『亡くなった気仙沼の女の子』の“デマ”を「笑ってあげるのがちょうどいい」と言える精神が理解できない
東日本大震災から一年を前にしたタイミングで、Facebookを中心に『震災で亡くなられた女の子』の携帯に残された文章と銘打たれた画像が出回っていたようだ。しかしこの画像には不自然な点が多く、以下のように捏造ではないかという指摘がなされている。
震災姉妹 最後のメールはデマ!? - Hagex-day.info:
[NS] 父親にメールを送りながら亡くなった気仙沼の女の子はいなかった
――こういう話題がネット上で盛り上がる度に出る反応のひとつに「悪気のないデマなので構わない」というものがあり、上記記事のはてなブックマークページにもそれと似たコメントがいくつか記されている。
s-ryoo これは特定の個人もしくは団体等を攻撃するデマではない点まだ悪質とは言えないだろう。
komamix 社会, 災害 今回の件は最初の話が分かりやすく商売も明示してあるのでそこまで悪質だと思わない
mAKotO 別にそれで感動する人がいるんだったらそれで良いじゃないかと
その中で、特に気になってしまったコメントがあった
nakamurabashi とりあえず捏造であることが確実に明らかになった場合、最初にやることは「ありがwwwwwwwクソ吹いたwwwwww」って笑うことかな。善意の建前はねー、強固だから。爆笑してあげるくらいでちょうどいいと思うよ。
nakamurabashi氏は震災当日、おそらく比較的震度が強かった関東地方にお住まいで、そういった意味では震災の被災者と言える立場の方だろう。しかし、この話がデマだったとして、そのことに「爆笑してあげるくらいでちょうどいい」とコメントできる立場なのだろうか?今回の地震で、身近に残念ながらご不幸にあわれた方がおられたり、物的に大きな被害に逢われた方でないと、そんな軽々しい判断はできないのではないかと、私は思ってしまう。
なぜ私がそう考えるかについて、そこにはいくつかの前提が存在する。
まずは元の文章が捏造か否かであるが、このコメント自体が「捏造であることが確実に明らかになった場合」を想定してなされたものなので、一旦はこの文章が捏造だったということにする。
そしてもう一つは、捏造であった場合「この文章を書いた人が、被災された方か否か」という判断である。
この画像を作られた方について、Facebookのページなどを軽く拝見させていただいた限り、被災者かどうかについては判断ができない。ただ現在は大阪にお住まいであり、執筆されているブログを拝読すると、震災が起きた3月は被災地から「遠い地」にお住まいであり、当月中に現地へ「救済」に足を運ばれるほど、幸いなことに震災直後は大変なご苦労をされなかった方のようだ。
仮にもしこの方が大阪にお住まいだったとして、確かに大阪でも、地震の影響で高層ビルに被害が生じるなど、震災の被害がなかったとは言い難くはある。しかし震災から一年を迎えてもなお我々に新しい事実として次々に伝えられてくる、激甚被災地の当時の状況や現状などから鑑みて、果たして遠方の被災地と気仙沼のような今だなお震災の傷がいえぬ地域を同列に扱うことができるだろうか。
つまり、被災されなかった方が勝手に被災地の出来事を捏造し流布することについて、被災地の方はどう感じられるのだろうか、という問題である。
「タイタニック」という、1997年に作られた有名な映画がある。
当時としては最先端のCG技術や巨大な模型を駆使し、膨大な資料をあたり製作されたこの映画は、当然ながら監督のジェームス・キャメロン以下主要スタッフ達は1912年に発生したタイタニック号の事件の遭難者たちではない。
ではこの映画についても、「父親にメールを送りながら亡くなった気仙沼の女の子」のお話と同じく「遭難されなかった方が勝手に事件の出来事を捏造し流布」したものかというと、いくつかの偶然や汚点があるにしろ、フィクションとして作られたストーリーであるという時点で大きな隔たりがある。
少しばかり、「タイタニック」に登場した一シーンを紹介しよう。
映画の冒頭で、タイタニック号に乗船した主人公が沈没したタイタニック号の調査船に呼ばれ、エンジニアに最新の分析に基づくタイタニック号沈没の様子を説明したCG映像を見るという場面がある。
軽妙な語り口とともに説明を終えたエンジニアに対し、主人公の老婆が「沈没していく様子はこの通りだけど、少し違っていたわ」と語りかけ、ストーリーは1912年のサウサンプトン港へと巻き戻っていく。つまりこのシーンは観客へ、スムーズに昔の出来事へと没入するためのきっかけとして設定された意味合いを持つものなのだが、エンジニアと老婆の対比についてはこういう見方をすることもできるだろう。
つまりはこのシーンでは若きエンジニアと老婆という、「非体験者と実体験者との隔たり」が描かれている、と。
もちろん、このシーンをもって私は「非体験者が実在の事件について語ることはおこがましい」、というようなことを言いたい訳ではない。
むしろ、相手が明らかに非体験者であるからこそ、「実際はこうだった」と体験者が確かに反論できるのだということに、私は注目したいのだ。
震災の被害を幸いにして被らなかった人々が語る「震災のストーリー」について、甚大な被害にあわれた被災者の方は力強く反論をすることができるだろう。
しかし、被災者でない方が「被災された方の話」としてストーリーを語り始めると、そういった反論をすることができなくなる。
なぜならこれだけの範囲に震災被害が広がっている現状、「そういう事実もあった」として受け止めなければなくなるからだ。
そして、もし被災者でない方が語った「被災された方の話」が捏造であったらどうだろうか?
被災者でない方が勝手に、自らの望む形で震災という壮絶な事実を書き換えていくことを、私はどうしても「爆笑してあげるくらいでちょうどいい」という気持ちでやりすごすことはできない。
しかもこの『父親にメールを送りながら亡くなった気仙沼の女の子』のストーリーは、もともと流布した人物の書籍の宣伝が文章の末尾に添えられていたものだった。
「最後に伝えたかったこと 〜故人に伝えたい47のメッセージ〜」 はこのような命の大切さを気づかせていただける、ご遺族様の機長な言葉を、
同じく手書き文字・挿絵いり のタッチで出版いたしました。
点字本・朗読CDもまもなく完成予定です。
ちなみにみにこの書籍を購入したところで売上の一部が何らかの団体へ寄付されるというような説明は、公式サイトにはなされていない。
残された証拠や記録を集めて、いくら事実に近づけたとしても、事件や災害について被災者でない者たちは想像するにとどまり、それらを体験することはできない。いくらでも、いくらでも被災者の方々から「事実とは違う」という指摘を受けることになるだろう。
しかし、その指摘から再び思い描いたストーリーを組み立てなおすことで、被災者の方々の体験に近づくことができる。そしてそれが、被災者の方々に寄り添うということになるのではないだろうか。
そういった努力を放棄し、勝手に自らが望む被災者像を構築し、利用する。
それは「傲慢」という言葉でおさまらない、あまりにも非道な行為だと感じる私には、「爆笑してあげるくらいでちょうどいい」とはどういうことなのか、どうしても理解できないのだ。