J& blog http://new.ciao.jp/ http://new.ciao.jp/blog/ ■ 05.08.16 イラストコーナーをちまちまいじってます。 ja 2009-11-08T05:46:32+09:00 伊藤悠『シュトヘル』2巻を読んだ http://new.ciao.jp/blog/archives/000478.html 伊藤悠『シュトヘル』 2巻 コマ割りで魅せてくれた1巻と比べ、大ゴマや絵の構図・表情勢いで見せる方向にシフトした印象を受けた2巻だが相変わらずすばらしい出来。 引用したコマは、伊藤悠のマンガに頻出する「人物の相貌+くねらせた手をアクセントに構図を作る」といった表現が見られるもの。個人的には「伊藤悠ポーズ」と名づけたいのだが、如何せんマンガをあまり読み込んでこなかった子なので元ネタがもしかしたらあるのかどうか分からず……。私が読んできたマンガの中では、森美夏氏もとても印象的なポージング&シルエットの手を描かれる人のように思われて、女性作家の手へのこだわりはステキだなぁ、とうわごとを言う始末です。... new 2009-11-08T05:46:32+09:00 「自分の作品を見て欲しい」という言葉 http://new.ciao.jp/blog/archives/000477.html 「自分の作品を見て欲しい」という言葉から生み出される意味は二通りあって、 ・自分の作品を世の中に問いかけたい(自分試し) ・自分の作品が世の中に認められたい(承認欲求) というそれぞれ正反対な感情を形作れてしまいます。 つまりは自分の作品をアピールするとき、「自分の作品を世の中に問いかけたい」という建前を語りつつも、本音は「自分の作品が世の中に認められたい」なのだということを隠して他者に語りかけることも可能であり。もちろん戦略的にそういった本心の隠蔽をはかることも時と場合と目標によっては大切だとは思うのですが、あまりにもその言葉の二面性に頼りすぎて、建前でとして取るべき行動がとれない人というのが、ワナビーさんにおける「作品の感想をくれと言われたので言ったら怒る」さんだよなぁ、と。 確かにあまりにもひどい感想(ただの悪意の投げつけとか)を返されたらムッとするのは致しかたないのですが、自分の場合はムッとしつつも、「あー狙っていたゾーンとは外れた受け手さんにボール投げちゃったな」と考えて、上手くストライクゾーンに入るようにボール(作品)の軌道修正をする方向に行くほうがいいと考えていて。「自分の作品を(世界中の人に)見て欲しい」なんていうことはごく一部の才能の在る人にしかできないのだから、「自分の作品を(自分が受け取って欲しいと思う人に)見て欲しい」という、対象層をはっきりとイメージして作品を制作して、しかるべき場所にて発表するのが普通の人間にできる唯一の努力なのではないでしょうか。 ワナビーさんについて私のまわりで語られているとき、そのワナビーさんの技量(絵描き志望なら絵の上手さとか)が話題の中心になることが多かったのですが、こういった抑える方向でのセルフプロデュース能力というのも問題として取り上げられていいんじゃないか、とここ数年思いをめぐらせています。... new 2009-04-04T13:55:11+09:00 伊藤悠『シュトヘル』1巻について その2 http://new.ciao.jp/blog/archives/000476.html シュトヘル (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)伊藤 悠小学館 2009-03-30売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools その1で説明させていただいたとおり、伊藤悠という漫画家は漫画が掲載される冊子の持つ構造――紙の連なりから生み出すことのできる演出にとても意識的です。先ほどはページ単位で区切ってそのことについての説明をさせていただきましたが、今度はコマ単位に注目して、伊藤悠の巧みな表現技術についてお話させていただこうと思います。尚、この先の文章には『シュトヘル 1巻』についてのかるいネタバレがございますので、気にならない方のみこの先を読み進められて下さい。... new 2009-04-02T03:30:24+09:00 伊藤悠『シュトヘル』1巻について その1 http://new.ciao.jp/blog/archives/000475.html 日本の漫画というものは、普通は物語が絵とセリフによって紡がれて、それらは複数のページに分割されて綴られていき、結果いちからお話を読み進めていこうとすると、最初のページから最後のページに向かって順々に読み進めていくことになる――といった体裁がとられます。 伊藤悠という漫画作家はそういった漫画の持つ“一方向性”にとても自覚的で、氏の作品はその一方向性を利用したコマ運びにより、とても上手にストーリーの中へうねりをもたらしています。 _... new 2009-04-01T23:29:04+09:00 良いものを良いと言い過ぎる病 http://new.ciao.jp/blog/archives/000474.html 自分が好きなものの欠点を認めよう。 − (Something Orange-) 海燕さんのこのエントリーに便乗して常日頃から思っていることを書き下だします。 一般的に何かを褒めることはいいこととされていて、その一般的正しさの上にあぐらをかいて、言っていることに責任をとるのを忘れることがままあります。 褒めて褒めて褒めちぎるあまり、「こんな素晴らしい作品を作った人は素晴らしいに違いない!」とか、作品の中の一語一文まで称賛してしまったり。もちろん褒める対象が素晴らしいものなのだろうと、理解できるにしろできないにしろ、褒める理由のなかに論理的一貫性があればいいのですが、ただ自分のフェティシズムや気持ちに形ばかりの理屈をつけ、自分を正当化したいだけの称賛というのが、世の中に存在してしまうのです。 「昔の方が良かった」とか、「子供の頃のアニメ・マンガは素晴らしく、今は駄作ばかり」とか、ですね。 こういった「関連性の低い何かと何かを比較し一方をほめちぎる」行為について、わざわざ「他の人の創作物と比べてあなたの創作物は良い」と比較しなくても、ごく単純に「あなたの創作物が特に好き」と言えばいい筈なのです。それなのにわざわざ『他の人の創作物』という言葉を使ってしまうのは、世の中に無数に存在する創作物にヒエラルキーを持ち込みたいからにほかならないからで、それは「好きなあまり対象物を特権化したがり、ほかのものを貶める」行為だと言えるでしょう。私が同人活動をしていると時折、こういう褒め言葉に遭遇し、その都度困惑しました。何故なら他に、相手にとって素晴らしいものが生まれたら、自分の創作物は相手のヒエラルキーのためにただ卑下される対象に成り下がるのですから。 好きという言葉を言うだけでは、対象物の素晴らしさは解説できません。それは自分の感情をただ発露しただけに過ぎず、それだけでは人に伝わる力をもった言葉になり得なく、それが感情に過ぎないが故に、すぐその感情は裏返る可能性を秘めているからです。 言葉を作り何かを伝えるとき、言葉に責任(海燕さんのエントリーの場合は、欠点を認めるという自制心)をこめるということ。その重みが相手へ気持ちとして伝わっていくものになるのではないでしょうか。... new 2009-03-12T23:41:54+09:00 久しぶりに『風のクロノア』関係のコンテンツを追加しました http://new.ciao.jp/blog/archives/000473.html クロノアの新作が明日発売ということで、発売に合わせて以下の更新を行いました。 ・10年前に雑誌に連載された記事の書き出し ・去年の冬コミに出した同人誌に載せたマンガの転載 マンガについてはpixivで既に公開していたモノになります。今見ると絵が厳しい…… インタビューについては、語られている内容は公式サイト上にあるリレーエッセイで公開されているものと重複しているものが多いですが、プロデューサーの吉沢秀雄氏の率直な意見が伺える連載記事になっていますので、クロノアがお好きな方はどぞどぞ。... new 2008-12-03T23:44:55+09:00 宮崎駿が描く食事がうまい理由 http://new.ciao.jp/blog/archives/000470.html 自分が確かに「そうだ」と感じているはずなのに、そこに現れた事象を言葉に変えて、「そうだ」と感じる理由を説明しようとするとき、「そうだ」と感じたものは急に手の平の上から消えていってしまう。「そうだ」と感じていたものをよく探してみると、たとえばシークエンスの連なり、カットとカットのすきま、画面にうすぼんやりと、あるいはちいさく映る何か――の中にわずかに溶け込んでいるのを時々、ごくわずかに発見したりすることがある。つまりそれが映像演出というものであり、それこそがただのフィルム上のコマのつらなりを映画という物語に変えていくものである。 宮崎駿が描く食事がうまい理由 − (ラノ漫―ライトノベルのマンガを本気で作る編集者の雑記―-) それは魔術のようなものであり、確かに高潔な魔法使いがわれわれにまじないをかけたからだといった風に誤認しても仕方がないかもしれない。しかしひとびとは魔法使いの幻影を見ているわけではなく、映像の先に魔法使いを見出して映画を鑑賞しているわけではない。映像評論を行ったり、なにかを批評する時はまた話がかわってくるかもしれないが、子供のときはどうだっただろうか?果たして作者の人となりというものについて、どれくらい意識していたのだろうか? 宮崎作品をダシにして、うまいメシのアニメ史を語ってみる − (法華狼の日記) 多くの人がそれを認め、同時になぜそう思うのかをうまく説明できない「宮崎駿のうまそうな食事演出」について、いくつかのシーンを例に挙げながら自分なりに解釈していこうと思う。 _... new 2008-10-16T03:53:57+09:00 絶望とよりそいながら、絵を描いていくということ http://new.ciao.jp/blog/archives/000466.html 上手い人のばっかり読む/見るとボッコボコに凹んで立ち直れなくなるっていうのはあるな。いろんな分野でそういうのある気がする。 Twitter / wideangle(t.kiuchi): 12:40 AM March 18, 2008 from web 「自分が通用するようになった」みたいな達成感を次のやる気へと変換できない、と。 Twitter / wideangle(t.kiuchi): 01:16 AM March 18, 2008 from web in reply to matakimika 自分の実力を大きく超えて目が肥えてしまった絵描きは悲惨である。自分が出力したものが自分の目で評価するに及ばない状態が長く続くと、向上心だけではカヴァーできなくなってくる。そういうタイプのひとが、ある程度は描けてしまうために創作に手を染めると悲劇が起こる。 Twitter / Yuu Arimura: 11:11 PM February 25, 2008 from web Twitter /... new 2008-03-20T02:11:30+09:00 デジタルワールドに育まれた彼ら「デジモン世代」の心たちについて(書き途中) http://new.ciao.jp/blog/archives/000465.html 気がつけばもう2月の後半で、2月の最後までブログの文章をゆっくりと書く時間がとれなさそうにないので、1ヶ月に1回更新させる!という意味合いで、前々からゆっくりと書いている文章をUPします。 いずれは完全版をUPする予定なので、その際にはこのエントリーを消去する予定です。 先進世代と後進世代の対立というのはオタクの世界以外でもあることで、それは先進世代がその文化空間で地位や地歩を固めるため、後進世代を支配しようとしたり、あるいは拒絶しようとしたりする等といった摩擦によって生じる。後進世代はその空間で生き残るために、先進世代に「弟子分」として認められたり、或いは先進世代を凌ぐような知識や業績を得る必要があるのだが、逆に、先進世代の影響力が少ない文化空間で独自のコミュニティを形成し、そこで生きていくという方法が取られることがある。 若年オタクにつきまとう劣等感よりも不気味な何か - (Over the Rainbow -或るオタクの遠吠え-) 一部分の記述に執着してしまうのも何だが、この記事を読んでまず疑問に思ったことは「デジモン世代」と呼ばれる彼らは先ほど述べたことの後者の文脈で「デジタルモンスター」というアニメ(と、それを取り巻く空間)を楽しんでいるのであり、「デジタルモンスター」というアニメへのノスタルジーや、「デジモン的な作品」というジャンル幻想が消えない限り、“閉塞”という状況は生まれないのではないか、ということだ。つまり、彼等が愛する「デジタルワールド」が共同幻想を保持する豊穣な空間である限り、彼らは“閉塞”とは無縁であろう、と。 この記事で述べられていることは、上の世代から与えられる圧迫感の印象、といったようなものであり、だからこそ私はこの記事が相手方にとって謂れのない言い掛かりになることを恐れてトラックバックを飛ばすことをとどめたのだが、しかしながら私はあるポジティブな期待を表明するために記事を書き進めさせていただくことにする。それは、「デジタルモンスター」という作品に象徴される新しい形の文化への期待だ。... new 2008-02-21T06:24:51+09:00 細田守作品におけるディティールの偏向性 その2 http://new.ciao.jp/blog/archives/000460.html デジモンアドベンチャー DVD-BOX藤田淑子 坂本千夏 風間勇刀 Happinet(SB)(D) 2007-12-21売り上げランキング : 1138Amazonで詳しく見る by G-Tools TVアニメシリーズ「デジモンアドベンチャー」は細田守が監督した作品ではなく(監督は角銅博之氏)、氏はTVシリーズ中のたった1話「21話 コロモン東京大激突!」しか演出していません。 本来ならば、TVシリーズ全体の雰囲気と、「コロモン東京大激突!」の異質性なども踏まえて文章を綴らなければなりませんが、今の私にはそれを書きまとめるだけの筆力はありませんので、この記事では21話のみについて言及する、といった形にさせていただきます。まぁ、おかしなところがあればやんわりと指摘してくださいね、ということで……。... new 2008-01-08T16:06:07+09:00 細田守作品におけるディティールの偏向性 http://new.ciao.jp/blog/archives/000459.html 最近は「河童のクゥと夏休み」という映画にぞっこんで、「クゥ」を自分なりに説明するために雑文をちょろちょろと書いたりしています。 そして公開直後、知人と「クゥ」について話したことを思い返したりしていたのですが、その中で「劇中に出てきた東北新幹線の3DCGのディティールが残念だったこと」についての話題が出たことを思い出しました。 確かに「クゥ」はメカニック描写について非常に淡白な映画で、主人公一家の車などもあまり描きこまれていません。 ただ、それはコスト削減の観点から行われたことではなく、私はそれが「そこはあまり、原恵一監督が重視する観点ではなかったから」だと考えています。 写真撮影において、人物をクローズアップしたものを撮りたければ、人物にピントをあわせてその他のものにはあまり焦点をあてない、といったように、 重要でないところはギリギリまで焦点を当てず、観客の関心を逸らさないといった配慮を行ったがためにあそこまでディティールを落としたのではないでしょうか。 そういうディティールの調整について、「クゥ」の中で指摘するならば、たとえばそれは「劇中で出てくるペットボトル飲料において、内容物が水であるならば必ずラベルにどこの産地のものかが書かれており、逆に清涼飲料水ならばラベルには何も書かれない」といった形で現れるのですが――それはここではさておいて、本題の細田守監督作品におけるディティール調整について語っていくことにします。... new 2008-01-08T14:43:58+09:00 C73 冬コミでの活動内容について http://new.ciao.jp/blog/archives/000458.html ↑見開きのページにつかう絵です。 表紙出来上がったらUPしようと思っていたらうわーコミケまでもう時間ないじゃんということであわててとりあえずはと、12月29日〜31日に東京ビッグサイトで行われる「コミックマーケット73」においての、当サークル「J&」(一応サークルブログのつもりなんですよ!)と私newの参加状況おば。後で丁寧に書きます。きっと。 ・めずらしくサークル参加してます。 12/29(土) 東ニ-22b「J&」です。 新刊「やがて巡り来るこれからの日々のために 試読版」 無料配布で60部ぐらい刷るの予定です。 既刊も持って行きますー。 「salvation by faith records」さんの「クロノアファンディスク3」を委託予定です。 あと知人のお風呂さんの同人誌も委託予定ですが、5部とかしかありません。 ・夏コミに引き続き「シロマル本」なる同人誌にゲスト寄稿しています。今回出るのは3だそうです。詳細はこちら。シロマルって何?謎です。これと関係があるみたいですけど、まぁなんというかよくわかりません。 とりあえず今日は寝ます!... new 2007-12-29T03:03:31+09:00 「夢の追憶」という作品と二次創作というジャンルの力強さについて http://new.ciao.jp/blog/archives/000454.html このサイトはゲームシリーズ「風のクロノア」と「スターフォックス」に関するファンサイト――のはずが、今はそれぞれのゲームのファンが運営する日記サイトと化してしまっているのですが、それはさておき。今回はそんなクロノアファンとしての自分が大好きな、「夢の追憶」という同人誌についての紹介を、二次創作というジャンルの意義についての説明を絡めて書いてみたいと思います。 ■同人誌データ 作品名 / 初版発効日 夢の追憶1 1999年 8月13日 夢の追憶2 2002年12月29日 夢の追憶3 2005年 8月12日 発行サークル:一版館 著者:エレナ... new 2007-12-10T14:32:36+09:00 図書館をぶらついていたらこんなゴアな本を見つけたよ http://new.ciao.jp/blog/archives/000451.html ゴア [Goa]とは 1:インドの南西海岸にある州。鉄鉱の産地。1510年ポルトガルの植民地となり東洋貿易・カトリック宣教の拠点として繁栄。 (三省堂提供「大辞林 第二版」より) 2:ゴアトランスのこと。1980年代後半にドイツで誕生したトランスが、リゾート地でありバックパッカーの聖地でもあるインドの西海岸ゴアで発展した。(wikipediaより) 3:転じて、サイケデリックでカオスなものを表すことば。 「チュチェの国 朝鮮を訪ねて」という本を見つけました。 チュチェというのは漢字に直すと“主体”。北朝鮮の国を統一するために使われているイデオロギーとしての主体思想のことですね。私はドキュメンタリーやルポタージュの本を読むのが好きで、最近だと「カラシニコフ(松本 仁一:著 )」という本が、AK-47という自動小銃を巡りアフリカの「失敗国家」が翻弄されていく姿を活写していて続編とともにかなり面白かったのですが、その本を返しに来た時に見つけたのがこの本で。目次をぱらぱらと眺めたら「力づよい千里馬の進軍」とか「チェチェ思想の本質と科学者の任務」とか「大いなる愛情の配慮」とか何やらタダモノではない雰囲気だったので思わず借りてきました。 まだぱらぱらと読んだ限りではあるのですが、それだけでもかなりのゴアだったので、この記事で画像による引用を交えながら少し簡単に紹介させて頂きます。... new 2007-11-14T21:35:08+09:00 電脳コイルのキャラクターデザイン http://new.ciao.jp/blog/archives/000450.html 現在NHK教育で放送中の「電脳コイル」というアニメは、アニメーターの力量に描くべき表現の多くを委ねて画面を構築しています。たとえば、上に引用したOPアニメーションからのキャプチャー画像(左)を見ると、人物がすばやく動く時にぼやけて見える輪郭のブレまでもをアニメーターによって輪郭線で表現しようとしており、京都アニメーションなどデジタルエフェクトに力を入れている制作スタジオが撮影段階で行っている、デジタル処理によるモーションブラー効果(右画像。「涼宮ハルヒの憂鬱」第7話よりキャプチャー)などとは一線を画した表現手法をとっているのです(ちょっと分かりにくいので、こちら大きな画像をおいておきます)。 このことは監督が著名なアニメーターであり、その為なのか技術力を有するアニメーターが集まったという事ではなさそうです。電脳コイルという作品においてはデジタルエフェクトは、モニター画面やネットウィルスなど不可視なものを中心に行われ、人間など実体のあるものはできるだけエフェクトをかけず手描きで行うという所から鑑みて、この線引きは「ネット」「現実」があいまいになった作品内世界を表現する上での取り決めであるのでしょう。 さて、アニメーターによる手書き作画への意識が強い電脳コイルなのですが、キャラクター作画については、そういった動きのアニメートだけではなく、キャラクターデザインの段階から既に、「いかにしてキャラクターを動かし、そのキャラクターを表現するか」という細やかな意識が強く働いています。私は電脳コイルの作画については目のまわりと、特にほっぺたに注目して毎回見ていまして、顔の輪郭ラインのどちらか双方に飛び出してディフォルメされるほっぺたが、口元での演技を一役かっているなぁ、と感じています。口で感情を表しているショットをいくつか上にキャプチャしてみたのですが、これを見ると感情をはっきりと出すキャラクターについてはほっぺたがとんがり強調されて、あまり表に出さないキャラクターについてはこのディフォルメを抑えてデザインされていることが分かります。電脳コイルを見られていない方は、さきほど文中リンクを貼らせて頂いた電脳コイルのキャラクターページ中に掲載されている、京子のキャラクターイラストを参考にしてください。体全体で感情を表現する幼児である京子の口周りは、大きくゆったりと膨らんでいるのです。ほっぺたで感情を表現するゆりえ様萌エスを参照するまでもなく、ほっぺたはその人を特徴づける大切なパーツの一つです。具体的には口唇によってほっぺたが動くので、声に感情を押し出す人ほどほっぺたの動きが大きくなる、ということです。 電脳コイルはアクションなどただ動きの作画がいいというだけでなく、ほっぺた周りのように顔の輪郭ににじみ出る人間の感情の機微を、キャラクターデザイン段階で落とし込んでいるアニメでもあるのです。... new 2007-11-10T20:51:51+09:00