絶望とよりそいながら、絵を描いていくということ
上手い人のばっかり読む/見るとボッコボコに凹んで立ち直れなくなるっていうのはあるな。いろんな分野でそういうのある気がする。
Twitter / wideangle(t.kiuchi): 12:40 AM March 18, 2008 from web
「自分が通用するようになった」みたいな達成感を次のやる気へと変換できない、と。
Twitter / wideangle(t.kiuchi): 01:16 AM March 18, 2008 from web in reply to matakimika
自分の実力を大きく超えて目が肥えてしまった絵描きは悲惨である。自分が出力したものが自分の目で評価するに及ばない状態が長く続くと、向上心だけではカヴァーできなくなってくる。そういうタイプのひとが、ある程度は描けてしまうために創作に手を染めると悲劇が起こる。
Twitter / Yuu Arimura: 11:11 PM February 25, 2008 from web
Twitter / Yuu Arimura: 11:15 PM February 25, 2008 from web
あとは、上記のwideangleさんとmatakimikaさんの応答の中で出てきた、こちらの記事とか。
世界統一ランキングが簡単に見えるようになって、井の中の蛙にならなくて済むようになったが、同時に井の中の蛙でないと、努力するモチベーションも生まれにくいという話です。(中略)
これは羽生名人の言葉。報われないかもしれない努力をできることが「才能」というのは納得。
ネットによっていきなり世界統一ランキングに放り込まれると努力するモチベーションを持ちにくくなる - ARTIFACT -人工事実-
_
_
一番最後に取り上げられた話題はゲームの話で、ゲームのような「一定のルールに基づいて、その中で技巧を競う」形の、つまりルール違反を行うとペナルティが発生する装置の中ではランキング問題が出てくるかな、と。
しかしながら、先ほどの記事のはてなブックマーク欄などを見る限り、これが普遍的なモチベーションを持続する話になっているのがすこし疑問で。例えば私が興味のある絵についてのお話をさせていただくと、商業流通用の作品は違うのかもしれませんが、趣味の世界において絵は既製品作りじゃないのだから、「一定のルール(規格)に基づいて、その中で技巧を競う」ものではないだろう、と(そして、それは他の趣味の世界でも同じではないのか、と)。
上手い人のばっかり読む/見るとボッコボコに凹んで立ち直れなくなるっていうのはあるな。いろんな分野でそういうのある気がする。
絵が下手くそな人間として、上手い絵を見てへこんだり(特に同年代とか年下の方の絵が最高だ)、一時的に立ち行かなくなるのは理解できるし、実際自分もそうなのだが、それは突き詰めるところ心の持ちようの問題であるので、自分がどれだけ絵が上達したとしてもへこんでしまう心は変わらないことだろう。「○○さんとっても絵が上手いですよー」「いや足りない、まだ足りない」という掛け合いは、よくあることだ。
自分の実力を大きく超えて目が肥えてしまった絵描きは悲惨である。自分が出力したものが自分の目で評価するに及ばない状態が長く続くと、向上心だけではカヴァーできなくなってくる。そういうタイプのひとが、ある程度は描けてしまうために創作に手を染めると悲劇が起こる。
そして、このことについては特に、上手い絵を構成する要素である技術力に、絵の価値や評価基準を預けすぎなように感じてしまう。絵というのは、技術力以外にも、様々な要素によって評価される総合的な芸術メディアだ。それはデュシャンが便器を美術館に置いたことを引き合いにだすまでもなく、昔から変わらないことではないだろうか、恐らくは。
私が絵を描きはじめたのは、子供の頃に描いていた一頭身カービィもどきマンガ(私の年代なら思わず誰でも描くもの)が由来――ではなく、そういうのを描いていた私が周囲で一番絵が上手いと思っていた無根拠な子供の全能感が、ある日兄が見せてきた自身の上手い絵により打ち砕かれたのが一番の始まりだった。そこから「自分の方が上手いのに!」と全能感を取り戻すために絵を練習しはじめたのがきっかけだったり、この「私を見て見て!」なウェブサイトを立ち上げるに当たって、自分の絵を飾って感想が欲しかった(みんな自分をほめて!)からだ。
だから、そういった描き始めにおける自分の中の原始的な欲望が鎌首をもたげてくる時、私も「上手い絵を見てへこん」だり、モチベーションが落ちてしまったりしてしまう。しかし、時が経って自分の絵を描く目的が変わり、落ち込んでしまったとき、自分に対して「自分は同人誌、特に自分が好きな物語のマンガを描きたくて絵を描いている」「小田川幹雄みたいな絵を描きたいけど、やりたいのは初代デジモン劇場版みたいなマンガだろ」と言い聞かせるようになると、自分の心にやる気がよみがえってくる。つまり、絵だけではなくて、ストーリーなど別の要素に作るものの価値を分散させているのだ。デュシャンが便器というモノを泉というイメージに見立てさせることになった「何か」が、私にとっては絵を構成する、キャラクターやストーリーなどの外部要素なのだ。
―ーちなみに、そう価値を分散させるものはストーリーとかではなくて自分の性欲にして、抜き目的のエロ絵を描いてもいいのだろうけど、私個人としては自分より上手い自分のエロ絵師さんが現れた時、容易にアイディンティティ・クライシスを起こすので没にしている。別に自分描かなくても、その人に描いてもらえばいい、と思ってしまうだろうし。
――そんな自分なので、描きたいものを描ききることができれば、絵を描くのをやめると思う。私はその程度の人間だけど、でもきっと描ききることなんてできないから、しばらくは絵を描いていくような気がする。
で、世の中の多くの絵描きさんもきっと私と同じく、理想を描ききれないから描き続けているのだろうとか思ったりする。そしてこれは私が世の中に提唱したい仮説とかではなくて生きるためのダサいライフハックなので、反論はゆるさない(笑)。
追記:ただ自分は、紆余曲折あってあって、他人からの評価や感想を聞くのが(それが肯定的であれ)とにかく怖くなってしまった人間であり、今まで書いてきたことは、最後に書いたとおり自分一人で絵を描いていくモチベーションを得るためのライフハックなので、かなり不健全だと強く感じている。そんなに他人が怖ければ、極論としてヘンリー・ダーガーみたいに文字通り「チラシの裏」に描いていればいいのだし(つまり、なぜ自分はそうまでして同人誌を作って他人と関わりを持ちたがるのだ、それは自己顕示欲で絵を描いている側面があるからじゃないのか、という)。
自分としては、創作は自分一人ではなく、他者との対話によって生まれるものであってほしいので、それに逆らう、生き方優先のこの考えは、悪論であることを希望する。人はそこまで他人を拒絶できるほど強くないし、その弱さが人を芸術に向かわせるはずだから。