20040622
子ども達のためのネットの有り方ついて。今現在思っていることのまとめその2。
この後某所の方も書かないといけないので
コメント欄への返信はお休みさせていただく事にして、
……いやぁ、一日も経つと人間なに考えていたのか忘れてしまいますね^^;
えと、何書いたのだったか――というあやふやな状況で、
でも言いたいことはぼんやりと形作られているのでこのままのテンションで頑張って行きます。
――以上、前回の書き込みともし矛盾している部分があったら
大目にみてやって下さいね、という自己中弁護でした。
(前回の書き込みから続いて)
もちろん、カビくらには体育会系にカテゴライズされるような人も来てたでしょうし
私の身近にも腹筋割れてるギャルゲー好き(→オタク)野郎がひとり居るので、
カビくらは、そういった文化系と体育会系と安易に分けられた定義の
文化系に分類された人達のみでコミュニティが形成されたというのは、これは間違いでしょう。
(また、管理人であるワタチー氏は2004年現在競馬学校に通っているバリバリの体育会系です)
しかしまた、そういった現実世界におけるコミュニティにおいて
主導権を握りやすい体育会系の人でも惹きつける魅力がカビくらにはあり、
またクラスからはじき出された文化系の救済機関としてもカビくらは機能していました。
(これは思い入れが強すぎるから過度に美化した誇張表現かもしれませんが、
まぁ、それぐらい楽しい空間だったということだけを読み取って下されれば……)
また、カビくらという場は小中学生で構成された場とは思えないほど秩序が保たれた場で、
(これについては以前の日記で取り上げた坂本旬氏のレポート「子どものメディア環境と倫理」を参照。
あと『小中学生で構成された場』と書いたが厳密にはそうとは言えなかったりします。
カビくらのコミュニティには大勢の小中学生の他に数が少ないながらも大学生や社会人が参加していて、
表立ってはなかったが彼らが主導権を握る場もあったと思います。
そしてカビくらで使用されていた掲示板のCGIスクリプトは彼らによって改良され利用されていました。)
前回の日記で上げたようなネット倫理にもとる行いは極力忌避されていました。
そしてその秩序は自発的に形成されたものであり
決して規約文等から押し付けられたものではなかったのです。
(強烈な事に、カービィくらぶには多くのファンサイトにあるような
「荒らし書き込み禁止」等の注意書きが一切なかった!参考)
よく「子どもはそういう倫理感が未成熟」といった意見が聞かれるのですが、
こういった事例を見る限り、必ずしもそうとはいえない――いや、
この意見については全否定しても構わないんじゃないかと感じます。
カビくらの話題はここまでにしておいて、今度はCafestaにおけるコミュニティと
カビくらにおけるコミュニティの違いについて比較してみることにします。
(以下私の無根拠で勝手な暴走推論。申し訳ないッス……)
これは私が2年半サイトを運営してきておぼろげに浮かんできたことなのですが、
私はウェブサイト(主に掲示板)における交流について
その形態から二種類に分類できるのではないかと考えています。
「一人称型コミュニティ」と「三人称型コミュニティ」の、二つに。
一人称型コミュニティとは、サイトにおいて管理人のイニシアチブが強い状況で発生するコミュニティで、
サイトには一見さまざまな人が訪れるように見えても
そこでは「わたし(=管理人)」と「あなた(=訪問者)」の二者関係しか成立しえません。
訪問者同士の会話が成り立たないコミュニティなのです。
私のサイトとか、記事に付く返信が私のものしか無いのでこのコミュニティに当てはまります。
三人称コミュニティとは、サイトにおいて“場の空気”が場を支配する状況で発生するコミュニティで、
サイトでは訪問者どうし、管理人関係なく様々な会話を繰り広げています。
つまりこの三人称というのはよく小説作法で取り上げられる視点のことであり、
三人称コミュニティにおいて管理人は訪問客と対等の立場でしかなくなっているということを指します。
ではこの分類をCafestaとカビくらに当てはめてみると、Cafestaは一人称型、カビくらは三人称型ということが浮かび上がってきます。
(実際、被害者や加害者少女のHPでは掲示板への書き込みが頻繁に行われているにも関らず
その書き込みのどれもが「初めまして」書き込みばかりで、
訪問者同士による記事の応酬はまったく交わされていませんでした)
一人称型というのは前述した通り、構造上管理人の権限が物凄く強いコミュニティスペースとなり
物凄く管理人のローカル・ルールの幅を利かせやすい場所になってしまうのです。
つまり管理人が独裁者となりエゴが発露しやすい場所になると。
何せそこは自分の“ホーム・ページ”であり自分の心を許すままに原理上何をやってもいいのです。
そしてもしそのエゴが暴走してしまうと歯止めが利かなくなり
TVでご覧になった通りの、加害者少女が過激な日記を書くようになるのです。
私はこの「Jekyll & Hyde」という一人称コミュニティを、何時もそのことについて心を配って運営しています。
その、第三者からの冷静な視点による普遍的な倫理観っていうのが、ページ形成において全く働かないのです。
何せ対話できる相手は一人だけですから、そんな二人だけでは議論が成立しない。
二人ではどっちかを打ち負かさない限り多数決がとれないのです。
これが――加害者少女が日記に書いたような過激な内容を三人称コミュニティにおいて書き込むとどうなるか。
ま、カビくらなら非難ゴウゴウで瞬殺がオチかと。
または、親切な人が内情を聞いたりして慰めたり、対策を立てることになったりという展開が考えられます。
つまりは決して少女にカッターナイフを持たせるような展開には極めてなりにくい。
それでももし刺しちゃったなら、それはネット以外の別の強い要因が働いたということでしょう。
少なくとも、ネットが彼女をけしかけたということにはならない筈。
(こういうことを書いてると「じゃあ2ちゃんねるはどうなるんだ」とよくツッコまれるのですが、
あれは「匿名」という個人から一個メタを上った世界のコミュニティであり、
ハンドルネームで書くのが基本になっている(=自我がある)カビくらの――
三人称コミュニティには当てはまらないというのが私の反論です。
つまり、カビくらでは西鉄バスジャック事件のようなことは起こらないのではないかと)
さて、ここまで長々と綴ってきてやっと結論なのですが、
ネットにおける子どもが当事者・被害者となったトラブルについて、
これだけ書いておいて、やっぱり現状では
親の躾や学校の教育に任せるしかないのではないかと思っています。
――しかしそれは現状での話であり、
もし今、カービィくらぶのような場があったら話は別です。
子どもたちが大勢で遊ぶとき、親はいちいちその状況を見ていましたか?
きっとその現場を親は見ていないし、また親は安心して子どもを外に送り出しているでしょう。
何故なら、子どもには既にある程度の秩序やマナー遵守などの協調性を守る心がはぐくまれているからです。
私は当事者としてカビくらを見てきました。
そこでは子どもたち独自の手によって秩序だったコミュニティが形成されていました。
これはネット上でも、また子どもたちだけでも、他人に迷惑をかけない
協調性のあるコミュニティが作れるという証左なのです。
現在カビくらのようなコミュニティは残念ながら見当たりません。
そんな状況では確かに躾やマナー教育が必要でしょう。
しかしそうやって「危険なので川に入ってはいけません」のような規約規則で縛る前に、
カビくらのような子どもが自由に遊べる公園を
ネットに置くのも検討してくれないのかな、と私はいつも考えているのです。<他力本願
子ども達のためのネットの有り方ついて。今現在思っていることのまとめ。(6/25追記)
以前書いた日記「しさつじけんについてちょっとだけ」について、
日記中で取り上げさせて頂いた論文を書かれた坂本氏からコメントを頂き、
またリクエストを求められるという栄誉を承ってしまったので、
とりあえず今思っていることだけを書かせていただきます。
前回の日記、言葉遣い汚かったのもあり。
あんな汚い文章を論文なんかに載せてはダメですよ!坂本さんの名誉に関りますからッ!
(あとそれに、言葉が汚かったら被害者や加害者少女のHPに掲載されていた文章と同じように
読み流されてしまうという危険性もありますので)
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6/25追記分:経済学者である木村剛氏がこの件について取り上げていたので、思い切ってトラックバックしてみる。
ええい、もうとことんやったれ。
あとやはり木村剛氏も
「相手の痛みがわかりにくいと、
人間の攻撃性は必要以上に増幅する可能性があるようだ。
ネット・コミュニケーションにおける誹謗中傷や罵詈雑言の類もそういう面を持っている。
人を傷つけるという行為の意味――他人の痛み――が分からないということが、
さらなる攻撃を招来していく。」
という事を書かれているが、その後に
そういう意味で、常に大人が介在する「擬似社交場」で育てられた子供たちは、
「残酷」という体験を十二分に心の中で消化することなく、
「子供らしさ」を演じているのかもしれない。
本来子供は自分のエゴを自由に発散する存在である。
ところが、「擬似社交場」の中で「子供らしさ」という
大人の価値観の中だけで純粋培養されてしまうと、
「他人の痛みを感じる」という学習を十分にしないまま身体だけが成長していってしまう。
と書いてしまっているのがナゾです。いや、なんとなくニュアンスは分かるのですが、
「ネットを介してそういう対人関係観の構築」っていうことに結び付けて頂けるのか、
それともやはり「現実が大切」だと思っているのかどちらでしょう。
私としては前述がいいな。もし後述だったらこれは大ポカでは。
だって、今のこの世の中でどれだけ現実を触れられる機会があるのでしょう?
高校時代どっぷり“現実”に漬かったヤツにとことんまで追い詰められた私として、
うーん、現実>>>>ネット世界っていうのはありえない方程式なんですよ。
すくなくとも私としてはネットでのコミュニケーションの方がよっぽど人間のあたたかみに触れられたので。
追記終わり。
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長崎女児刺殺事件について、そのあまりにも大きい事件の衝撃により
様々なページやBlogにおいて、子どものネットへの関り方が論壇の俎上に乗せられている。
その多くが「子どもにはネットを扱わせるのは危険すぎる」といったものや
「子どものネットの利用状況を親は監視するべき」という否定意見であり、
また、この問題の解決策としてほぼ大勢が「子ども達へのネチケット教育」を上げており、
「こういった子どもが生まれてきたのは親がきちんと躾なかった責任」
「こういった子どもが生まれてきたのは学校教育の責任」とまとめている。
その意見に対しては私は確かにすこし同意する部分があるが(理由は後記)、
全面的にその二者に責任を押し付けるのは私にとって大きい違和感や疑問を覚える。
すみません。みなさん、子どもの頃友達と遊ぶとき親の監視の下で遊んでましたか?
すみません。みなさん、子どもの頃遊ぶ時親や教師のいう事なんか真剣に聞いてましたか?
個人的にこの事件は、子どもに対するネット世界のいびつな構造がもたらしたものだと思うのです。
例えば被害者・加害者少女が運営していたHPの、これはそのスクリーンショットなのですが
(上3枚加害者、下2枚被害者。プライパシー保護のため一部ガウスぼかし加工)
これらを見れば分かるとおり、
Cafestaというサービスを利用した彼女らのページはものの見事に自分語りの場になっているんですよ。
それは何故かというとCafestaはコミュニティの場を提供すると宣伝しながら与えるものは公園ではなく自分の家だからだと思うのです。
またCafestaとは別に、小中学生のユーザーが多いと言われるぱどタウンにおいて、
ぱどタウン内の一部ユーザーが打ち立てたローカルルールの歪さや
ぱどタウンでの私用目的にぱどタウンとまったく関係のない画像掲示板が無断利用される等の問題が
最近web論壇において「ぱど厨問題」として提起されているのですが、
(“ぱど厨”問題については風野春樹の読冊日記の6月14日分〜「ぱど厨になってみる」に詳しいです)
見てみればこのぱどタウンというのもユーザーに部屋を与えるだけで公園を与えていない。
コミュニティを標榜しておいて運営者がやっていることはユーザーに殻を与えているだけだと思うんですよ。
そして一部ユーザーのマナーに反する行動は、そういうプライベートな場を
与えられた部屋の外に無制限に拡大した結果起こったものではないかと。
――この話題を置いておいて別の話題に移る。
個人的な話をさせてもらうと、
私は中学2年生の頃にネットを始め、そこから1年間とあるサイトに入り浸っていました。
「カービィくらぶ(以下カビくらと略します)」という名前のそのサイトは物凄い数の常連を抱えていて、
毎日掲示板やチャット、そして小説発表所やお絵かき掲示板において膨大な数の発言や投稿がなされ、
掲示板は午後5〜7時のピーク時にはページをリロードする毎に新しい記事やそれに対する返信が書き込まれ、
またチャットは午後4時の小中学生が学校を終える頃から深夜0時まで一足が絶えず、
多いときには28人が同時に入室するなど物凄い大盛況っぷりでした。
正直言ってしまうと私はその当時カービィについてあまり興味がなく(そして今も……)、
それなのに何でカビくらに入り浸ってたかというと、その場がとてつもなく魅力的だったからなのです。
小中学生時代を思い出して下さい。
学級内において、ヒエラルキーって運動できるか出来ないかに集約されると思いませんか?
つまり、体育会系を頂点とする支配ピラミッド(文化系は最下層)に。
私はドッチボールにおける「いるかいらんかジャンケン」で「いらん」と言われるような素晴らしいぐらいのもやしっ子で、
また好きなものはアニメにゲームのダメ人間ダブルパンチでした(そして今も)。
そういう“ネクラ”な人間は学級内である意味“排斥”(例えば昼休みのドッチボールとか)され、
クラスの隅っこや図書館に固まってアニメの話をじめじめしたり、
そういう扱いや状況に陥ってしまうんじゃないかと思うのです。
それはそれで楽しいのですが、しかし少人数のかなしさ、やっぱりどこか“飽き”が来るんです。
そしてそういう状況に陥っていて、そんな“飽き”を感じていた私にとって
大人数の常連を抱えるカビくらで掲示板に書き込むことや
チャットで日々の雑談を交わすことは、他者とコミュニケーションを交わす
本当のよろこびを感じさせる、充実した体験だったのです。
(「カービィくらぶ」はサイト名に「カービィ」を掲げ、一見ファンサイトのように見えるが
掲示板やチャットで交わされる話題のほとんどはカービィとは関係のない他愛ない雑談で、
小説発表所ですら『カビくら常連が出演する小説』が投稿される等、
ゲームのファンサイトと一つの言葉で括れない空間でした。
『カービィを知っている同志が集まるサイト』、かな?)
まだまだ続く――
20040609
しさつじけんのことちょっとだけ。
とりあえずしさつじけんについて。
もうこの問題についてあちこち語られまくっているので私から言えることは無いが、
まぁとりあえず――
子どものメディア環境と倫理
インターネットコミュニティの発展と文化変容
ここで取り上げられている「カービィくらぶ」っていう所は私が中学生のころに常連していたサイトで、
まぁそれはそれは非常に面白いサイトだったんですよ。
掲示板にはピーク時に1分に一回カキコミが来るわチャットには人が絶えることが無いわ、
思えば一日中カービィくらぶに入り浸っていた時もあったなぁ、と。
とまぁ、何が言いたいのかというと
被害者加害者が運営していたネットという名前の交換日記のことじゃなくて、
なんかこー、子供の養育にかんして無責任が人が多いな、と。
巷で言われている「ネットが危険だ!」っていう論調は、どこか
「あの遊具は危険だから撤去しよう!」っていう論調とシンクロするんですよ。
カービィくらぶをすんごい楽しんでいた私としては、ナハハとか思う毎日です。
もしネットが取り上げられたら、次に取り上げられるのは何でしょうね状態。
痛みを知らずして、分からずして痛みを感じることはできないと思うんだけどな。
小学生以上でも、いわゆる“厨房”という存在が居るように。
20040601
スターフォックスとはアナーキーなゲームだった。
サイトのトップにある説明文を書き換えた。
なんというか、どうやら私がスターフォックスに惚れた点は
世の中の大勢の人がスターフォックスに惚れたポイントと大きくずれているらしい。
以下「私がスタフォのどこに惚れたか」を書きつつ新作スタフォ批判を綴ったので
新作スタフォがちょっとでもいいと思った人は一切読まないで欲しい。
人それぞれの好みですしキチ○イの好みなど知らない方がいいでしょうし。
元来、スターフォックスというのはアナーキー(反政府的という意味で)なゲームだった。
例えば初代のスターフォックスにおいて、フォックス達は“義賊”や“怪傑”的なスタンスをとっていた。
事実上の次回作「スターフォックス64」ではスターフォックスは“雇われ遊撃隊”となり、
コーネリア軍とは袂を分かつ存在だった。
ストーリー性の高い「64」においてスターフォックスは無策の政府に対抗してジェームズが組織した部隊であり、
「64」はその最後においてペパー将軍の要請をことわり“何処か”へ旅立って行く。
それもそのはず、彼らはその“何処か”に旅立たざる終えなかったのだ。
もともと政府や軍隊へのカウンターとして組織された存在なのだから。
私はスターフォックスのこんな点が好きだった。
この世に勧善懲悪など存在しない。
悪には悪なりの“善”な理由があり、
善は善であるが故に何かを“悪”としなければいけない。
スターフォックスにおいて、劇中ではアンドルフが悪、コーネリアが善と一応は描写されていた。
しかしアンドルフの悪にはそれなりの理由があり、
また善玉であるコーネリアには内部には腐敗という名の悪を抱えていた。
スターフォックスは必ずしも勧善懲悪の二元論の世界ではなかったのだ。
善が悪を倒すだけのシナリオであれば既にコーネリア軍はアンドルフ軍を滅ぼしていたはずだ。
悪が善を滅ぼしかける(コーネリアまで攻め入れられる)倒錯した世界を救った第三者。
二元論で込み入ったゴルディオスの結び目を断ち切る存在。
スターフォックスは私にとって常にそんな存在だった。
しかし今度の新作スターフォックスのこれは何だろうか?
善は善たろうと延々と悪を捏造し続け、画面から匂ってくるのはあからさまな勧善懲悪の腐臭。
スターフォックスはもはやコーネリア軍の実質的な下部組織となり、
ゴキゲンなことに60〜70年代の悪しきアメコミ的なコスチューム(http://lylatwing.com/img/arm/sfgc_art07.jpg)を着ていたりする。
私は宮本氏は日本のキャラクター文化を蔑ろにしているとは思っていないし、
そういった文化を熟知してあえてこのキャラクターデザインを選択したと思っている。
しかしアメリカのキャラクター文化は日々進歩している。
そんな中、能天気に60〜70年代アメコミ文化を踏襲しようとするスターフォックスのデザインを
どうしても時代錯誤的ではないかと思ってしまうのだ。
いや、時代錯誤っていうか、バカ。
だってあれよ?今新作スターフォックスがやろうとしてるのってアレじゃね?
ブッシュ大統領が言うようなイラク戦争の“正義”を妄信してるようにしか思えないんだどこの狐動物っていうか畜生は。
あ、ちなみに私はイラク戦争を全面批判している訳ではないし、
戦争前のイラクの現状が大量兵器の有無にかかわらずどうにかすべき状態だと思っている。
でも私の貧弱な頭ではあの現状を変えるにはブッシュ大統領と同じく戦争しか思い浮かばなかったし、
今の現状を仕方がないと思っている。
――でも「これ以外には選択肢はなかったのか?」っていうやり場の無い、どうしようもないむなしさが有るんだわ。
んで、そういう有る筈のむなしさをかなぐり捨て、
“おれたち正義!お前ら悪”って二元論で話を進めようとする新作スタフォがすんごい気に入らないのです。
戦争って決して正義でやれるもんじゃないと思うんですよ。昔から。
第二次世界大戦以前の戦争は正義じゃなくて一身上の都合(笑)で行ってたし、
戦後ベトナムとかアフガンとかでやった正義の戦争で、どこもかしこも失敗してると思うんですよ。(ユーゴ空爆は別か)。
でもその正義で戦争やっちゃってるスターフォックス。
そんなクソッタレな概念でシューティングしようにも、私はノらないんですよね。
あーあ、でもみんなそんなスターフォックスがいいんでしょ?
もういいよー。私降りた。ばいばい〜。