20071114

図書館をぶらついていたらこんなゴアな本を見つけたよ

ゴア [Goa]とは
1:インドの南西海岸にある州。鉄鉱の産地。1510年ポルトガルの植民地となり東洋貿易・カトリック宣教の拠点として繁栄。 (三省堂提供「大辞林 第二版」より)
2:ゴアトランスのこと。1980年代後半にドイツで誕生したトランスが、リゾート地でありバックパッカーの聖地でもあるインドの西海岸ゴアで発展した。(wikipediaより)
3:転じて、サイケデリックでカオスなものを表すことば。

チュチェの国 朝鮮を訪ねて」という本を見つけました
チュチェというのは漢字に直すと“主体”。北朝鮮の国を統一するために使われているイデオロギーとしての主体思想のことですね。私はドキュメンタリーやルポタージュの本を読むのが好きで、最近だと「カラシニコフ(松本 仁一:著 )」という本が、AK-47という自動小銃を巡りアフリカの「失敗国家」が翻弄されていく姿を活写していて続編とともにかなり面白かったのですが、その本を返しに来た時に見つけたのがこの本で。目次をぱらぱらと眺めたら「力づよい千里馬の進軍」とか「チェチェ思想の本質と科学者の任務」とか「大いなる愛情の配慮」とか何やらタダモノではない雰囲気だったので思わず借りてきました。
まだぱらぱらと読んだ限りではあるのですが、それだけでもかなりのゴアだったので、この記事で画像による引用を交えながら少し簡単に紹介させて頂きます。

■寄稿者がゴア


東大名誉教授の方や横浜国立大学教授の方などが並ぶ中で、私をいちばんびびらせた成田知巳第7代日本社会党委員長。年長の方から「昔市民団体の人は『中国の核はきれいな核、アメリカの核はきたない核』って言ってたんだよー」という話を聞いたとき、冷戦終結後世代の私としてはその風潮にいまいちピンとこなかったのですが、上に引用した画像を見るだけでなんというかもうすさまじい破壊力です。
ちなみに成田委員長、冒頭だけでなく中身もすさまじく熱く語られていますので(ニクソン大統領の北京への敗者の行脚とか)、その熱意に打たれて思わずスキャンしてUPしました


■文章がゴア

中学時代、父親の本棚にあった本多勝一の本を読んでいたので、左翼的表現にはある程度免疫があるのですが、久しぶりに読んだからか結構クラクラときました。たとえばP14からのこんな記述。

われわれの時代は、また、植民地民族解放闘争が激しく展開され、帝国主義の植民地体制が手のほどこしようもなく崩れつつある時代であります。数世紀にわたり、資本主義と帝国主義によって抑圧命線を断ちきる偉大な革命勢力に成長し、すでに数多くの人民が帝国主義のくびきをかなぐり捨てて、新しい生活を創造する道にはいっています。人民を勝手に搾取し略奪し、侵略と戦争をこととしてきた帝国主義は、世界の反帝革命勢力の強力な打撃と、日ましに激化する内部矛盾によって抜けることのできない窮地に追い込まれ、下り坂を歩んでいます。帝国主義が日をおって衰退、没落し、終局的に滅亡することは、いかなる地下rをもってしてもはばむことのできないわれわれの時代の基本的な趨勢であります。

……この素晴らしい力強さ!小説とかを執筆する時に参考にできそうです。リベリオンの二次創作とか


■中身がゴア

「チュチェの国 朝鮮を訪ねて」は1974年の本です。北朝鮮の国家や経済体制の崩壊・腐敗が日本で報じられるようになったのは冷戦崩壊後だと思うのですが、この本が出版された当時から体制に疑問を持たれていた人は少なからず居られたみたいで、文中にも「ある雑誌からチョソン民主主義人民共和国訪問の感想についてインタビューをされ、そのなかで「キム・イルソン主席への“個人崇拝”の度が過ぎているのではないかと言われますが……」という質問をうけた」という記述があります。しかしそれに対しての返答が「配慮なしにズバリと言うならば、「個人崇拝」であるかないかというような議論は、わたしにとってはどうでもよいことなのです」とカッコ良過ぎます。
それ以外にも、「視察した北朝鮮の農場は特別に作られた展示用のものではないか」という質問に対し、「わたしが見た共同農場は中級のものであり、それよりすぐれた共同農場もおくれた共同農場もあるだろうが、問題はおくれた共同農場が進んだ共同農場に発展する必然性があるかないかということである」といったように、どこか独特の味がある受け答えがこの本には蔓延しています。


■寄贈者がゴア


ノーコメントです。


……さて、こういう北朝鮮礼賛文を読むたびに、私は北朝鮮脱出者が執筆した数々の文章を思い出さずにはいられないのですが、その中で特に印象深かったものをひとつ、紹介させていただいて、この記事を終えたいと思います。
それは「北朝鮮大脱出 地獄からの生還」という本なのですが、著者である宮崎俊輔氏は帰国事業で北朝鮮に渡られた方で、その後北朝鮮を鴨緑江から脱出して日本政府が用意したチャーター機で日本へ帰国され、そして日本で始まった閉塞的な暮らしに至るまでの一部始終が余すことなく書き記されています。北朝鮮での暮らしはともかく、日本に帰国してからも援助が受けられないわ履歴書が書けないから就職できないわでことごとく絶望的な生活が淡々と記されていて、その中で特に印象に残ったものを以下に引用します。

やがて九月になった。その夜は曇り空の合間から時折月が顔をのぞかせた。電気が途絶えた真っ暗な部屋に私たち家族四人は会話もなく、ただ家の壁に背をもたせて、呆けたように外を眺めていた。雲間から差し込んできた月光が良玉と相基、美湖を照らし出した。肉のいっさいがそぎ落とされた、まったく陰影のない枯れ木のような体が浮かび上がった。

(中略)

「俺もおまえたちの顔も骸骨だ。このままではみんな長くない」。私はとうとう胸の内をうち明けた。
「越境しようと思う。家族一緒に行きたいが……、体力がもたないだろう」
「どうぞお父さん覚悟を決めてください」
しばらくの沈黙の後、美湖は泣きながらそう言った。
「私たちは大丈夫です」。良玉は丸まってしまった唇で話した。「生きてさえいれば、また会えますから」。
相基は何も言わずうなずくだけだった。長居をしていると決心が鈍ると思った私は立ち上がり、戸口に向かった。

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