたわけでは無かった。僕は僕として正気を保っていた。少し熱
があっただけだ。
 雷鳴のような爆轟音が格納庫に鳴り響き、地が僕を押し上げ、身震いした。僕は床に叩
きつけられ、そしてそのまま振動が収まるのを待った。電気が消え、闇が部屋に降りた。
そして数秒後、非常用電源がぼやっと光球を作る。僕はその光を基に立ち上がり、ブリッ
ジからガラス越しに眺める事が出来る中央ホール―炉の上にある空間を覗いた。窓ガラス
は砕け散り、僕は窓から身を乗り出すことが出来た。
 中央ホールは暗闇に包まれていた。立ち上る煙でどういう状況か判断出来ない。僕は咄
嗟の行動で煙塵を吸い込んでしまい、飛び退いて嗚咽に近い咳を床に履いた。成功したか?
とにかく行ってみるしかなかった。僕は向かう。炉の下、配管室へ。
 天井は所々穴が開き、そこから水が滝のように溢れ出していた。通路は水路となり、こ
んな混乱の中である一方向を目指して整然と流れ行く。僕はそれに従い、下へと降りる。
このような状態でも換気扇や排煙器は作動して、通路は煙で占拠されてなかった。
 僕はそうやって下へ下へと降りていく時、様々な悲しみを感じた。亡霊に囁かれた、と
言ったほうが分かりやすいだろう。それは炉が爆発し、その中で生成されていた感情の残
滓だった。それらは一様に顔を歪め、運命の不平さを訴えていた。それは僕にはどうする
事も出来ない―そうやって僕はそれらを跳ね除けた。僕自身、僕をどうにも出来なかった。
 人の魂は無数の夢が凝り固まったものとすれば、僕の中の夢は結合力を失いそれぞれ反
目し合っていた。僕は確かに正気だった。しかしそれは分裂した夢が独自に主張する方向
性が正確なだけであり、纏め上げる僕は僕という一人格を成していないような気がした。
僕を衝き動かす夢が僕の身体を縦に動かす。僕はふらふらと蛇行する。この百日間、僕は
様々な僕を見た。僕はそれらに対しそれらの欲望のままに身を投げ出したが、それはどれ
も全て世界の枠組みの中に入らない不出来な歯車だった。だから僕は僕を捨てるしか世界
と妥協する道は無くなったのだろうか。
 いや、ちがう。僕は、レフィスを―
 水蒸気で空気が濃くなっていく。ショートした電線が青い線香花火を上げている。頑丈
な飛空挺だ。あれだけの内部爆発を起こし風穴一つ開いていない。
 メルトダウンという崩壊。その中心は安らかな空間だった。全てを突き詰めていった先
に存在する絶対の位置。求めていたものがそこにあった。
「レフィス!」
 僕は彼女を呼んだ。彼女の名を呼んだ。しかし声は返ってこない。僕は呼び続けた。
「レフィス、レフィス!」
 水蒸気で満たされた配管室で、カサリと水蒸気が立てない乾いた音が響いた。湿った空
間をその音は引き裂いて僕の鼓膜に飛び込んできた。
「レフィス!」
 またカサリという音がした。その音に確実性を感じ、僕は待った。彼女から声が返って
くるのを。カサリという音は、確かに僕の方に近付いて来る。白くぼやけた視界に黒い影
が浮き上がり、輪郭を結晶していく。
「……夢を見ているの、私は……」
 死んだはずじゃ……と黒いものは言った。レフィスの声をしている。レフィス……。
 極限状況下で響くレフィスの眠たそうな声は、緊張で張った空気をぶつ切りにするのに
丁度いい周波数を奏でていた。
 僕は水蒸気で赤く腫らした目を、さらに充血させた。
「ああ、君は夢を見ているんだ。君だけの夢を……」
「その声は、カイン……カインなの?」
 輪郭はレフィスの形に姿を変えていく。その足取りは僕の研究室に入ってきたのと同じ
ぐらい緩やかなワルツを踏んでいる。
 僕は手を広げた。レフィスを迎え入れるために。しかしレフィスは僕の一歩手前で止ま
った。
「痛たた……頬を抓っても痛いわね……寝てないみたいだけど……私は死んだ筈……」
 水蒸気がたまらないといった感じでレフィスは顔を俯かせてやってきた。ここで初めて
レフィスは顔を上げる。マスクとマントに体を包んだ僕を見て、レフィスは何を思っただ
ろうか。やはり恐怖だろうか。確かに最初それを見てレフィスは本能的に恐怖で顔を引き
攣らせたようだ。しかしそれは一瞬で、レフィスは直ぐに心の平衡を取り戻し―
「『ガディウス』……でもカインよね……?」
 レフィスが見せた表情は憐憫だった。やはり君は強いね、レフィス。でも僕も強くなっ
たよ。
「上へ行こう」
 僕はレフィスの手を握って、レフィスに催促した。レフィスの右手は冷たかった。それ
は水仕事をした後の手の表面を覆う冷たさではなく、ガラスの人形に触れているような透
き通る冷たさだった。階上へ登る間僕はレフィスを暖めようと必死で掌を握ったが、終に
温もりは訪れなかった。
「今ではみんな僕の事を『ガディウス』って言うんだ。カインじゃない」
 僕はクレス戦乱以外の事全てをレフィスに話した。クレス戦乱の事は実際に見て貰う方
が早く分かると思ってあえて口に出さなかった。それに言っても信じて貰えそうになかっ
たからだ。冗談を聞くような怪訝な表情を、レフィスは僕に対し常に向けていた。
 僕が乗り込んだ飛空挺にはデッキがあり、そこからは三百六十度戦場を全てを見渡せた。
僕は飛空挺に乗る時、その場所が好きだった。そこから世界を眺める時は、ブーリガルか
ら世界を眺める想い出を感じる事が出来たからだ。デッキから眺める景色は、全てをダイ
レクトに伝える。そこで何が起こっているのか、人は聴神経や嗅神経等周囲の状況を把握
するための様々なインターフェースを体に持つが、一番脳に栄養を与えるのが目だろう。
目から眺める景色ほど人にダメージを与えるものは無い。
 配管室は地下一階にあり、僕達はそこから一階層だけ登って外に出て、飛空挺デッキか
ら戦闘の様子を眺めた。
 三つ国連合軍の有効戦力は一瞥する限り戦闘開始時の四十パーセントまで落ち込んでい
るのではないだろうか。連合軍の陣地には火の手が上がっていた。こちらは報告を聞くと
まだ六十パーセントの兵力を維持している。形勢不利と連合軍は見たのか飛空挺に対して
特攻を試みていた。
 巨大魚が次々に飛空挺へと飛び込んでいき、船体を抉る。翼をもがれた飛空挺は黒煙の
道を炎を先頭に叢へと引いていく。そんな黒い楔が周囲に林立していた。少し僕の側が押
され気味だったが、戦力比からいくと僕の勝利は確定的だった。
 僕達はかすかな煙の塵を吸い込みながらそれを見た。それは飛空挺の燃えカスなのか、
それとも炉の排煙なのか、わからなかった。
「……!!」
 レフィスは空を攪拌する爆煙や燭光を見て言葉を失くした―いや、その情景に当てはま
るのに丁度いい言葉を知らなかったのだろう。だから僕が説明してあげた。
「僕が世界をリセットしたんだ」
 レフィスが僕の方を振り向いた。僕はそれに合わせレフィスの方を見る。レフィスの顔
は僕が期待していたあの憐憫の表情ではなかった。レフィスの顔は一様の悲しみだった。
これは悲劇じゃないよ、と僕は慌てて言葉を継いだ。
「新世界だよ。これは。だから全てがまっさら―」
「何が新世界よッ!!」
 彼女が始めて剣幕を見せた。それには微塵の同情も含まれていなかった。そして微かに、
憎しみの表情も目に湛えていた。目からは一筋涙が零れ落ちた。僕は心の中でちょっとし
たパニックを起こしていた。どういう事だい?一からやりなおせばいいじゃないか、レフ
ィス。
 僕は彼女を両手で抱きとめようとした。しかし彼女は後ろに後ずさった。僕は泣きそう
になる。
「君が世界の選択者だったじゃないか……君自身の手で世界が作り上げられるように世界
 がリセットされたんだよ」
 レフィスは頭を振った。それは、レフィスももう僕の手の届かない所に行ってしまった
事を示していた。
「世界は、私が決めなければならなかった……でも、私のために作られた世界ではないわ
 !」
「でも君が今見ている世界は君だけの世界だ。君が教えてくれたじゃないか、自分だけの
 世界なんだよ!」
「貴方が言っている事は、他人の世界を書き換えろという事よ!私には―人には、他人の
 世界を書き換える権利なんて持ちえてないわ!」
 しかし君の心を人は蹂躙したじゃないか。君はそうやって、死に至らしめられたんじゃ
ないか!僕は初めてレフィスに苛立ちを覚えた。ぱちぱちという遠くクレスが燃える音が
、僕達の心を炙った。
「君は……虐げられてきた。虐げられてきたから……僕は……」
「貴方は……残酷になる事で人から逃げているんだわ……。残酷になる事で人から距離を
 置いて、それで安らぎを得ている……。でも逃げちゃだめ、人と向き合わないと……人
 は一人では生きていけないのよ!例え他人として私を選択してくれたのだとしても、私
 に、私に逃げちゃ駄目!」
 彼女の瞳は涙で覆われていた。並行して飛んでいた飛空挺が撃墜され、爆炎の花弁を空
に撒き散らす。炎が涙に映り、彼女の涙はオレンジ色に染まった。僕はただそれをぼんや
りとしか眺める事が出来なかった。爆風がデッキを大きく揺らしたが、今の二人はそれを
気に留めることなくただ見つめ合っていた。
 彼女は心身困憊といった足取りで僕に向かってきた。僕の胸元に倒れこみ、僕に囁きか
けてきた。
「人は、弱いから心に襞を作るの。強さを演じるためのそれは刺じゃない。人は皆、根本
 的な点で分かり合えない事に苦しみを抱いているわ。だから、逃げるためじゃなく、向
 き合うために、心に襞を作るの……弱さを認めてあげて。カイン」
 彼女は何処までも強かった。その強さで、死をも克服した。しかし僕は、彼女が持つよ
うな強さは無い。だから僕は叫んでしまった。
 夢は崩れ去った。今此処に居る僕は醜態を晒すヒトケモノであった。確かに僕は今奈落
の底に身を砕いた。しかし待ち受けていたのは虚しい結末だった。底は穴の淵と同じ土塊
でしかないという絶望感に僕は身を震わせた。だからそれは僕の最期の悪あがきだった。
「僕が他人に―歯車に押しつぶされようと、それは運命になのかッ!」
 レフィスは直ぐに「貴方はそんなに弱い人じゃない!!」と反論し、眠りに就く子供に
優しく語り掛けるように、レフィスは静かに僕に語り掛けてきた。子供の頃の、貴方を思
い出してみて……。
 僕の少年時代。僕の脳裏に僅かに残るブーリガルの記憶が、千切れ飛んだブーリガルの
記憶が蘇る。僕は頬を涙で濡らしながら、少年時代に思いを馳せた。僕はブーリガルを飛
び跳ねまわっていた、風が生んだ少年だった。ノイズ交じりの映像が頭の中で回る。僕に
もこういう普通の、どこにでもある少年時代があったのだ、と僕は再確認させられた。
 では何でこんな結末に、こんな結末に……。
 レフィスは歌を口ずさんだ。それはあの事故の時炉で流れていたのと同じ歌だった。レ
フィス、何故それを知っている……。それを歌ったら、君は消えてしまうんだよ!レフィ
ス!
 レフィスは僕に対して微笑んだ。それは全ての物事を悟ったものだけができる、安息の
極致の表情だった。僕はレフィスを止めようと、レフィスの口を塞ごうと左手を挙げた。
しかしその手を、レフィスの右手が優しく抱きとめた。僕の掌はレフィスの右手に覆い被
さり、ちょっと前に押し出すだけで折れそうな右手を、僕は払い退ける事が出来なかった。
レフィス、どうして……。
 僕は―
 混乱する僕の頭を諌めるかのように突然閃光が走り、一つの考えが爆発的に思い浮かん
だ。それは賭けだった。勝ち負けの無い―必ず負けの目が出る賽を振るようなものだった。
僕の死。それがこの混沌から開放される、唯一にして絶対のものだった。
 僕はレフィスを突き放して、飛空挺デッキからブーリガルへと飛び出した。四万メルク
もあろうかという落差が僕に死を与えてくれた。レフィスがデッキの柵から身を乗り出し、
何か叫んだ。僕はそれに微笑を返し、手を振って、それで体が風に揺れた。ばいばい。
 意識が飛ぶ直前に起こる高揚感で僕は満たされていた。僕の周りを巨大魚の燐粉が包む。
僕の目から溢れ出る涙が空へ舞い上がる。涙に溶けた燐粉が太陽に反射し光の渦を作る。
そして僕も、天に舞い上がるだろう。
 僕は人生というのは死ぬまで続く自分探しの旅だと思った。生涯を通じて自分自身に葛
藤し、答えを求め遁走する。そうやって生きるのだと。たいていその旅は無為なものに終
わる事が多い。自らが歩んできた道のりを再確認しても、それの善悪や甲乙の判断は付け
られない。それを人々は運命と言う言葉で誤魔化し、人生の不平等を飲み込んだ。
 しかし僕は、それができる。あの頃の僕は、強い僕か。今の僕は、弱い僕か。僕はこれ
しか往く道のりは無かったのか。僕は他の道を選べる程強かったのか。後悔しかできない
筈の人生に、世界が偶然にも与えてくれた自分を再確認できるチャンスに、僕は感謝した。
 僕の体は靄となって叢へ墜ちていく者達と共に空へ舞い上がった。そして僕は、『樹』
へと、夢が折り重なる空間へと堕ちていった。
 望んでいた奈落の底が、そこにはあった。僕はやっと一時の心の平安を手に入れた。

 こうして、事実は神話に、記憶は口伝になった。
 貴族達の確執は神の対立となり、私は闇なる王という称号を与えられ、
 私の名前はガディウスとなった。
 三千年という悠久の時の流れの中、
 私の物語は一時的に閉じられる事になる。
 僕と君によって、ファントマイルへの扉が開けられるまで。

 まばゆい光が僕を包み、僕は目覚めた。頭が痛い。まだ頭は惰眠を続けている。
 僕は周りを見回した。白基調の部屋、一人用ベッド、病室だった。まだ学術院講堂に居
る僕の頭は一変した風景に戸惑い、状況を読み取れずにいた。僕の記憶が頭の中で再生さ
れる。
 場所は学術院講堂。時間は朝の十時。僕は卒業式に出席していた。卒業生として。僕は
卒業証書を受け取り、そして優等生として表彰台に立ち、記念杯を手渡し―される所で記
憶は途切れている。記念杯を手にし、突然世界が時計回りに回転して講堂の高い天井が眼
一杯に広がり―僕は失神したのか。それを証明するかのように、鈍い痛みが僕の後頭部を
襲う。その痛みで僕はもう一度まどろみかけた。
 しかし盛大な音と共に部屋のドアが開け放たれ、それと共に眠りに落ちる僕の感情が木
っ端微塵に打破された。反射的にドアの方向を振り向くと……。
 レフィス殿下……。
 大丈夫ですか?
 息を切らしながらレフィス殿下は僕に心配の声をかける。僕はただその様子をぽかんと
眺めていた。僕はこの件の騒ぎの主だったが、余りにも彼女の行動が突飛過ぎて今目の前
で起きている事に対し傍観者として僕は思わず身を引いた。
 大丈夫ですか?声が出せなくなっちゃったのですか?
「……大丈夫です」
 僕はそういえば彼女を見て気絶したんだ。緊張で心が昂ぶって、彼女と手が合わさった
時、僕のヒューズが飛んだ。
 ……初恋?
 レフィス殿下は寝ている僕の枕元に屈み込み、僕と目線を合わせた。
 大変……顔面が真っ青。
「……はい」
 僕はレフィス殿下を見たとき、高貴な人と相対する時に感じる緊張の念とは違った別の
緊張で動悸が早くなるのを感じた。そして面と向かい合ったとき、後者の感情が心の中を
瞬く間に占拠していった。
 今だってそうだ。
 わわ……顔が赤くなった。
「……はい」
 大丈夫ですか?顔を赤くしたり青くしたりして。
「……はい」
 ……私が近くに居たら落ち着かれないようですね。明日も来ますので、今日はこの辺で。
「……有難うございました」
 ちょっと待ってと言えなかった。もうこの機会を逃したらレフィス殿下と会えないよう
な気がしたけど、僕は気恥ずかしくて言えなかった。しかしレフィス殿下は次の日も来て
くれた。
 こんにちは。昨日は突然済みませんでした。私を見て気絶なさるからびっくりしちゃっ
て…。今日は果物持って来ました。今から剥きますね。
「有難う御座います」
 皇女殿下に何かをさせるなんて言語道断だった。しかし僕は、それを黙って見ていた。
女の子が剥くリンゴが、食べたかった。
 具合、だいぶ良くなりましたね。
「ただの失神でしたから」
 でもあの時は大変で、会場がパニックになって……。気絶されてたから分からないと思
いますけど、誰がどう指示したのか、救急車が五台も来たそうですよ。それにパトカーも。
「……はは」
 そういえば、一つ尋ねさせて頂きたかった事があるのですが……。卒業したらどうなさ
るご予定なのですか?
「研究所で、自分の学問の道を邁進しようと思っています」
 まぁ。後でゆっくりその話を聞かせてください。……あ、リンゴが剥けましたよ。食べ
て下さい。えーと……
「恩寵痛み入ります」
 ……えーと、名前、何だったっけ?


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