思考のメモ ――われわれは受け手でも作り手でもないということについて
例えば人間は欲望によって動く生き物だとして。
すると、作り手も受け手もともに「自分の考えを発信したい欲」で色々な創作(作り手だと)や発言(受け手だと)をしている訳であり、ただその手段が「自分が変わる(作り手)」か「他人に変わってもらう(受け手)」の違いだけなことが分かったりする。
その傾向はとくに匿名掲示板において顕著で、そこでは様々なニュースやネタに対して「世の中間違ってるよ」みたいなオレ倫理を振りかざして物事を断罪したりする。そして坂東眞砂子の"ねこころ”にしろ、のまネコや2chVIP系ブログにしろ、匿名掲示板のスレッドは"ネタにする物事”と"それに対してコメントをつける我々”とが掲示板のシステム段階で断絶され(コメントをつける我々(=受け手)は物事(=送り手=作り手)に対して直接的なアプローチをかけられない)、これに限らずネットでは相対するべき受け手と送り手の間に圧倒的な断絶が存在することがある。
情報技術の発達と安価なハイテク機器の普及は、人を容易に発信者−−送り手にさせることを可能としたが、逆にそれがあいまいな中間層を排除し、作り手と受け手の二分化を進めたということはないだろうか。具体的にいうと「将来作り手になりうるであろう受け手」の消失だ。
受け手は皆が将来作り手になる可能性を秘めているともいえる。それにオタ文化なんてものは受け手であるオタが浴びるように消費したネタをサンプリング&リミックスして新しいものを生み出すリサイクル文化だ。そこでは受け手と作り手が渾然と混ざり合い一つの濁流を生み出し、そのダイナミズムがオタ文化の熱気を特異なものとしていると言えるのではないだろうか。しかしネットは上記リンクのように受け手の立場しか存在しないネタを蔓延させた。パロディとしての諧謔は理解しやすい表面だけをなぞった罵倒芸へと変わり、受け手は"ネタにする――できる物事”から捏造した「面白さ」から得られる快感と共感で“暇つぶし”という大切な日々の糧を得、作り手はそうして無自覚に振るわれたノミにより身を削られ血を流す。私は当初このエントリーを理解することができなかったが、この考えを援用すると読み解くことができるかもしれない。「夜は彼女の中に住む大勢の「天原君」… 読者の声が彼女を責めさいなむ時間だったから。 もちろんそれに耐えられるかつぶれるかも単に作家の能力だから、彼ら読者は好きなように言えばいい。」きづきあきらはヨイコノミライ4巻で“それ”を表現する。情報技術の発達と安価なハイテク機器の普及は、人を容易に発信者−−送り手にさせることを可能としたが、同時に脆弱な送り手はネットに依存しすぎる結果を生み、ネットにおいて“弱者としての圧倒的強者”となった受け手たちの好奇の目に耐えず晒されるリスクを生んだ。ヨイコノミライはその物語の最後で未来への展望と成長の予感を描き、崩壊したコミュニティに救いの手を差し伸べる役割として新しい仲間と関係を展開したが、ネットはどうか。この広大な世界で、どうやって仲間を見つければいいのだろうか。
話を作り手側の立場に変える。私はここで松本零士氏のような立場をとるつもりは無い。私的な話をすると創作は現実との過酷な対話によって生まれると思っているので、立場としてはむしろ逆だ。しかし対話と一方通行のコメントは違う。そして日本における創作界隈で往々にして見かけるのが、後者に基づく「作り手の絵や日記による呼びかけ:それに対してポジティブな反応を返す大勢の受け手」という名ばかりのコミュニケーションだ。昔は即売会のサークルスペースなどでしか会えなかった机越しの彼らが、今では「いつでも、どこでも」PC越しにweb拍手やブログのコメント欄を使って、短文だけど大量のコメントとして作り手に押し寄せている。
しかしネットはシームレス・ボーダーレスでありながら城壁を作る。相手はモニターの向こう。コミケなら島端に開いた出入り口を通って“あちら側”から“こちら側”へ、簡単に呼び寄せることができるけど、ブログの記事欄とコメント欄には圧倒的な隔たりがある。もちろんそこからIRCや、メッセンジャーを使って彼らとの距離を近しくすることはできるけど、多くの場合彼らはそれをしない。もちろん前述した受け手の無自覚な暴力から自衛する為でもあるが、それは必要最低限のレベルを越えると『作り手として、特権的な地位を守るため』へと転換する。大量のコメントはかれらにアイドル的な“作者”の自負を与える。繰り広げられるぬるい内輪褒めのコミュニケーション。慰撫。IRCやメッセンジャーに閉じこもり、時折やってくる意志の強い『作り手志願者』の子を相手したり排除したり運がよければ仲間に居れたりして、自分たちの作家世界を守る。こうして彼らの周りには、「自分たちと同じ人々しか存在しない」世界が生まれる。
ネットはどうしても自らの立ち位置を定義せざるおえない局面を作ってしまう。さらに「作り手/受け手」という区切りは冒頭で述べたように曖昧なものであるが故に、各々が勝手な「作り手/受け手」像を作り、身内以外、匿名掲示板以外で通用しない倫理が形成されていく。そしてコミュニケーションはその内部のみで完結するため、他者への共感――われわれは受け手でも作り手でもないということは顧みられない。果たして勝手に簡単に、そうやって他人を、そして自分を定義していいのだろうか?
私は所詮受け手に毛が生えた程度しか実力を持ってないし、私の本を買ってくれたり、絵を見てくれたりする受け手の中に私以上の実力を持ってる人は、きっとたくさん居る。明らかに私より知識を持っている人はきっと、青田買いっつーか私をかわいがって買ってくれてるんだろう。そしてそういう人たちとサークルの前で立ち話をするのは、すごく楽しい。そして私は信じる。人間の心性は同じ、「人は誰でも作り手になり、受け手になる」ということを。だから私は自分のことを作り手とは思ってないし、受け手とも思ってない。同人誌は出してるけど、新しくてエロくて楽しいものを作っている覚えはないし、同人誌を出しているのは新しくてエロくて楽しいものを見つけたいからだけだ。作り手だけではなく、受け手だけではない、チュートハンパな存在でいられる特権的地域。そこで限りなく自由に、私は過ごしたい。同人世界はそれを肯定してくれた。さらにネット世界も、デビューした7年前からずっと、そんな自分を許してきた。
私はネット世界で生まれた親友のほうが、現実世界で出会った親友より多かったりする(すべてが数で決まるわけではないが)。ネットでは何度も、断絶によって生まれた不寛容に愕然とした経験を持ったが、遠くの人と、そして現実世界では会うことすら敵わなかった人と長時間対話できる魅力は他の何にも替え難いものであり、私はそれだけでネットのコミュニケーションを肯定できる。
情報機器はマジックアイテムだ。文字ベースのコミュニケーションは自分の“演出”を容易なものにする。そこでどんな自分を作り上げていくか――それこそ、作り手としてのわれわれの真価が問われるところだろう。
自らへの戒めのため、そしていつか作り手になる人に対して、この文章を記す。
参考:伊藤計劃:第弐位相 - ぼくとあなたはちがうということ
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